第25話 消息


「どういうこと、待てないって?」

「中原の都に行くの」

 よく見るとポーリャは顔を上気させて、いろづいた桃のような頬からは湯気も立たんばかりに見えた。

「いま聞いたのよ。カフカがそこにいるかもしれないって。捕虜の人を診てあげてたらね、かれはむかし中原の都に住んでたんだって。そこにカフカって名の人がいたって」

 ナランツェツェには目をやらずまっすぐ前を向いたまま、うわのそらでつづけた。

「ながい黒髪だっていうのよ、きれいな顔でやさしい声をしてるって」

 いつもものごとに動じないポーリャが声をふるわせて、朱を差していた頬が見る間に白い肌が透けるほど血の気が引いていくのをナランツェツェは茫然と見つめた。

「ずっとさがしてたのよ。カフカが火事で死んだなんて信じてなかった。アルテやイリスがカフカを死なせるわけないもの」

 ポーリャは蒼白な顔でナランツェツェを見て、からくり人形のようにぎこちない笑顔をつくるとそのまま気をうしなって落馬した。


 ポーリャがたおれたのは丘の中腹だった。みじかい夏を迎えようとする高原は動物も植物もみな生命力に満ちて、緑の枝をひろげるカラマツが心地よい木陰を作っていた。馬から飛び下りたナランツェツェが、ちょうど木陰にたおれたポーリャの薬箱から気つけ薬を取り出し、まっさおで力のないくちびるのあいだに押しこむと間もなくポーリャは目をひらいた。

 ユキヒョウが不審げに枝の上からふたりをうかがっていた。二頭のカモシカが緑に萌える高原でゆっくり草を食んでいるのが遠目に見えた。

「ナーチャが介抱してくれるなんてね」

 血の気をとり戻したポーリャは照れかくしに笑って言った。

「薬もなんとなく分かるようになったよ」

 反射的に答えたが、そんなことより大事な話をたしかめなくては、とナランツェツェは気がせいた。気をうしなう前にポーリャが言っていた、妙な言葉。

「カフカがどうして中原にいるの? ペテルシェヒルで死んだんじゃなかったの?」

 ポーリャは露をふくんだ草のうえに横たわったまま木もれ日さえまぶしげに、左手をかざした。カラマツの枝のすき間からのぞく青い空をイヌワシが旋回しているのが見えた。イヌワシの動きを目で追っていくうち心配そうに上からのぞきこむナランツェツェと目が合った。そのナランツェツェにポーリャはたずねた。つぶやくように、放心したように。

 たおれる前に私なんて言ってた? カフカが生きてるって言った?

 ポーリャは身じろぎひとつしないでナランツェツェの目を見つめながらつづけた。心はまだ夢のなかにあるようだ。

 そうよ。カフカはぜったいに生きてるわ。焼け落ちた家を見たらわかる。カフカが死んだと聞かされてすぐ、私は馬車でペテルシェヒルへ向かったの。

 ほんの三月みつき前ペテルシェヒルを去ったときには家があったはずの場所は、それが幻だったかのようにうつろに空いて、地面には崩れたレンガが黒く焼け焦げて散らばっていた。私はなにも考えられずに亡霊みたいにふらふらと焼け跡を歩いたわ。年中花を咲かせていた庭の木も、藤棚もみんな焼けちゃってた。私たちが最後に過ごしたカフカの寝室も、いつもみんなで集まっていたリビングも、イリスがごはんを作ってくれたキッチンも、どれもあとかたなく焼け落ちていた。カフカの思い出のかけらひとつ拾いあげることができなかった。

 おかしいって気づいたのはモスコビアで医術をすっかり学びおえてしばらくたってから。だってレンガ造りの家なのよ? レンガの壁は焼け焦げはしてもふつう土台まで崩れ落ちたりはしない。それがまるで焼き討ちにでもあったみたいになにもかも破壊されて、申し訳程度にレンガや破片がころがっているだけだった。家じゅうが念入りに焼きつくされていたわ、まるでカフカがいた痕跡を一つも残してはいけないように。


「カフカを殺そうとしていた人たちがとうとう成功したのかもしれないよ?」

 ナランツェツェはうっかり口に出してから、不吉な仮定が頭にうかんだことに自分でおどろいた。


 私も最初はそう思ったわ――でも私には別の考えがどうしてもうかぶのよ。あのときカフカはあんなに泣かなきゃいけなかったのかな? 私がモスコビアに何年か行くぐらいのことで、アルテはどうしてあんな思いつめた目をして私を見送ったんだろう? 一角獣のお守りなんて、まるで形見を分けるみたいに!

 ポーリャは半身を起こすと眼下の草原に視線を向けた。その目にはもう強いかがやきが戻っていた。青い透きとおったかがやきだ。

 もしかしてカフカがどこかに生きているかもしれないのなら、たとえわずかでも可能性があるのなら、私は行くわ。そのためにここまで旅してきたんだもの。



 戦のあと中原から連れてこられた捕虜たちの運命はさまざまだ。ある者は身代金と引き換えに早々と中原へ戻ることをゆるされる一方、身代金を払える身内のない者は奴隷商人に売り払われるか、売れのこって一族の下働きをする奴隷となる。あるいは高原の厳しい生活にたえられず、衰弱した末に命を落とす者もある。

 ポーリャに中原の都の話をしたのは、戦で傷を負った足を引きずるために労働力としての価値が低いうえ病を得て足手まといになっていた男で、このさき無駄飯を食らわせるぐらいならもう殺してしまおうかとナランツェツェの母が言っていたのをポーリャが憐れんで、診てやったのだった。

 ポーリャの治療で病は癒えて草刈りや皮なめしぐらいは出来るようになったが、この体力ではいずれ長もちはするまいと思われた。この男が病の床で、故郷にのこしてきた妻や子供たちへの想いを語るなかに、カフカの話が出てきたのだった。

 ナランツェツェにはこの男が東方からあだな話を運んできた疫病神のように思えてわざときつい仕事を与えたりしたが、ポーリャが自分のみにくい心を見すかしているような気がして、そんなときはポーリャと顔を合わせるのに気おくれした。

 このごろポーリャは薬の知識をすべてナランツェツェに授けようと、毎日ナランツェツェに会いに来るようになっていた。その日もナランツェツェの天幕ゲルに寄ると、ただでさえ悪い足につけられた鎖を引きずりながら薪を運ぶ男の姿にふと気づいてしばらく目を止めた。

「故郷には、嫁を迎えたばかりの息子と十五の娘がいるんだって。生きて帰れたら娘の花嫁姿や、孫の顔も見られるんだろうにね」

 髪に白いものの目立つその男は肩で息をして、額からは脂汗が垂れた。ナランツェツェは男をじっとにらんだまま、

「ビルゲだって赤ちゃんが生まれたばかりだった。タトバルも母さんとこに戻りたかったはずよ。家族が待ってるのはあいつだけじゃない」

 と強情に言ったが、ポーリャと目を合わせられなかった。


 ポーリャはすぐにでも中原へ発ちたいと気がはやったが、ナランツェツェの懇願に負けてけっきょく夏祭りの日までは彼らと高原にとどまることになった。夏至の日に行われる競馬で晴れ姿を見てほしい――ナランツェツェのたっての願いを聞き入れたのだ。

 毎日栗毛の調教を進めるナランツェツェは、丘の麓に陣どったタトバルの母のゲルをまめにおとずれていた。戦場にたおれるのが宿命と覚悟のきまったかれらではあっても、あまりにおさなくして辺境の戦に命を落とした末子がやはり不憫なのだろう、タトバルの母と話すとどうしても息子の思い出話に行き着いた。ある日ナランツェツェがふと例の中原の男のことに触れたとき、かれを待つ家族の話を聞いてタトバルの母がしんみりと、

「二度と会えないのはかわいそうだね」

 と言ったのがナランツェツェには意外だった。ナランツェツェにしてみれば中原の男は一族でも同胞でもなく異民族であり、なによりタトバルを殺した敵の仲間だ。同情する理由はどこにもなかった。


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