第3話 閉じた扉 小フーガト長調

俺は何歩か部屋に入り、その異様さに立ち尽くす。

やや天井高のある正方形の部屋の中は、予想だにしなかった光景が広がっていた。コンクリートの打ちっぱなしの壁に天井、そして床。無機質なコンクリートの中央に、場違いなほど豪奢な二人掛けソファが鎮座していた。赤い革張りに金色の縁取り。隣り合って腰掛ければ、必然的に身体が触れ合う距離しか残されない造りだった。

ソファの正面には壁面を半分覆うほどのモニターと、その下には本格的なカメラがしつらえてある。モニターに向かって右側の壁面には、等間隔に並べられた白い無機質な箱が置かれていた。

他には病院で使うようなベッドが一つだけ。白いフレームに、シーツすらかかっていないマットレス。豪奢なソファとは不釣り合いで、まるで別の用途を想定しているかのように思えた。俺は思わず視線を逸らした。

天井の四隅と床の四隅に設置されたカメラが、二人の存在を無言で捉えていた。


後ろ手にドアを閉め、何歩か先で立ち止まった綾野くんの横に並ぶ。

目に飛び込んできたのは、部屋の真ん中にある豪華なソファ。赤い革張りで控えめな光沢は、合皮なんかじゃなさそう。いくらくらい、するのかな。そう考えてしまった自分が少し恥ずかしい。本革の匂いがここまで漂うように思うのは、多分気のせいじゃない。

周りにずらりと椅子を並べて、キャンバスに苦労して描いた、友達のようなものを思い出してほんの少しだけ鬱になる。

他にはシンプルなベッド。

(演技で使うのかな?)でも、演技ってどんな?

オーディションといえば、偉い人たちが並んで審査をするものとばかり思っていたけど、あちこちにあるカメラを通じて、見るのかしら。

調整室?みたいなところから指示とかが、あの大きなモニターに出るのかな。

羽虫の飛ぶようなぶぅんという音が、静かな部屋に広がってまた少し肩のこわばりを感じる。

私はソファに目をもどしながら、息を整える。

「なんだか、美術室みたいだね」つぶやいた声が、思いの外大きく響いた。


彼女は緊張した声でそう呟いた。美術室というには無骨すぎるし、ホテルにしては寒々しすぎる。部屋の異様さに、俺の頭の中では警戒を呼びかけるサイレンが鳴り響いていた。

広さに対して多すぎるように感じるカメラの台数、殺風景ななかにおいて色彩を主張するソファとベッド――いったいこの空間はなんだ?

彼女が「美術室」に見えるほど、この場所の恐ろしさに気づいていないことが、かえって俺の恐怖を増幅させた。


横を見ると綾野くんは、ゆっくりと室内を見まわしながら、「待てよ」とか「くそっ」とか、わずかに聞こえる程度に吐き出した。

ひょっとして、もう審査って始まってるのかしら?彼は経験者なのかな?言葉にしてくれないから、全然わからない。


「部屋、間違えたのかな? ちょっと確認してみないか?」

そう言いながらドアに向かおうとした刹那、目の前のドアから「ガチャン」と重い音が響いた。さらに驚くべきことに、重たいモーターの駆動とともに床に開けられた複数の穴から鉄柱がゆっくりとせり上がる。

ドアまでの心理的な距離を果てなく広げていく。それは、物理的な脱出が不可能であることを、二人にはっきりと突きつけるものだった。


訳がわからず、つい綾野くんの腕を掴む。ビクッとしたが、彼は腕を振り払ったりしなかった。

急に部屋が広がったような気がして。天井から重い空気が二人の上に降り積もった。


俺は目を見開いて、その光景をただ見つめることしかできなかった。彼女は恐怖に顔を歪ませ、俺の腕にしがみついた。驚いたが、納得した。俺も怖かったからだ。


綾野くんが胸ポケットからスマホを取り出したが

「圏外だ」桜坂さんは?

慌てて取り出す。手が震えて汗でスマホが滑る。

「私も……」


くそっ、迂闊だった。

キャリアの違う彼女も同様なので、誰かの悪意の仕業だ。


なんか、すごい。こんな時になんて冷静なの。彼の頼もしさに少しだけペンダントの揺れがおさまる気がした。でも、閉じ込められて逃げられないと言う事実が私を重く包んだ。


ソファの正面、壁面の上半分ほどになる大きなモニターの画面が切り替わり、精巧なCGで描かれたスーツ姿の男が映し出された。男はにこやかに、しかし一切の感情を伴わずに話し始める。

『さあ、舞台の幕開けです』

モニターの男が、柔らかな口調で告げた。

しかしその声音は、あらかじめ決められた台詞を読み上げるだけの機械のようだった。

『まずはご本人様確認をいたします。――綾野裕介様。あなたは選ばれてここに参加されました。間違いございませんね?』

喉がひりつき、言葉が出ない。かろうじて小さく頷いた。

『続いて、桜坂結衣様。あなたも選ばれてここに参加されました。間違いございませんね?』

彼女は目を見開き、固まったまま返事ができなかった。

だが、モニターの男は頓着せず、にこやかに続ける。

『確認は以上です。では、これよりルールを説明いたしましょう』

『私はこのゲームのマスターです。お二人は今、密室に閉じ込められました。このドアが再び開く条件はただ一つ、与えられた4つの課題を達成することです。男性参加者様にとってはたいした課題ではごさいません』

俺はその言葉に背筋を凍らせた。ゲーム、密室、課題……。何をいっているんだ?

嫌な予感が確信へと変わっていく。隣で彼女が小さく震えるのが分かった。彼女がオーディションだと信じていたことが、残酷な嘘だったのだと悟ったのだろう。

「待ってください! もし、課題を達成できなかったら……どうなるんですか?」

俺の叫び声に、マスターは感情のない笑みを浮かべた。

『ご質問ありがとうございます。もし、課題に失敗した場合……』

マスターの言葉が途切れると同時に、モニターの画面が切り替わった。マスターの表示が消え、映し出されたのは、天井のカメラが捉えた二人の姿だった。次の瞬間、壁のカメラの映像に切り替わり、俺と彼女の顔がアップで映し出される。さらに、二人の背後、足元、部屋の隅々まで、あらゆる角度から捉えた映像が次々と映し出されては消えた。

『お二人がゲーム中に見せた姿は、世界中の人々に公開されることになります。ご安心ください。映像は特殊な技術で加工されており、ネットに一度流出すれば削除は不可能。お二人の人生は、私たちが永遠に保管し、共有します』

その言葉が耳に届いた瞬間、俺は全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。母親の生活を楽にしたいという純粋な願い。それが、もし失敗すれば、母親まで巻き込むことになるかもしれない。しかも、金の話はしなかった。今、聞くべきかそれともゲームとやらの報酬なのか。

「待ってくれ、まだ聞きたいことがある!」

『困りましたね。本来なら課題が提示されたらカウントダウンが始まるのですが……。まあ、最初ですしサービスしましょう。どうぞ』

「今なら、今なら俺たちはただ部屋の中に立っているだけだ。こんな映像が公開されたところでさほど困らない。今、拒否することはできるのか?」

桜坂さんがこちらを見つめているのを横顔に感じながら、俺はただ巻き込まれただけの彼女を、できることなら無事帰らせてあげたいと強く思った。

『最近の技術の進歩は本当に目覚ましくてですね、お二人の映像はあらゆる角度から撮影させていただきましたので、ええ、素材としては本当に素晴らしい! これならどんな映像でもお作りして差し上げますよ。ほら、流出動画っていうのあるじゃないですか。「彼女たちって今なにしてるんでしょうね」』

「そんなの、捏造じゃないか」

『見た人が判断できますかね?』

悔しいがこの男の言っていることは正しい。世に溢れる様々な映像の真贋など分かりようもないし、下卑た映像を好んで観るような連中にとって大事なのは、本物かどうかよりリアルか、好みに合うか、そんなところだろう。

『さて、もう十分にサービスさせて頂きました。改めてご検討ください』

再びタイマーが表示され、今度こそ時間が減り始めた。

俺の心臓が早鐘を打ち、隣の桜坂さんは目を大きく見開いていた。


ぷつん、という音に振り向くとモニターにスーツの男が現れる。それから、しばらくの出来事はよく思い出せない、前後も少しあやふや。「流出動画」「捏造」「撮影」「保管」「ネット」切れ切れの単語とただ綾野くんが敢然と立ち向かう後ろ姿が焼き付いている。そして、一つだけ間違いないのは、あの男の言う通りにしないと、夢が潰え人生は破滅するということ。


『さあ、無駄話はここまでとしましょう。最初の課題を提示します。選択肢は二つ。一つは、キスをすること。もう一つは、女性が下着だけになり、全身を愛撫することです。どちらか一方を達成すれば、タイマーに時間が追加されます。そうですね、キスなら5分、もう一つは10分ですかね。課題を達成すると、壁際にある箱が開きます。ご検討ください』

隣に目をやると、桜坂さんは大きく見開いた目でモニターに表示された文字を見つめていた。瞳が細かく左右に動き、書かれている内容が理解できないのか、あるいは理解を拒んでいるのか、口元に当てられた手は震えていた。

マスターの言葉が終わり、画面いっぱいに青い数字で「10:00」と表示された。


――


豪華な観戦ルームには、分厚い革張りの椅子が円を描くように並んでいた。中央の大きなモニターには、裕介と結衣の姿が映し出されている。


煌めくシャンデリアの下、足が沈み込む絨毯。

ざわめきが広がり、開幕したショーへの期待が湧き上がる。

政財界やマスコミ、力ある者たちが序列に従って並び、

中央の一段高いところに和服に身を包んだ老人が席を占める。

 

「綾野裕介だったか、安藤の仕込みらしいが大丈夫なんだろうな」

 

手元の書類に目を落としながら、元老はゆったりと腰掛け、手にした葉巻を弄んでいた。その横には現職の大臣が控え、すかさず銀色のダンヒルを取り出して火をつける。


「お、すまんな」


元老は軽く顎を引き、当然の礼を口にしただけで、火の先を確かめながら紫煙をくゆらせた。


大臣は乾いた笑みを浮かべ、安藤の方へ視線を流した。


「そういえば――」

吐き出した煙の向こうで、元老の目が細められる。

「この前の女はどうした? 案外、根性がなかったな」


大臣は慌てて立ち上がり、直立不動で答える。


「何件か案件処理をさせたところで、壊れました。」


大臣は一瞬だけ言葉を切り、視線を落とす。


「在庫が不足気味なので今回はうまくいって欲しいものです。」


元老が不満げに吐き捨てる。視線はモニターのまま微動だにしない。


「貴様には期待しておるのだ。そろそろ内閣を率いたいであろう?もっとうまく駒を使え」


無表情のまま画面を見つめる安藤。その横顔には、肯定も否定もない冷ややかな影が落ちていた。

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