和解と、空虚な館

 黙って様子を見ていたケイオスが、ようやく重い口を開いた。


「俺たちの禍根を、子どもの世代まで引きずることはないじゃないか。なぁ、ステファン……あのときお前のことを“色情に狂った絶倫野郎”だって触れ回ったこと、謝らせてくれ」


 あまりにストレートな謝罪に、由佳は思わず眉をひそめる。


 ──最低じゃん。


 どうやら時生も同じことを思ったらしく、冷めた目で父を見つめていた。


 ステファンはしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「……私がどれほど傷ついたか、分かっているのか」


「分かっている。俺はお前の才能にずっと嫉妬していたんだ。勝てないと思って、くだらない嘘をついた。……愚かだったよ」


「おかげで、あの噂がしばらく続いて苦労した」


「そうでも言わなければ、文武両道のステファンに敵わないと思ったんだ。本当に、悪かった」


 殊勝な態度で深く頭を下げるケイオス。ステファンはじっと彼を見つめ、やがて口の端を僅かにあげた。


「……まったく。私の親友は、本当に馬鹿だな」


 その声音には、もはや怒気も棘もなかった。

 二人は互いに目を合わせ、言葉はなくともその瞳で和解を確かめ合う。

 そしてどちらからともなく手を差し出し、力強く握手を交わした。


 ──なんか、よく分かんないけど……成功しちゃった。


 由佳は呆気に取られたまま、場の空気を眺めていた。

 すると、ケイオスが由佳ににこやかな笑みを向けてきた。


「パシテア嬢」


「は、はい」


「この際だ。タナトスとトキオ、どちらが伴侶として相応しいか、選んでみてはくれないか?」


 あまりに突飛な提案に、由佳は固まった。

 すぐさまステファンが抗議する。


「ケイオス、さすがにそれは──」


「いいじゃないか」


 ケイオスは豪快に笑った。


「俺の息子たち二人ともがお前の娘に恋をしたなんて、これは面白い! 二人とそれぞれ時間を過ごし、より相性の良い方と結婚すればいい! どうだ、タナトス、トキオ!」


 突然の無茶振りに、二人は考え込むように黙したあと、やがて静かに頷いた。


「分かりました」


「パシテア嬢の心に従います」


 彼らは真剣な眼差しで答える。

 一方で、ステファンは呆れ果てたように頭を抱えた。


「ケイオス、パシテアの気持ちも考えてやってくれ」


「よく考えてみろ、ステファン。俺たちの過ちは、女性に考える時間を与えなかったことだ。息子たちに、同じ過ちを繰り返させてはいけない」


 肩を組んで力説するケイオス。ステファンはしばし沈黙したが、やがてため息と共に「……確かに」と呟いた。


 ──どんどん話が進んでいく。

 由佳の頭だけが、完全に置いていかれていた。


 タナトスとの恋愛ルートを阻止しようとしただけなのに。

 どうして、二人と“同時進行の恋愛ルート”に突入してるの……?


「もう無理……」


 視界がぐらりと揺れた。

 思考がパンクした由佳は、目を白黒とさせ、その場で崩れ落ちる。


「パシテア!!」


 彼女を取り囲む男たちの声が重なり、辺りは騒然となった。



 *



 パシテアとカリテス伯爵を屋敷まで見送ったあと、時生は一人、モルス侯爵邸へと帰った。


 煌びやかな建築。磨き込まれた床。整然と刈り込まれた庭木。

 一見すれば完璧な貴族の館だ。だが細部を見れば、あちこちに不自然な“隙”がある。まるで、描き込みの足りない背景。


 さすがは小説の世界だ、と時生は苦笑した。必要な場所だけが丁寧に描かれ、それ以外は輪郭のない虚構のまま。


 階段を上りながら、胸元のボタンを緩める。この世界の衣服はどこか息苦しい。


「……息が詰まるな」


 誰に言うでもなく、低く呟いたそのときだった。


「……トキオ」


 背後から呼び止める声。

 低く唸るような、抑えた怒りを孕んだ声音。


 時生は一瞬で声の主を悟り、肩越しにゆっくりと振り返った。


 銀髪、紫の瞳。夜の光を宿したような男。


「お前は……誰だ」


 タナトスの問いに、時生は目を細める。

 考え込むようにわずかに視線を上げ、やがて、淡々と告げた。


「……ヒュプノスだよ、兄さん」


 空気が凍る。

 タナトスの瞳が大きく見開かれた。


「パシテアを……奪いに来たのか」


「……誰が言ってんだよ」


「トキオ……お前の目的は何だ」


 苛立ちを隠せず、タナトスの声がわずかに震えた。対する時生は、無表情のまま沈黙する。


 長い間、時生は何かを思案しているようだった。

 静かな空間に、呼吸の音だけが存在した。

 やがて、ほんの僅かに口を開く。


「……罪悪感を、拭いたくて」


 その静かな言葉が、空虚な屋敷の空気を震わせていた。

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