第2話 海

1:濃沼信雪


 「濃沼、暇か?」


 帰宅しようと席を立つと同時に横から声を掛けられた。


 高校生活2度目の夏が来た。6月になり、すっかり暑い日が続くようになってしまい、人口密度の高い教室は居心地が悪い。


 今日は部活もないしすぐに帰ろうと思っていたのだが、声を掛けられては無視をするわけにはいかない。


 「暇だったら何かあるのか?」


 「俺も暇だから遊びにいこうぜ」


 屈託なく笑うのは、俺の数少ない友人である明星航一だった。彼とは高校からの付き合いだが、剣道部で一緒になったのがきっかけでよくつるむようになった。


 明星は、我が部で誰よりも剣道が強かった。俺よりも1年遅い小学3年生からはじめたようだったが、俺は彼に一度も勝てた試しがない。明星とまともにやり合える奴は、学校には師範しかいない。それほど、彼は強かった。


 だが、素行が悪いため大半の大会を欠場する。よく退学にならないなと感心するが、それは生徒の俺が気にすることではないだろう。


 「俺はいいけど、お前、学園に連絡したのか?」


 「もうしてるから大丈夫」


 明星は、訳あって児童養護施設愛月学園で生活をしている。むろん、そのような生活拠点である以上、俺らよりも外出等には厳しかった。つい遊び過ぎて門限を過ぎることもままあり、その度に説教されているらしい。


 「糠部も誘ったんだけどアイツ塾に行くらしくってさ。サボればいいのにな」


 糠部というのは、俺らと同じ剣道部の生徒だった。糠部壮介は、クラスは違うが明星としょっちゅう一緒にいる。一見真面目そうな男なのだが、明星が他校の生徒と喧嘩しているのを面白がって着いていくような奴だ。


 「あー、俺は糠部の穴埋めな」


 「ちげぇよ、二人を誘う気だったんだよ」


 「はいはい。で、今日はどこに行くつもり? 喧嘩ならよしてくれよ、面倒くさい」


 「違う違う。今日は海に行くんですよ、濃沼くん」


 「海? 男二人で?」


 「そ。ほら、行くぞ!」


 明星は、言うと俺の背中をバシッと強く叩いた。力加減の知らない男を睨むが、明星は気付かないままズカズカと教室を後にする。


 俺は、溜め息を吐いて彼に続いた。



2


 「海は広いなー!」


 「そーだな……」


 遊泳禁止の海は、高校から徒歩1時間で着いた。


 炎天下を歩き、汗だくの俺たちは海の青さを前にしても感動も何もない。よく見る、ごくごく普通の海だ。俺の感想はそれだけだった。


 泳げるのならまだ辿り着いた喜びもあっただろうが、生憎今はこの海を眺めることしかできない。俺はワイシャツのボタンを第2ボタンまで開けながら、隣の男に視線をやった。


 明星は、表情を削ぎ落として海を見ていた。その横顔には、本当に感情というものが欠けていて、まるで人形のようだ。


 「明星?」


 「……」


 「明星!」


 声を張り上げて名前を呼ぶと、明星はようやく俺の方を見た。そして、眉を八の字にして困ったように笑う。


 「お前、大丈夫か?」


 「ああ、大丈夫。……一人でここにくる勇気がなくてさ。付き合ってくれてあんがとよ」


 「え?」


 意味がわからず首を傾げると、明星は俺から視線を逸らしてまた海を見る。


 「……夕美ちゃんも来たかったんかな」


 「?」


 小さく呟かれた名前は、俺の知らない名前だった。彼女だろうか? でも、明星は女癖が悪く、彼女を取っ替え引っ替えしているような奴だ。思い入れのある女などいないだろう。


 ならば、親族だろうか……。


 「せっかく来たし、足だけでも入ってこーぜ? めちゃくちゃ暑い」


 明星はパッと笑顔に変わると、靴を脱ぎ捨て一人で砂浜を走りだし海に入っていった。


 「うわっ、冷て!! 濃沼も来いって! ずっとそんなとこいたら熱中症になるぞ!」


 「小学生かよ」


 無邪気に足をバシャバシャと動かして笑う明星に呆れつつ、俺も彼に倣って海に入る。


 彼の言う通り、夏だというのに海はまだひんやりと冷たかった。炎天下を歩いてきたご褒美としてはもってこいだった。


 「冷て!!」


 突然、顔面に水が思いっ切り掛かる。勿論、それは超常現象ではなく、明星がただ俺に水をぶっ掛けてきただけだった。


 小学生のようなことをして、小学生のように笑う男は追加攻撃として俺の服にも水を掛けてくる。


 「俺着替えねぇんだけど!?」


 「隙をつくるお前が悪い!」


 「お前っ!」


 俺も仕返しにと水を掛けようとするが、明星は笑いながら容易くそれを避けた。水の中でも彼の足捌きは異常だ。


 「残念でしたー」


 「……」


 その後も、俺はやけになって奴に水を掛けようとしたが逃げられ、逆に水浸しにされてしまった。



 二人で砂浜に座り込んだ頃には辺りはすっかり暗くなっていた。一体何時間遊んでいたというのだろうか。


 「こんなんで夜まで遊んでるとか、俺ら馬鹿だろ」


 「だな。糠部に話したらぜってぇ笑われる」


 俺ばかりが水浸しになり、ブルリと体が震える。

そんな俺を見て、明星は愉快そうに笑う。明星は、人が困っていると決まって嬉しそうな顔をした。それは友だちであっても例外ではない。


 「お前、性格悪いよな」


 「そんなことねぇと思うけど……はい、どーぞ」


 笑いながら明星はリュックからタオルを渡してきた。本気で朝から海に行こうと思っていたのかと呆れたが、素直に彼のタオルを受け取る。


 「さっき、夕美って言ってたけど、彼女?」


 俺は髪を拭きながら明星に聞いた。明星は、一瞬目を丸くしたが顔に笑みを貼り付けて首を横に振る。


 「双子の姉」


 「へぇ、兄弟いたのか」


 「まあな」


 「仲いいのか?」


 「……」


 何気なしに言うと、明星の顔からまた表情がなくなる。


 俺は、彼がたまにするこの顔が嫌だった。いつもは屈託なく笑い、怒り、焦る。表情豊かな彼が、あらゆる表情をなくし感情を殺す瞬間が、俺には怖く感じだ。


 まるで、別人だ。


 俺が固まっていると、明星はやがて笑った。それも、貼り付けられているものだとわかったが、何もない顔よりはマシだ。


 「昔は、そこそこ仲良かったと思う」


 「聞いていいかわからんけど、同じ施設にいんの?」


 「いや」


 明星はそれだけ言うと、ゆっくりと腰を上げた。


 「あんがと、帰ろう」


 「おう」 


 俺が頷くと、彼はやっぱり笑って見せた。

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