第34話 孝謙天皇の思い
エピローグ 孝謙の視点 ――母の光を継ぐ者
春の風が、ゆっくりと正倉院の壁面を撫でていく。
大仏殿の巨大な影が伸び、夕陽の赤に溶けていた。
その前で、私はひとり立ち尽くしていた。
母が旅立って、もう幾日が過ぎただろう。
だというのに、胸の奥にはまだ、
あの人の声が残っている。
強くて、荒っぽくて、
それでいて誰より優しい声。
母上。
あなたは、嵐のような人でした。
笑うときも、怒るときも、泣くときでさえ、
あなたはたったひとつの道を迷わず進む。
その背中を、幼い私はずっと見上げていました。
あの日、二本の宝剣を手渡されたときも。
陽宝剣を胸に抱いた私は、
ただあなたの背が大きすぎると感じた。
そして……
今、その背はもう、触れることができない。
私は正倉院の扉を静かに押し開ける。
中はひっそりとして、灯火が揺れるたびに
宝物たちが息をするように煌めいていた。
北倉。
母が「父の記憶が眠る場所」と言った部屋。
中倉。
母が「東大寺の心臓」と教えてくれた部屋。
南倉。
母とふたりで歩いた、きらびやかな異国の世界。
全てが、母の声と共に蘇る。
ああ、母上。
あなたは、この国を守るために生き抜いたのですね。
祈りと血と苦しみのすべてを背負って。
私はそっと宝剣に触れる。
陽宝剣の柄には、母が最後に残した温度がまだ微かに残っていた。
帝として生きなさい。
この国を、あたしの分まで守りなさい。
その声が、胸に強く刻まれている。
私は涙を拭き、顔を上げる。
母上。
私は、あなたの娘です。
帝という道は、険しく、孤独で、
時に血の匂いがするほど厳しい。
けれど――
あなたが歩いたあの道を、
私も歩いていこうと思います。
光明皇太后、母上。
あなたが照らした光はまだ消えていません。
それは、大仏の瞳にも、
正倉院の宝物にも、
私の胸の奥にも、
確かに生き続けている。
だから私は今日も、帝として立つ。
母が守り、父が祈りで築いたこの国を、
必ず未来へと繋いでみせる。
どうか見ていてください。
母上――
私はもう、迷いません。
あなたの光を、そのまま継ぎます。
風が吹き抜け、大仏殿の屋根がわずかに鳴った。
それはまるで、母が
よしよし、ようやっと帝らしい顔になったね、と
笑っているように聞こえた。
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