第22話 傷


 けっきょく私が最終的に意識をとり戻したのは襲撃からひと月たったあとだった。そのあいだなにひとつ食べることなしにいたらしいわ。あれだけの血をうしなって、大けがした首も再生しなきゃならなかったのにね。

 私が生死の境をさまよっているあいだ、二度ラーシュカがお見舞いに来たんだって。私たちの家の住所は、お父さんが教えるはずないから学校から聞き出したか、それともお兄さんが教えてくれたのかしらね。そのお兄さんはあのとき吹っ飛ばされたおかげで命を落とさずにすんだけれど、そのかわり足の骨を折ってしまってしばらくは家でおとなしくしてなければならなかったと、あとから聞いた。


 学校に行く前の日の晩にやっと首の繃帯を解いたわ。あれだけの大けがをしたのに、私の首にのこった傷痕は不思議なほどにかすかなものだった。首筋をなでると細いひとすじの線が盛りあがっているのが感じられるだけで、もう痛みはなかった。これでまた元どおりの生活だ、って私はあっさり気持ちを切り替えたんだけど、この事件でカフカが心にどれほどふかく傷を負ったか、私は分かっていなかった。


 ポーリャの背中から肩のあたりを揉んでいたナランツェツェは、傷のことを聞いてポーリャの白い首すじに顔を近づけた。大草原の夜のまんなか、明りといえば月と星の光だけがたよりだ。薄明りに目を凝らすと、ふだんはふわふわの金髪の下にかくれているうなじに、たしかにうすい線が一本桜いろにうかび上がった。手を触れるとほんのわずかに盛りあがった線が、首のうしろから喉もとまで右半分を歪みなく、うつくしい弧を描いている。

 夜のほうがかえってよく見えるのよね。太陽の光が当たるとまぶしくて目立たなくなるの。

 ナランツェツェが首の古傷に沿って指をすべらすのに抗いもせずポーリャがベッドになかば埋まった口から言うと、それに応じたのか独り言なのか分からないほどの声でナランツェツェがつぶやいた。

 ――どうしてだろう、今まで気づかなかった。

「私の首の傷はきれいにふさがったんだけどね――」

 ポーリャはふたたび語りだした。

 問題はカフカのほうだった。私があやうく死にかけたことにカフカは打ちのめされて、そちらの傷はどうしてもふさぐことができなかったのよ。


 それともうひとつ、カフカの心配を増やしていた問題があった。

 これまでなんどもカフカは襲われていたのに、不思議とそれが事件として取り上げられたことはなかった。でも、今回ばかりはちがったの。ドミトリーがいたからね。

 伯爵の一族は権勢家だったし、ドミトリー自身も宮廷に勤めていたから、かれが大ケガしたって聞いて、たくさん見舞の客がきたみたい。ドミトリーったら、くる人くる人にカフカが襲われたって言いふらしたのよ。

 そりゃまあ事実だし、相当ショックだったろうから人に言わずにいられないってのは分かるんだけど、超絶美人の青年だとか、凄腕のメイドだとか、謎の刺客たちってきたらもうどんな妄想よって思うわよね。おまけに警察は「そんな事件はなかった」って門前払いだし。

 頭の打ちどころが悪かったんじゃないか……ってまじめには受け止められなかったようだけど、それにしてもカフカに関するうわさは一部のあいだで広まった。それはイリスには見過ごせない事態だったみたい。新たな危険を招き寄せかねなかったから。

 カフカにとっても無視できない重大事だった。カフカの危険の増大は、また私を巻きこんでしまう危険が高まるということでもあったから。


「私はね」

 とポーリャは天井を見あげたまま言った。

「ドミトリーをずいぶん恨んだわ。かれがいなければ、結果はあんなふうにならなかったかもしれないのに、って」

 ナランツェツェはそっととなりに目を向けた。ポーリャは涙を流していた。いけないものを見てしまったみたいで目をそむけなきゃ、って思うのだけれどどうしても目が離せなかった。

 でも、とポーリャは言った。

「ほんとに許せないのは私自身なの。あのとき私がちゃんとけていれば、ほんのすこしはやく動けていれば、私は楽園を出なくてよかったの。私は私を、一生ゆるさないわ」

 その口調はいつもとおなじおだやかな、やさしく包みこむような声だった。さっきからポーリャはそれと気づかせない調子で話しながら、ずっと泣いていたのだとナランツェツェは気づいた。



 生命の危機はどうやら脱したらしい私がそれでも眠り姫みたいにずっと意識が戻らないのをやきもき見まもりながら、カフカとイリスはなんども話し合った。そして出した結論は、私を学芸の都モスコビアに送って医術を学ばせることだった。

 いつまでも太陽のしずまない八月のある夜、食事の片づけをおえたイリスがサモワールとチョコレートを用意してリビングにあらわれると、お尻でちょいと私を押して場所を空けさせソファに座った。カフカとイリスのあいだに私をはさむ形でね。その夜はアルテとディオもリビングにいたわ。そしてカフカはモスコビア行きの話をはじめた。

「いやよ」

 まっさきに出てきたのがこの言葉だったわ。だってはじめて橋のうえで出会ってからそれまで、いちどとして家族とはなれて暮らすなんて想像することさえなかったもの。朝起きてカフカの顔を見られないなんてこと考えられなかった。

 イリスが私を医者にと考えついた理由は見当がつくの。学校でなにかあったら来てくれるお医者さんが女の先生で――お父さんがお医者さんで自分は一人娘だから跡を継いだって聞いた――女のお医者さんなんてめずらしかったから、かっこいい! 私もこんなのになれたらいいな、って騒いでたのよ。でもそれほど本気で医者になりたいってわけじゃなかったし、それはイリスも分かってたはずなのに。

「どうして? 私じゃカフカを守れないから? カフカの足手まといになるから?」

 けがをしたのがいけなかったのかと私は思ったの。

「はなれるなんていや。私を追い出さないで」

 両手でカフカの膝をゆすってうったえると、カフカはほんとうにせつない顔になったわ。

「ちがうよ、ポーリャ。反対なんだよ。ぼくがポーリャを守れないのがいけないんだ。ごめんよポーリャ。ポーリャが大けがを負ったのはぼくのせいだ。ぼくと一緒にいるといつかポーリャが死んでしまう」

 カフカは壊れるのをおそれるようにそっと私の首の傷痕に触れた。

「ぼくたちは、なによりもポーリャには幸せになってほしいんだよ。ぼくたちがいつも願うのはそれだけだよ」

「分かってない。カフカと暮らせなきゃ幸せなんてないわ。カフカのばか」

 窓の外が夜半まで明るいなか長く話し合ったわ。ようやくあたりが暗くなった頃、うったえつかれた私はイリスの肩に顔を乗せながら、カフカが話すのを聞いていた。

「ぼくの腕のなかでポーリャの息が止まりかけていたあのとき、ほかの人すべての命に換えてもこの子だけは助けたいってぼくは思ったんだよ。でもぼくはすべての人間の命と引き換えにポーリャを助けてって言うことはできなかった。代わりに、ぼくのいちばん大切なものと引き換えにするって祈ったんだよ」

「いちばん大切なものってなによ?」

 そう訊くとみんなが私を見たわ、なんで分かんないかなって顔して。カフカはやさしい声で言った。

「ポーリャと一緒に暮らすことだよ」


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