青の残響

江渡由太郎

第1話 夏の終わりの影

 あの日、蝉の声が止んだ瞬間を湊は今でもはっきり覚えている。

 あれは風もない午後だった。

 アスファルトが陽炎のようにゆらめき、遠くの電線が歪んで見えるほどの暑さ。

 けれど、蝉が一斉に鳴き止んだとき、世界の音がすべて吸い取られたように静まり返り静寂という名に支配された。

 永遠の一秒のようなそのわずかな静寂のあとに、車の急ブレーキ音と、金属が軋む嫌な音が響いた。


 ――黒川陸が死んだ。


 誰もが“事故”だと言った。

 けれど、湊にはその瞬間の景色が、あまりに異常に見えた。

 まるで世界そのものがコマ送りで流れ、一瞬だけ停止したみたいだったのだ。


 夏休みが終わる二日前。

 白瀬湊は、事故現場に置かれた花束の前で立ち尽くしていた。

 道路脇のガードレールは歪み、交通事故の悲惨さを物語るように焦げた跡が黒く残っている。

 陸の自転車は、警察の処理のあとも無残に折れ曲がったままだ。


 あの日から一週間。

 時間だけが留まることなく流れていく。

 クラスメイトたちは、彼の死を「夏の出来事のひとつ」として処理しようとしていた。

 けれど、湊の中では何ひとつ終わっていなかった。

 どこかに、陸の気配や声がまだそこに残っている気がしてならなかった。


「……お前、まだ来るんだな」


 振り向くと、陸の友人でもあった真白が立っていた。

 桐島真白――中学からの幼なじみで女子陸上部。少年っぽい言葉遣いをし、いつも落ち着いた目をしている少女だ。

 制服のシャツの袖をまくり上げた腕に、日焼けの跡がくっきりと残っていた。

 湊は、うなずくこともできずに花束を見下ろした。


「お別れ、言えた?」

「……言えないよ。そんな簡単に言えるわけないだろ」


 真白は息を呑んで、小さく首を振った。

「湊。あんた、あの時――」

「やめろ」

 遮る声が思わず強くなる。

 あの日のことを、誰にも話したくなかった。

 湊自身でも心の整理がついておらず上手く説明できないからだ。



 ――陸が、湊の名前を呼んだ気がした。

 事故の直前、振り返った陸の目は確かに湊を見ていた。

 そして、陸の口が何かを言おうとして――。



「湊?」

  真白の呼びかけに一瞬にして現実に引き戻される。真白が心配そうに湊の顔を覗き込んでいた。

「……ごめん。なんでもない」

「無理してるでしょ。あんた、あれからずっと――」


 その言葉の途中で、湊のスマホが音を立てて震えた。

 真白が画面を覗き見て、息を呑む。


「……これ、なに?! なんなのいったい?!」


 湊と真白はスマホの画面を食い入るように見る。 そこには、ふたりが見慣れたあの名前があった。


 ――黒川陸。


 送信者は、死んだはずの親友だった。 そしてメッセージは、ただ一行だけ。


『湊。俺、生きてる。あの丘に来い』


 血の気が引いた。

 ふざけている、いたずらだ、そんな言葉が頭をよぎる。

 けれど、陸の口癖や文体を完璧に真似できる人間などいない。

 しかも“あの丘”とは、ふたりだけが知る秘密の場所だった。


 真白が震える声で言った。

「どういうこと……?! これ、誰かのたちの悪い悪戯? 悪ふざけじゃすまされない……」

「わからない。でも、俺、行ってみる」


「行くって、まさか……」 

 足がひとりでに動いていて、湊はもう歩き出していた。

 あの夏の日の鼓動を思い出しているように心臓が高鳴った。


 丘は町の外れにある小さな森林公園の奥にあった。

 夏の草が伸び放題で、昼間でも薄暗い。

 “青の丘”――陸とふたりでそう名づけたその場所は、夕焼けのときだけ一瞬、草が青く光るように見える。

 中学の頃、ふたりでここに来ては将来の夢を語り合った。

 陸は「いつかこの小さな町をふたりで出よう」と言った。

 湊は「その時は、この丘の上から満天の星空を眺めよう」と返した。

 その約束は果たされぬまま、あの忌まわしい日が訪れた。


 丘に着いたとき、風が一瞬にして止んだ。

 蝉の声も、遠い車の音も何もかもが消えた。

 世界がまるで息を潜めているように。


 湊は携帯を握りしめながら、辺りを必死に見回した。

「……陸?」


 返事はない。

 けれど、確かに“何か”の気配が感じられる。

 それは風ではなく、空気そのものが動く感覚だった。


 全ての静寂をかき消すかのように突然、スマホがけたたましい音を立てて震えた。

 画面には、新しいメッセージの表示がある。


『後ろ』


 文字を確認したのと同時に、反射的に後を振り向く。

 そこには、夕陽を背に立つ少年の姿があった。 夏服のシャツが風に揺れ、微動だにせずこちらをじっと見ている。

 ――陸だった。


「……なんで……?」 

 言葉が喉でつかえる。

 見間違いではない。

 姿も声も、あのままだ。

 だが、どこかがおかしい。

 違和感が湊の中で膨らみ、疑念が泡のように湧いてくる。

 陸の瞳の奥が、まるで“ガラス越し”のように遠い。


「湊……俺、帰ってきたよ……」


 その声は確かに陸のものだった。

 だが、耳の奥で反響するような不自然な響きが混じっている。


「陸、おまえ……本当に……生きてるのか?」

「わからない。でも、ここにいる。俺は“消えたくない”って思った。それだけ、だと思う」


 風が吹き抜ける。

 それは、肌を刺すような冷たい風だった。

 湊の胸にざらつく感触が走る。

 その瞬間、陸の身体が淡い光を放った。


「湊、約束したよな。もう一度、あの星空を見ようって」

「……それは――」

「だから来て。ふたりでこの町から出て、“向こう”に行けば、みんなやり直せる」


 ――“向こう”――。

 その言葉の響きに、不快感が渦巻き胸の奥がざわついた。

 背後で木々が悲鳴をあげるようにざわめく。

 空が不自然に青く染まり始めていた。


「行こう、湊。俺たちは、もう一度――」


 その瞬間、真白の声が響いた。

「湊、ダメッ!!」


 振り返ると、丘の入り口に真白が立っていた。

 息を切らし、泣きそうな顔でこちらを見ている。 

 その声に反応するように、陸の姿が陽炎のようにゆらゆらと揺らいだ。


「……なんで、止めるの?」

「それ……あいつじゃない!」


 真白の叫びと同時に、空の青が砕けた。

 まるで世界がガラス細工のようにひび割れ、光が涙のようにゆっくりとこぼれ落ちていく。

 湊の視界が、眩しいほどの青に包まれた。


 ――その光の中で、陸の笑顔がゆっくりと崩れていく。

「湊、またな……」


 声が遠ざかり、世界が反転した。


 気づけば、湊は公園のベンチの上で目を覚ましていた。

 汗でシャツが張りつき凹凸のある腹筋が波打ち、腹式呼吸するほど息が乱れている。

 周囲は夕暮れが駆け足で訪れ黄昏が落ちる。

 淋しげな儚い蝉の声が、ふたたび耳を満たしていた。


 夢だったのかと思うほど現実との境が曖昧になっていた。

 だが、スマホの画面には新たなメッセージの一行が表示されていた。


『また、青の丘で。――陸』


 風が丘の草をかき上げるように吹き抜けて行った。

 その風の音は、どこかで泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。



#純文学 #文芸 #サスペンス #ミステリー


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