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鳩餅

ダフニスとクロエ

『ダフニスとクロエ』フランソワ・ブーシェ


 ブーシェは牧歌的な絵画で独自の様式を確立した。ブーシェの情景には、穏やかな自然に、優美な羊飼いやその娘たちが登場し、情緒的に交わる様が描かれている。

 古典的な雰囲気ゆえ、この絵画はギリシャ人作家ロンゴスの『ダフニスとクロエ』の物語と結び付けられている。


 ダフニスとクロエは生まれながらに捨てられ、羊飼いのもとで育てられる。成長した二人は出会い、お互いを理解し、受け入れていく。

しかし、恋というものを知らない二人は、相手を求める自分の感情に苦しめられる。

 そこへある老人が現れ、エロスの存在と恋に効く薬を3つ教える。...








「すみません、撮影はご遠慮いただいております」


 『ぶらんこ』を漕ぐ女を前にして、スマホを向けた客を引き止める。美術館の絵は撮影禁止。俺が監視員の仕事を始めた時、研修で教わったルールだ。

 シャッターの光が絵を傷つけてしまうそうで、館内は至る所に撮影禁止の注意書きが張られている。いまどき撮影禁止の美術館の方が珍しいと思うのだが、ルールはルール。シャッターを切り出しそうな人には注意を促さなければいけない。


 とはいえ、撮ってしまいたくなるのも分かる。『ぶらんこ』を漕いでいる女は実に無邪気だ。スカートがめくれることも厭わず大胆に脚を露わにし、ハイヒールを空にすっ飛ばす様は見ていて気持ちがいいし、色気もある。俺も禁止されていなければ、写真に収めておきたかった。


 客がスマホをしまったのを確認したのち、館内を見回す。声掛けが必要な客は他にいない。そもそも、守るのが難しいルールなんてほとんどないが、無意識であったり知らなかったりするケースは少なくない。

 「展示に触らない」これは常識だ。「飲食をしない」も常識。「筆記具は鉛筆だけ」というのは、スケッチやメモをする客に対してのもの。これは研修で初めて知ったり、たまに役に立った。

 あとは...そうだ。研修の最後に館長から妙なことを言われたのを、ふと思い出した。


「絵に依存していたら注意してね」


 当たり前のことのように、館長は呟いた。俺も含め、同僚たちも意味が分からなかったのか、変な空気が流れた。どういう意味ですか、と聞き返す雰囲気でもなかった。

 絵に依存する。

 他のルールと違いずいぶん曖昧だ。依存とは何を指すのだろうか。長時間見ていること、毎日見に来ることは依存なのか。あるいは、見るだけでなく、絵に話しかけたり、耳を傾けたりする人間もいるのだろうか。俄かには信じられないが。



 考えても答えが出ないから、これ以上はやめておこう。難しいことが嫌いでこの仕事に就いたのだ。嫌いなことをわざわざ仕事に持ち込む必要はない。



 小一時間経っても、客の様子は変わり映えしない。鉛筆を手に延々と模写をするもの、連れに滔滔と知識をひけらかす者。興味深そうに見つめる者。 

 このまま、あと数分もすれば休憩だ。暇つぶしに絵画を見渡し、説明書きにも目をやる。たまに学芸員と間違われて絵の場所を聞かれたり、解説を求められるのだ。私服解説などは到底できないが、絵の名前くらいは覚えておいて損はない。

 正面にあるのが『ぶらんこ』。よく見ると中年の男がスカートの中を覗いている。その右隣が『エウロペの奪取』。伏せたウシの背に女が腰かけている。ウシが椅子のように見える。

 そしてその隣が、


「ダフネスとクロエ」


 男の低い声に、びくりと振りむく。やや頬のこけたやせ型の男。中年辺りのいい大人に見えるが、半ば睨んでいるかのような鋭い瞳には若さを感じる。

 男は「ダフネスとクロエ」、と言っていた。丁度、今俺が見ていた絵画だ。まさか、心の声を読まれたわけではないだろうから、絵画の場所を聞いているだろう。


「向かいに展示されております」


 右から2つ目ですと付け加えて指し示すと、男は不躾に向かっていった。その後を、少女がついていく。子連れだったのか。

 少し緊張したが、これくらいの不愛想な客は珍しくない。そろそろ休憩だ。俺はさっと踵をかえして展示室を後にした。









 通常、監視する展示室はローテーションで入れ替わる。休憩後、2つの展示室に入り、特にトラブルもなく部屋を後にする。次は再度『ぶらんこ』の展示室だ。

有名な絵画が飾ってあるため人の入りは多い。その分、客の同行にはいっそう気を張らなければいけない。

 深呼吸して、展示室に入る。珍しいことに、中にはほとんど人気がなかった。いるのはたった2人。その姿に、見覚えがあった。

 小学生くらいの少女と、その父親。間違いない。昼休憩前に声をかけてきた、さっきの男だ。あれから3時間ほど経っている。まさか、ずっと見ていたのか?

 いや、流石に考えにくいか。他を見回って戻ってきたのだろう。

2人がいるのは、『ダフニスとクロエ』の前だ。


 絵画の中で描かれているのは、森の情景と、互いに寄りかかって休んでいる男女、彼らがダフニスとクロエだ。ダフニスは木の株に座ってクロエの肩を寄せ、クロエは芝生に座ってダフネス身体を預けている。

 流し見をする客が多いからそれほど有名な絵では無さそうだ。だが、あの父娘にとってはそうでは無いのだろう。わざわざ探しに来るくらいだから、よほど気にいっているのだろうか。



「ほら、ママですよ」


 人気のない館内。父の声は先ほどよりも明るく、会話がこちらまで届く。細い腕で娘を抱きかかえて、2人は絵の中のクロエを正面に捉えていた。

 「ママ」と言っていたが、そんなに顔が似ているのか。クロエは芝生に仰向けで寝転んでいるから、顔は見えづらいと思うが。

 案の定、娘の方は首を傾げ、理解していない様子だ。


「パパ、パパ」


 娘は代わりにクロエを指指す。小さな人差し指が示すのは、目鼻立ちのはっきりした美青年、ダフニスだ。お世辞にも父親と似た顔立ちではないが、髪型はマッシュパーマのような茶髪で割と似ている。


「そっくりだ」


 こちらからは父の背後しか見えないが、口角が上がったような声色だった。


 その後、父娘は取り留めも無い会話を続けていた。それにしてもあの父親、娘に対しては素振りや表情が柔和だ。娘を抱きかかえる様すら慈しみを感じさせる。話し方は相変わらずとげとげしい、それでも、俺に向けた冷たい視線とはえらい違いだ。他人には不愛想なタイプなのだろうか。


 結局、俺のシフトも終わり、展示室を去るそのときまで、父娘はずっと絵を眺めていた。父は娘を抱えたまま、2人は静かに佇む展示物となっていた。

 








 翌日、展示室のローテーションをいくつかこなし、次の部屋に入った瞬間、俺はぎょっとして身体が凍り付いた。室内にたった2つの人影。あの父娘だ。『ダフニスとクロエ』の目の前、横並びで立っている。


「絵に依存していたら注意してね」


 研修で伝えられた言葉が脳裏をよぎる。声をかけるべきなのか。だが、本当に好きな絵画なら2日続けて見に来るのは普通なのだろうか。


 にしても、一体どれだけここにいるのか。娘は疲れた様子でしゃがみ込んでいる。


「だっこー」


 父親に向かって腕を広げ、弱弱しくだっこをせがむ。しかし、父親はそれに応じなかった。


「だっこは昨日ですよね?」


 父は娘とたわいない会話をしていたときと同じ、明るい声で言う。だっこが昨日とは何だ?昨日だっこをしたから今日はしないのか。意味は分かるが理解ができなかった。

 父の視線は絵画を見つめおり、娘に見向きもしていない。


 やがて、娘は床に座り込んでしまった。展示前の椅子に頭をのせ、床に脚を伸ばして寝っ転がる。寝そべらないように案内をするべきか。だが他に客はいないし、何より近づくのが気が引けた。娘を意にも留めず絵を見つめる父の後ろ姿が、ひどく不気味だ。

 どうするべきか逡巡していると、父が後ろを振りむいた。

 

「こら、寝転んじゃダメだ」


 父は床に膝をついて、仰向けになる娘の前に顔を寄せる。そして、こけた頬を近づけて擦り合わせるチークキスをした。たしなめているようだが、目を閉じて慈しむ表情はじゃれているようにも見えた。


「じょりじょりするー」


 髭がくすぐったいのか、娘はさっと立ち上がった。くるりと出口の方を向いた顔は、笑みや嫌悪は一切なく、無表情だった。そのままぱたぱたと部屋を走り去る。父も小走りで後をついて行った。

 結局、何も話しかけることは出来なかった。父娘はまたやって来るのだろうか。次は何をするのだろうか。チークキスをした父の陶酔した頭から離れず、そぞろな1日だった。


 





 翌日は午後からの勤務だった。荷物を置きに控室に入ると、同僚が噂話をしていた。


「聞いた?朝からずっと、同じ絵ばっかり見てる親子がいるって」


 同じ絵...あの父娘だろうか。似た人間が他にもいるとは考えにくい。


「私、見たかも。2階の常設展だよね。お父さんと女の子」

「そう!」

「声かけてみたら?」

「無理無理、なんか怖いって」


 同僚2人の話し振りは、相当に気味悪がっているようだ。やはり、声をかけづらいのは皆同じか。


「俺も見ましたよ。次いたら話しかけてみます」


 昨日も、一昨日もいましたよと補足すると、悲鳴が上がった。



 展示室には、やはり父娘がいた。今日こそは注意しなければ。意を決して近づこうとした、そのとき。


「眠いか?帰って昼寝するか」


 父がそう切り出し、娘はこくりとうなずいた。よほど眠いのか、娘は何も話さなかった。

 父は娘の手を引いて出て出口に向かう。父の足取りはどこか浮足立っていた。早く帰りたくて仕方ないという風に、いそいそと手を引いて去っていった。


 2人がいなくなった展示室に、もう1人老齢の女性客が残っていることに気が付いた。父娘が去った出入り口を怪訝そうに見つめていた。



「どうかされましたか」


あまりに訝し気なので、思わず声をかけてしまった。


「いま帰った人たち、うちの近所なの」


 女性の語り口は嫌な思い出を話すかのようだった。


「お父様のお仕事は美術関係ですか?毎日娘さんといらしているようで」


 プライベートに踏み込むのは良くないかと思ったが、聞かずにはいられなかった。


「お仕事は聞いたことがないわ。あんまり話したことがないもの。あの人、いつも暗くてぼそぼそ話すから気味が悪くて」


 やはり、娘以外には態度が良くないようだ。


「どうしてお母様と一緒じゃないんでしょうか」

 

 彼らは毎日2人で来ていた。クロエがママに似ていると話していたから、母親はいるはずだが。


「母親はいないと思う。女の子は養子だそうよ。お父さんはあの子に対してはびっくりするほど明るく接しているのよねえ」


 母親がいないと聞き、ドクン、と心臓が跳ねた。ならば、クロエに似ているのは一体誰だ...

 俺の動揺をよそに、女性は話を続けた。


「最近も『結婚を真剣に考えている』なんて言っていたそうよ。本当なのかしら」


 そうして彼女はしばらく室内の絵画を見回った。やがて、おすすめの絵画はないの、と俺に尋ねた。適当な絵画と展示場所を告げると、女性は去っていった。


 誰もいなくなった展示室。入口付近にも人が来そうな気配はない。今なら動いてもバレないだろう。俺は例の絵画まで歩み寄った。毎日飽きもせず眺めるほどの魅力がこの絵画にあるのだろうか。正面にじっくり絵を見据えるのは久々だ。

 「昼寝をする」などと言って帰ったが、明日もまた、この絵を見に来るのだろうか。ならばまた占領される前に、じっくり眺めさせてもらおうか。

 俺は絵画の説明文に目を向けた。









『ダフニスとクロエ』フランソワ・ブーシェ


 ダフニスとクロエは生まれながらに捨てられ、羊飼いのもとで育てられる。成長した二人は出会い、お互いを理解し、受け入れていく。

しかし、恋というものを知らない二人は、相手を求める自分の感情に苦しめられる。

 そこへある老人が現れ、エロスの存在と恋に効く薬を3つ教える。その3つとは、




 抱きあう、接吻する、衣服を脱いで一緒に寝る。 

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