「ママ」枠からの脱出! 〜浮気・モラハラ・見下し夫にリベンジ! 編〜

だくり(らるむ)

第1話 長谷川藍 編

       1

「ママ……死んじゃヤダ……」

 涙を浮かべる息子の陸を見て、長谷川藍は戸惑うばかりだった……。


       *

(良かった、なんとか間に合った……)

 藍の視線の先には、コンクリートの打ちっぱなしの建物。

 息子の陸が通うピアノ教室だ。

(陸、頑張ってるかな)

 いそいそと駆け寄ったタイミングで、ピアノ教室の真っ赤な扉が開く。

 中から出て来たのは、黒髪をポニーテールにした女性だった。白いカーディガンと桜色のスカートという春らしい装いだ。


 彼女はピアノの先生の梶穂乃果。


 くるりと体を回転させると、慣れた手つきでドアを押さえる。

 すると中から幼稚園児くらいの子供と、保護者のママたちが続々と出て来た。

(ちょうど終わったのね)

 藍もそこに加わるべく駆け寄ろうとしたその時だった。

「ストップしてください!」

 緊迫感のある声が住宅街に響き渡る。

 穂乃果が華奢な体を目一杯に使い、道路に出ようとする子供たちを制した。

 次の瞬間、エンジン音を轟かせながら、決して広くはない道路を猛スピードで乗用車が走り抜けて行くのだった。

 ピアノ教室は大通りから一本入ったところにあるため、このあたりは閑静な住宅街、ということになるのだろう。

 だが、車の通行量は決して少なくはない。

 理由は、ピアノ教室の前が主要道路に出るための近道だからだ。

 信号がないため、この道路を利用するドライバーはスピードを出し過ぎるきらいがあるのだった。

 藍はすでに走り去った車の方に視線を送る。

(徐行くらいしなさいよ! 子供たちにもしものことがあったらどうすんの⁉︎)

 幼子を持つママとしては、憤りを感じずにはいられなかったのだった。

「はい。もう大丈夫ですよ」

 視線を戻すと、穂乃果は自らも道路に出て左右の安全を確認しながら、子供と保護者たちを通りへと導いているところだった。

「それじゃみんなバイバイ。また今度ね。気をつけて帰ってくださいね」

 子供たちも一斉に「バイバイ」と返す。微笑ましい光景だ。

 ただ──

 藍の視線は、穂乃果の手に向けられる。

 彼女の爪は、派手にデコレーションされているのだ。少し離れたところにいる藍にさえ、一際大きくてピンク色のストーンが目を引くほどだった。

(いい先生なんだけどね……)

 だからこそ、余計に些細なことが目についてしまうのだ。

「あら?」

 藍の存在に気がついたらしい。

「陸くんママさんじゃないですか!」

 花が開いたような、かわいらしい笑顔を向けてくれる。

 藍は爪のデコレーションのことを気にしていたなんておくびにも出さず、頬を持ち上げた。

「穂乃果先生。いつも息子がお世話になってます」

「陸くんママさん、お仕事はどうされたんですか」

 腕時計に目を落とす。

「いつもならお迎えは、お友だちの中尾さんが来られるのに」

「そうなんですけど、今日は早く終われたんで──」

 会社から直接来たため、紺色のスーツ上下といった格好だ。一旦帰って着替えていたら、きっと間に合わなかっただろう。

 たまには私がお迎えに──と、続けようとしたら春風が吹き抜けた。

 せっかくセットしてきた藍の髪の毛が乱れるが、そんなことを気にしているヒマはなかった。

 ヤバイ──と思ったものの、生理現象は止められない。

「クシュンッ!」

 くしゃみが出た。

(ダメだ……やっぱり苦手だ)

「大丈夫ですか? 陸くんママさん」

 穂乃果が心配そうに藍の顔を覗き込んでいる。

「え、ええ。すみません。春先はどうも……」

 バッグに手を入れようとしたら、それよりも早くポケットティッシュが差し出された。

「花粉症ですか? お辛いですよね」

 笑みを作り小首をかしげるその姿は、アイドルだと言われてもきっと信じただろう。

 藍は「ありがとうございます」とティッシュを受け取る。

「花粉、まだまだ飛ぶそうですよ」

「そうなんですね……」

 他愛もない話をしている最中も、穂乃果は忙しなく道路を見渡している。まだ残っている子供や保護者のために、車が来ないかを確認してくれているのだ。

 藍は感心するばかりだった。

(めちゃくちゃいい先生じゃない。確か24だっけ?)

「どうかされましたか」

「いえ、なんでもありません」

 藍は営業で鍛えたそつない笑みを向けるのだった。

(爪のデコくらい我慢我慢! 私が苦情を言ったせいで辞められたら困るもん)

 穂乃果は子供たちが帰ったのを見届けると、「じゃ、陸くんを呼びますね」と教室の方へと顔を向ける。

「陸くん。今日はママがお迎えに来てくれたよ!」

 しばらく待っていると、建物の奥の方からトトトトッと足音が聞こえてくる。

 これはいつも聞いているかわいらしい足音だ。

 ワイシャツに紺色のベスト。それから水色の半ズボン。お気に入りの特撮ヒーロー「レイボーマンオーガ」のイラストが描かれた靴。

 息子の陸だ。

 少し色素が薄めの茶色の髪の毛は、藍と同じでクセがなく猫っ毛。藍はこの柔らかな陸の髪の毛が大好きだった。

「お疲れさま。今日はママがお迎えに来たよ──って、どうしたの?」

 どういうわけか、陸はうつむいている。しかも表情は冴えない。

「どこか具合でも悪い?」

 ブルブルと頭を振ると、小走りやって来きて藍の後ろに隠れてしまうのだった。

「どうしたの、陸。穂乃果先生にサヨナラは?」

 優しく頭を撫でてやるが、足にしがみついたまま動かない。

「すみません、穂乃果先生」

 バツが悪く恐縮していると、穂乃果は相変わらず微笑みを浮かべたまま「いえいえ」と、顔の前で手を振った。

「陸くんはここに来てまだ3ヶ月くらいですから、戸惑って当然ですよ」

「そう言っていただけると助かります」

「それにしても」と、穂乃果は藍の後ろにいる陸を見る。

「他の子に比べると、陸くんって発育がいいですよね」

「そうですか?」

「ええ。うちの生徒さんの中でも、陸くんが一番大きいんじゃないですかね」

 そう言われればそうかも、と藍も陸を見る。

(私も夫の涼も、小柄な方じゃないもんね)

 穂乃果はにっこりと微笑む。

「それに陸くんは、ピアノの上達も早いんですよ。きっと教育熱心な陸くんママさんのおかげですね」

「いえ、私なんて」

「きっと旦那さまも、とっても素敵な方なんでしょうね」

 フフフッと笑った表情は、なんだか艶かしく、女の藍でさえドキリとするほどだった。穂乃果は両手の指を合わせ、「羨ましいなあ」と続ける。

「わたしも陸くんママさんみたいな素敵な家庭を持ちたいですよ」

「そんなうちなんて──っていうか、穂乃果先生はかわいいからモテるでしょ」

「全然ですよ!」

 そんなことはないでしょう、と返そうとしたら、スーツのパンツを引っ張られた。

 陸だ。

「何? お腹空いた?」

 何も答えない。

 ただ黙って、上目遣いに藍を見つめているのだった。表情はやはり暗いままだ。

「陸くん、きっと疲れちゃったんですよ」

 穂乃果はガッツポーズを作っている。その姿もまたかわいらしい。

「今日もピアノを一生懸命弾いてましたからね」

「すみません。お友達といる時は、もっと元気なんですけど……」

「気にしないでください」

 藍は「それじゃ、失礼します」と、丁寧にお辞儀し、ピアノ教室の近くにある駐車場に向かうのだった。

(ホント、感じのいい先生だな)

 藍は手を繋いだ先にいる息子を見る。まだうつむいたままだ。

「おうちに帰ったら、おやつを食べようか」

 チャイルドシートに乗せ、シートベルトを締める。

「レンインボーマンオーガのお菓子、買ってあるんだよ」

 頬をチョンチョンと突いてやる。いつもなら笑顔を見せてくれるはずなのに、視線は下に向けたままだった。

(どうしたんだろ……。やっぱり具合悪いのかな……)

「ママ……」

「ん?」

「死んじゃヤダ……」


       *

 その日の夕方。

 自宅のマンションのキッチンで忙しなく食事の支度をする藍は、恨めしそうにリビングを見る。

 そこには夫の涼が、だらしなく体をソファに投げ出し、夢中でスマートフォンをいじっているのだ。

(仕事のメールなら、仕方がないんだけど)

 時折り「ああっ! クソッ!」などと呟いているので、ゲームをしているのだろう。

(もうっ! 私だって働いてるのに!)

 無意識にため息が出る。

(結婚した当初は、家事は分担しようって言ってくれてたのに。いつの間にか家のことは全部、私がやることになっちゃったんだよな……)

 少しは手伝ってよ! 

 喉元まで上がってきたその言葉は、決して口から出ることはなかった。

 言ったところでどうにもならないのはわかっている。

(私が我慢すればいいんだもんね……)

 いつものように、藍は不満を飲み込むのだった。

「なあ、飯はまだか」

 涼はスマートフォンに目を落としたまま、藍の方を見ようともしない。

「働いて帰って来たんだから、腹が減ってんだけど」

「ごめんなさい。もうちょっと待って」

「チッ!」

 機嫌が悪くなると、涼は舌打ちをする。藍はそれがたまらなく嫌いだった。

「陸、ピアノ教室はどうだ? 楽しいか?」

 やはり視線はスマートフォンに向けたままだ。しかも不機嫌を隠そうともしていないその口調に、陸は戸惑っている様子だった。読んでいた絵本を胸に抱くと、不安げにオロオロとしている。

「どうなんだよ」

 陸が口籠もっていると、また「チッ!」と舌打ち。

「聞こえなかったのか!」

 陸は体を震わせる。

「ご、ごめんなさい……」

 涼は「何度言ったらわかるんだ」と吐き捨てた。ようやくスマートフォンから目を離すと、ソファから腰を浮かせる。

「男が簡単に謝るな! 情けないヤツだな!」

 大柄な涼に凄まれると、幼い陸はただ怯えるばかりだった。

 藍は慌ててリビングに駆け寄る。

「ごめんなさい……お願いだから怒鳴らないであげて」

 震える陸を頬を撫でやりながら、「ご飯ができたから手を洗っておいで」と避難させる。

「お前が甘やかすから、あんな情けない男になるんだぞ」

「まだ3歳なんだから……それに──」

「なんだ! 俺に口ごたえすんのか!」

「ち、違うの」

 藍はことさら声をトーンを落とす。陸に聞かれないためだ。

「今日ね、ピアノ教室のお迎えに行ったら、陸が私に『死んじゃヤダ』って……」

「だから?」

「だからって……」

 藍は洗面所の方を見ながら、

「もしかしたら、ピアノ教室で何かあったんじゃないかと思って」

「先生はなんて言ってんだよ」

「まだ、聞いてない……」

「要領が悪いな!」

「だって、帰りの車の中で言われたんだもん」

「言い訳すんな!」

 面倒くさそうにまた舌打ちをすると、手の中のスマートフォンに目を向けてしまう。

「嫌なら辞めちまえよ!」

「だって……」

「仕事で疲れてんだ。くだらないことで俺を煩わせるな!」

 藍は不満を募らせつつキッチンに戻ろうとしたら、軽快なメロディが流れてきた。

 涼のスマートフォンだ。

 振り返ると、どういうわけか涼は画面を凝視したまま動かない。しかも表情は困惑したように引きつっているのだ。

「誰から?」

「ん? あ、ああ……仕事の電話だよ」

「だったら出た方が──」

「うるさいな! 俺はプライベートの時間は大事にしたいタイプなんだよ!」

 涼はリビングを出て行く。

「ご飯は?」

「いらない! お前がゴチャゴチャ言うから食欲が失せた!」

 ドアは乱暴に閉められてしまう。

(プライベートの時間は大事にって……私と陸のことはいつも放ったらかしなのに……)

 その言葉はやはり、藍の口から出ることはなかったのだった。


       *

「酷い!」

 憤った勢いそのままに、オレンジジュースを一気に飲み干したのは荻野目歩だ。

 童顔なので、藍と同じ29歳にも関わらず未だに高校生に間違えられることがある。

 髪の毛はナチュラルにウェーブしてるのがコンプレックスらしいが、ストレート髪の藍からすれば羨ましい限りだった。

 そんな歩の言葉に「同意だな」と、腕を組んだのが鈴木美羽。

「一体誰の子供だよって話だ!」

 腕まくりをしたジャケットにパンツ姿。ベリーショートにした髪に加えて荒っぽい言葉遣い。一見すると男性に間違われることもあるが、よく見るとかわいい顔をしている。

 ちなみに美羽が言う「同意」は、彼女が尊敬している女性社長を真似ているらしい。

「ふざけやがって!」

 と、怒ってくれていたのだが、皿の上にあるパンをかじった途端、表情が一変する。

「美味い! この小麦、きっと国産のいいのを使ってるね。それでこの値段か。すごいな」

 そんな美羽を微笑ましく見ながら、

「とりあえずパンのことは後にしようか、美羽。それから歩、あんまり興奮しない」

 と、冷静なのが中尾里奈。

 ワンサイズ大きいパーカー、ジーパンにスニーカー。そして首からはストラップをつけたスマートフォンをぶら下げている。これが里奈のいつものスタイルだ。

 最近、邪魔だからとロングヘアをバッサリ切って、ショートカットのはとてもよく似合っていて、派手な感じのする美人だが、本人には至って真面目な子だ。

「ところで藍は──」

 里奈がカフェオレが入ったカップを持ち上げる。

 ただ、残念ながらそれを飲むことはできなかった。

「食べた!」

 里奈の息子の雅紀がそう言うと、席から立ち上がろうとしているからだ。里奈はカップを置くと、慌てて息子を捕まえなければならなかった。

 他にも歩の娘の千佳と、同じく美羽の娘の双葉。もちろん藍の息子の陸もいる。

 ここは藍たちの自宅近くにあるファミリーレストラン。藍と親友、そしてその子供たちの合計8人でランチ中なのだ。

 荻野目歩。鈴木美羽。中尾里奈。それから藍の4人は、同じ日に同じ病院で出産し、同じ病室になったのをきっかけに仲良くなった「ママ友」。

 退院の日に、それぞれの自宅が車で10分ほどで行き来できる距離に住んでいることがわかったため、みんなの自宅のほぼ真ん中にあるこのファミリーレストランで定期的に「ママ友会をしようよ」ということになったのだった。

 藍としては初めての子育てに不安が多い中、同じ年齢で気の置けない親友たちに話を聞いてもらえるのはとても心強かった。

「で、藍は旦那になんて言ったの?」

 雅紀の口をナプキンで拭きながら、里奈は先ほど言いかけた話を再開させる。

「当然、ガツンと言ってやったんでしょうね」

「何も……言ってない……」

「なんでよ」

「だって……その後、涼に電話がかかってきて、自分の部屋にこもっちゃったし……」

「誰からの電話だったの」

「たぶん、仕事の人──って、どうしたの?」

 3人が顔を見合わせていたからだ。

 歩は娘の千佳の皿に残ったニンジンを食べさせようと四苦八苦しながら、

「それって怪しくない?」

 と、眉根を寄せる。

「同意」

 飽きてクマのぬいぐるみで遊び始めた双葉の口に、美羽は千切ったパンを放り込んでやる。

「藍に聞かれたくない電話ってことだろ。どう考えてもそれって浮──」

「ちょっと待った!」

 里奈が慌てて遮ると、素早く目配せをする。

《子供たちの前だからね》

 里奈のアイコンタクトは、つぶさに藍たちに伝わるのだった。

 全員が「同意」と、うなずく。

 伊達に3年も「ママ友会」をやってはいないというわけだ。

「そっちより心配なのはさ。やっぱりあっちだよね」

 里奈の視線は、陸に向けられていた。

 あっち、とはピアノ教室の帰りの車の中で陸から言われた、『死んじゃヤダ……』のことだ。

 陸はすっかり元気になっていて、今はパンケーキを頬張っている。藍としてはひとまずホッとしているものの、里奈が言うように無視できないことだった。

 だよね、と歩もうなずいた。

「陸くんには聞いたの?」

「うん。でも何も言わなくて」

「姉御の家ではどうなんだよ」

 美羽だ。ちなみに姉御とは里奈こと。

 藍たちの中で里奈がリーダー的存在のため、時折り「姉御」と呼んでいる。

 実は藍たちは、幼稚園の落選組仲間でもあるのだ。

 そこで4人の中で唯一の専業主婦である里奈の自宅で、子供たちを預かってもらっているのだった。

「だから姉御はやめてって言ってるでしょ!」

 お決まりのやり取りをした後、里奈はすぐに頭を傾ける。

「陸くん、うちでは元気なんだよね」

「ということは──」

 ようやく千佳に付け合わせのニンジンを食べさせられた歩は、名探偵よろしくアゴに手を当てた。

「ピアノ教室で何かあった、ってことだよね?」

「同意。どこにでもいるからな。意地の悪いヤツってのは」

「それはないよ」

 藍は首を振る。

「何かあれば、穂乃果先生が教えてくれるはずだもん」

「穂乃果先生──なるほど。謎は解けたね」

 探偵が「犯人はあなただ!」と言う時のように、歩は藍を指差すのだった。

「じゃ、そのピアノの先生が陸くんに意地悪してるんだよ!」

「残念でした名探偵さん。穂乃果先生はとってもいい先生なんです」

 ね? と里奈に同意を求める。

 普段から陸のお迎えは彼女にお願いしているため、この中で穂乃果と会ったことがあるのは里奈だけなのだ。

「まあ、人当たりはいいんだけどね。藍、爪のデコ、気になったでしょ」

「まあ……ね」

「しかもあの香水。苦手な香りだよね」

 姉御には敵わない、と藍は苦笑する。なんでもお見通しだ。

「くしゃみが止まらなかった」

 穂乃果の前では花粉症だということにしておいたが、実は彼女の香水のせいだった。

「私って子どものころから鼻が敏感なの。特に柑橘系の香水を嗅ぐとどうも……ね」

 思い出しただけで鼻がムズムズしてくる。

 里奈は得心したように頭を縦に振った。

「前に私も柑橘系のをつけたことあってさ。その時も藍のくしゃみが止まらなくなったのよね」

「鼻がいいっての考えものだね。ポメラニアンちゃん」

「誰がポメラニアンよ!」

 歩の言葉に頬を膨らませていると、「ちょっと藍!」と肩に手をかけられた。美羽だった。

「さっきから聞いてりゃあ、なんだよ、その女は! 爪をデコってる上に香水だと⁉︎」

 美羽は夫の実家のパン屋を手伝っていて、義父から厳しく指導されているらしい。だから客商売について一家言あるようだ。

「子供の顔に爪が当たったらどうすんだよ! しかも香水って。藍みたいに敏感な子もいるだろうよ!」

「わかる。うちの千佳も、私が香水つけると気分が悪くなるもの」

「藍、ちゃんと言うべきだぞ!」

「だって、私のせいで辞められちゃうと困るもん」

 藍は陸の頭を撫でる。

「この前なんか、陸と私のことを褒めてくれたし」

「だからなんだよ。商売っていうのはだな──」

「はいはい、美羽。それはまた今度聞いてあげるから」

 里奈が話を元に戻す。

「とりあえず、陸くんのことは注意して見るようにするよ」

「うん。お願い」

 親友に相談したことでいくらか気が楽になったものの、不安が取り除かれたわけではない。

(やっぱり歩が言うように、ピアノ教室で何かあったのかな……)

 藍が陸から目を離しているのは、ピアノ教室と、里奈に預けている間だけだ。

(里奈の家で何かあるわけないし。だとしたら、自宅に原因があるってこと?)

 そんなことを考えていたら、「コホンッ」と咳払いが聞こえた。

「では、次の議題に入りますか」

 改まった感じで、歩が切り出したのだった。

 食事を終えた子供たちはキッズスペースに行ってしまったため、歩はこのタイミングを今か今かと舌なめずりをして待っていたわけだ。

 もはや名探偵というより、町娘を狙う悪代官のようだった。

「次の話題って?」

「藍、とぼけてもダメだよ。ご主人のことに決まってるじゃない」

「うちの夫のことって……」

「妻の前では話せない相手からの電話ってことは女ね。そして相手は──ピアノの先生の穂乃果だ!」

「なんでそうなるのよ。そんなわけないじゃない」

 だが、名探偵はめげていない。

「清楚で気が利いててかわいいんでしょ? 男は放っておかないって」

「人にもよるみたいよ。涼は好みじゃないって言ってたもん」

 初めて陸がピアノ教室に通うことになった時、面倒臭がる涼を無理やり連れて行ったのだった。

 できるだけご両親揃ってお越しください、との案内があったからだ。

 その時に藍は冗談で「涼の好みの先生じゃない?」と聞いたら、露骨に嫌悪感を出していた。

「いかにもいいお嫁さんになれます、って感じの子は苦手なんだって。『俺は遊び慣れてる子がいいよ。その方が後腐れないから』だって」

 また3人は顔を見合わせている。

「な、何?」

「それってさ。浮気が前提になってない?」

 歩の指摘に美羽が大きく頭を上下に動かした。

「同意。藍のことナメてるぞ、旦那のヤローは」

「そんなことないって──」

 と、反論しようとしたが、すぐに口をつぐむ。

(本当は、涼の言葉にはまだ続きがあったんだよね……)

『どうせ浮気すんなら、お前の友達の里奈って子がいるだろ? あの子がいいな』

 だが、このことは内緒にしておくことにした。

(冗談に決まってるもん。それにみんなから何言われるわからないし)

「とにかくさ」

 藍の頭の上にそっと手が乗せられる。いつの間にか、里奈が隣に移動して来ていた。

「一応、証拠集めをしといて損はないと思うよ」

「里奈までそんな……」

「万が一『クロ』だった時のためよ」

 両手を上げる。

「『浮気なんてしてない!』なんて言われたらお手上げだよ。証拠がないと泣き寝入りだからね」

 歩は「そうそう」と千佳が残したハンバーグのカケラを口に入れる。

「相手の女と話をつける時にも、証拠が必要になるだろうしね」

「ええっ⁉︎ 浮気相手と会わなきゃいけないの⁉︎」

 里奈は呆れたように笑う。

「当たり前じゃない。勝手に別れるとでも?」

「じゃ、じゃあさ……なんて言えばいいわけ?」

「くたばれ!」

 歩はかわいい顔をして気が強い。が、さらに武闘派(?)なのが美羽だ。

「『うちのアホがお世話になってます』。で、2人の鼻にパンチだな」

 本来なら、こんな時は冷静な意見が聞けるはずの里奈だが、この時ばかりは違ったらしい。

「『2人揃って土下座しろ』でしょ、普通は」

 藍はテーブルに突っ伏した。

「そんなこと言えないよお……」

 里奈が「とりあえずさ」と藍の肩を抱く。

「何かあったらすぐに私たちに相談すること。わかった?」

「すぐに駆けつけるからな」

「そうそう。私たちは親友なんだから」


       *

 その日の夜。

 藍は自宅の寝室で、イビキをかいて寝ている涼の顔を覗き込む。

 どうやら完全に寝入っているようだ。

 そっとベッドを出ると、棚の上にある涼のスマートフォンを手に取った。

 無意識のうちに生唾を飲み込んでしまう。

(パスコードは知ってるし──)

 眠っている涼の顔にそっとかざす。あっさりとスマートフォンは開いた。

(目をつぶった状態でも開けられる設定にしといて良かった)

 以前、顔認証がうまくいかず、涼のスマートフォンが見られなくなってしまったことがある。その時に藍が「今度は目をつぶった状態で登録しておいたら」と、アドバイスをしたのだった。

(まさかこんな時に役に立つとは)

 メッセージアプリをチェックしてみる。

 特に怪しいやり取りは見当たらない。ほとんどが仕事関係だ。

(これって、浮気してないってことでいいのかな……)

 心の中でつぶやいてみて、すぐに親友たちの顔が浮かぶ。

『そんなわけないでしょ!』

 涼のスマートフォンはいつでも見られると話をしたら、全員が口を揃えた。

『やましい会話は、こまめに消してるからじゃない?』

『同意。無防備すぎるのが逆に怪しいぞ』

『夫婦でもスマホ見られるのは嫌だもんね』

 寝ている涼に向かって、(信じていいの?)と問いかけてみるが、答えが聞けるはずもなかった。 

 ためらいながら、藍は涼のスマートフォンにGPSをダウンロードするのだった。


       *

 それから数日後の朝。

 涼がリビングにやって来るなり、

「おっはよ! 陸。元気か?」

 と、陸を抱き上げる。高く持ち上げたり、スーパーマンが空を飛ぶ時のように掲げたりしている。そんな涼を、藍は訝しむように見た。

(ううっ、嫌な予感……)

 涼の機嫌がいい時はロクなことがないからだ。

「あっ、そうだ。遅くなるから飯はいらない。それから今日は俺が車を使うから」

「どうして?」

 今度は陸を肩車する。体を左右に揺するものだから、陸は涼の頭にしがみついているのだった。

「急に県外の得意先まで製品を運ぶことになったんだよ」

 白々しく顔をしかめて見せるが、口元がほころんでいるのは隠せていない。

「ほら、この不景気だろ? 社用車の台数を減らしたんだ」

 まいったよ、と苦々しくつぶやく。

「そうなると車が足りないからさ。しかたなく俺が自宅の車を出すことになったんだ。まあ、毎回じゃないから心配すんな」

 言い終わると、涼は陸を下ろし、藍が作った朝食を食べる始める。

(用意してた台詞をうまく言えたんで、ホッとしてるの?)

 藍は陸を席に座らせてやる。

(浮気相手に会いに行くの? だから会社の車じゃ都合が悪いの?)

 物思いに耽っていると、

「あのさあ」

 と、急に声をかけられて藍は我に返る。

 先ほどと打って変わり、不機嫌そうだった。

「前々から思ってたんだけど」

 視線が素早く上下に動く。

「そんなに濃いメイクしてどうすんだよ。もしかして穂乃果先生に張り合ってんのか」

「濃くないよ。これくらい普通だよ」

「普通って……」

 涼は食パンにかじりつく。

「元が悪いんだから、メイクしたって無駄だろ。メイク代だってタダじゃないんだから」

 藍が黙っていると、「聞こえなかったのか!」と声を荒げられてしまった。

 藍は体を震わせる。

「こ、今度から気をつけます……」

 ふと見ると、陸は不安な表情を浮かべていた。

 そんな息子を安心させるために、藍は頑張って微笑むのだった。


       *

 ピアノ教室に行くと、例のコンクリートの建物の前で穂乃果が出迎えてくれていた。

「陸くん、おはよう」

 わざわざ腰を折って挨拶してくれる。だが陸は何も言わずに教室に入ってしまうのだった。

「すみません……」

「大丈夫ですよ。ところで、今朝の電話で何か聞きたいことがあるとか」

「実は陸のことなんです」

 あたりを見回して、他の保護者がいないことを確認する。

「もしかして、陸は誰かに意地悪されてるってことはないでしょうか」

「え?」

「最近、元気がなくて」

 穂乃果の表情が険しくなる。

「本人はなんと?」

「聞いても答えないんです」

 穂乃果は「うーん」と首をひねる。

「イジメとかはないと思うんですけど」

 すぐに神妙な面持ちになる。

「わかりました。わたしからも、陸くんにそれとなく聞いてみます」

「よろしくお願いします。あっ、それから今日のお迎えは──」

「はい。中尾さんですよね。承知してます」

 もう一度「お願いします」と頭を下げてその場を後にすると、藍は駐車場まで来て振り返った。

(何もないといいんだけど……)

 車のドアに手をかけたタイミングで、

「クシュンッ!」

 やっぱりくしゃみが出た。


       *

 仕事を終えた藍は、スーパーにいた。

 いつも仕事が終わると、夕食の食材を購入しにここへ来る。それから里奈の自宅に陸を迎えに行くのがルーティンだった。

 時計を見ると、午後五時になったところだ。

(これなら里奈のご主人が帰るまでに間に合うね)

 陸を預かってくれている里奈の夫は、自宅保育のことをあまり良く思っていない節がある。

 里奈から直接聞いたわけではないため、これは藍の想像だ。

 ただ、以前藍のお迎えが遅くなった時に、「りなちゃんが、おじちゃんに怒られてた」と陸から聞いたことがあるのだった。

 歩と美羽に話したところ「やっぱり」「うちの子も言ってた」と返事が返って来た。

 だから3人で話し合い、できるだけ里奈の夫が帰宅する六時までには、迎えに行くようにしているのだった。

 一通り買い物を終えると、藍は手早くエコバッグに詰め込む。スーパーから出たところで「あっ、そうだ」とスマートフォンを見た。

(確か県外に行くって言ってたよね)

 涼に仕掛けたGPSの位置を確認してみる。

(嘘……)

 口に手を当てて息を呑む。

(ここって確かホテル街じゃ……)

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