第2話 青の残響
漆黒の闇のようなベールを纏った夜、しとしとと雨がずっと降り続けている。
それは、夏の終わりを告げるようにな静かな雨だった。
屋根を叩く微かな濡れた音が、途切れ途切れに湊の部屋を満たす。
ベッドの上で湊は横になり、スマホの画面が青白く光っているのをぼんやりと見つめている。
“既読”の文字が浮かんでいるが、その先に返事はない。
あのメッセージ――「また、青の丘で。ーー陸」。
それきり、陸からの通知は途絶えた。
湊はスマホを握りしめたまま、スマホの液晶画面何度も繰り返し見返した。
あれは朧気な夢だったのか。それとも、現実の裂け目に触れたのか。まるで狐に化かされた気分であった。
思考の奥で湊自身の声で、誰かが囁くように言う。
――お前はまだ、呼ばれている。
カーテンを開けると、雨に濡れた街が闇と静寂の中で眠っている。
街灯の光が水面に揺れ、通り過ぎる車が水面に波紋を残して走り去る。
そこは、陸とよく並んで歩いた道だった。
笑いながら、他愛のないことを話していた日々が、遠い昔のような懐かしささえ感じられる。
ふと、机の引き出しに手を伸ばす。
中には、あの夏の日に撮った一枚の写真がある。
青の丘で、ふたりで笑って写っている。
陸の笑顔は眩しいほどに生きていて、あの事故の日の血の色とは、あまりに対照的だった。
そのとき、スマホが一瞬だけ震えた。
湊の心臓が同時に一回だけ跳ねる。
画面には、通知が一件。
《水城玲奈さんからのフォロー申請》
まったく心当たりのないフォロー申請と見覚えのない名前だった。
だが、そのアイコンにはどこか見覚えのある“青い光”があった。
波紋のように広がる青。それは陸の最後の光景に酷似していた。
翌朝。
登校する道の途中で、真白が待っていた。
雨上がりの空は淡く、遠くで蝉がかすかに鳴いている。
「昨日のこと、先生に話した?」
「……話せるわけないだろ」
「だよね。でも湊、あれ、絶対“普通のこと”じゃない」
真白の目は赤く腫れていた。一晩中泣いて、おそらく泣き腫らしたのだろう。
彼女もまた、あの青の光を見たのだ。
そして――陸の姿を。
「誰かに相談したほうがいい。夢とか幻覚じゃなくて、本当に“あいつ”なら」
「真白。あいつ……陸、何か言ってた?」 「……“向こうに行こう”って。そう聞こえた。まるで、こっちの世界から連れて行こうとしてるみたいに」
湊は言葉を失った。
その瞬間、背後から声がした。
「――黒川陸のことなら、少し話ができるかもしれない」
振り向くと、見知らぬ少女が立っていた。
黒髪を肩で切り、瞳は淡い灰色。
制服は転校生の証である白いリボン。
「私、水城玲奈。昨日、この学校に転入してきたの。……あなたが白瀬湊くん、でしょ?」
湊は息を呑んだ。
彼女の声には、どこか耳の奥で反響するような響きがあった。
それは、陸の“青い声”に似ていた。
真白が警戒するように一歩前に出る。
「陸のことって、どういう意味?」
玲奈は静かに鞄を開け、そこから一枚の写真を取り出した。
それは――青の丘で笑う陸の姿。
しかも、その隣には見覚えのない少女が写っていた。
「……これ、どこで?」
「三年前。私の町で撮った。彼は“誰かを探している”って言ってた。たぶん――あなたのこと」
湊は喉の奥が熱くなるのを感じた。
意味がわからないし、理解が追いつかない。陸はこの町の出身だ。三年前といえば中学一年。
そんな時期に別の町で“生きていた”など、ありえない。
玲奈は続けた。
「彼は、“死んだ人の声が聞こえる”って言ってた。私は信じなかったけど……今ならわかる。あのとき、彼は既に“境界”にいたのよ」
“境界”――その言葉が妙に引っかかった。
湊は息を整え、玲奈を見た。
「……水城さん。君はいったい、何者なんだ?」
少女はかすかに微笑む。
「私は、死者の残響を見ることができるの」
放課後。
三人は青の丘へ向かった。
夕暮れの空は薄く染まり、風が肌を撫でる。
あの日と同じ、蝉の声が止まる瞬間が近づいていた。
玲奈は丘の中央で立ち止まり、目を閉じた。
「……ここね。彼の“声”がまだ残ってる」
真白が不安げに尋ねた。
「声って、どういう――」
「魂が完全に消える前に残す“残響”。この場所は、その共鳴点。事故じゃなく、“引き寄せ”だったのかもしれない」
湊は息をのむ。
その瞬間、風が止まった。
空気が凍りついたように重くなる。
玲奈の周囲に、淡い青の光が立ち上がった。
光は波紋のように広がり、三人を包み込む。
風も音もない。
ただ、心の中に、声が流れ込んでくる。
――湊。見て。ここが、俺たちの“青の世界”だ。
陸の声だった。
懐かしい、けれどどこか冷たい。
同時に、視界の端で世界が変わる。
草の色が濃く、空が深く青に沈む。
まるで“もう一つの世界”が重なったようだった。
真白が震える声で言った。
「ここ……現実なの?」
「わからない。でも、あいつが……陸がいるなら――」
湊が言い終える前に、陸の姿が現れた。
丘の先、光の中からゆっくりと歩いてくる。
その笑顔は優しかったが、瞳の奥には“何か別の存在”が潜んでいるようだった。
「よう、湊。やっと来たな」
「……陸、本当に……」
「うん。生きてるとは言えないけど、ここに“いる”よ」
玲奈が一歩前に出る。
「あなた、黒川陸? 本当に彼なの?」
陸は静かに頷いた。
「たぶん、そう。でも――俺の中に“誰か”がいる」
風が吹き抜け、草が一斉にざわめいた。
陸の影が二重になり、瞬きする一瞬、別の顔が浮かんだ。
湊は息を呑む。
「誰かって、誰なんだ?」
「名前はわからない。でも、“俺をここに留めた”のはそいつだ。あのとき、死にたくないって思った瞬間……“青”が囁いたんだ」
青――。
それは、この異界を支配する何かの名。
玲奈が囁くように言った。
「“青”は人の未練を喰う存在よ。記憶や絆に宿って、別の形で生きようとする。だから、あなたたちを呼んだの」
湊の心臓が跳ねた。
「じゃあ陸は……喰われてるってことか?」
陸は微笑んだ。
「そんな怖い顔するなよ、湊。俺はもう怖くないんだ」
その言葉の直後、光が激しく揺れた。
青が裂け、丘の地面が波のようにうねる。
玲奈が叫ぶ。
「離れて! ここ、崩れる!」
湊は咄嗟に真白の手を掴んだ。
陸の姿が遠ざかる。
「待て、陸!!」
「湊――“また青で”!」
光が爆ぜた。
世界が反転し、空の青が白に変わる。
次の瞬間、湊は現実の丘に倒れ込んでいた。
真白と玲奈が隣で肩で息をするほど、息を荒げている。
夕陽が沈み、街の灯りが遠くに滲んでいた。
湊は空を見上げた。
そこには、薄く残る青い光が拍動しているように揺れている。
それはまるで、失われた親友の心臓の鼓動のようだった。
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