第11話 手前から歩く
ニュースサイトの見出しは、朝の白湯みたいに静かだった。
《Vtuber星影ハル、“安全距離”を公式声明に。——「誰かの夜を守るために」》
文字がスクロールしていく。
コメント欄は荒れているようで、実は穏やかだった。
“理解できる”“守る姿勢は立派”“でも寂しい”——どれも正直で、痛くない。
春斗は、記事をひととおり読み終えてから、マグを両手で包んだ。
「……うるさくなるかと思ったけど、案外、静かだね」
「そうだな。みんな、疲れてるのかも」
「“信じたい”より、“落ち着きたい”が勝った感じ」
「疲れたときの人間って、誰かを疑うより、誰かを見守るほうが楽だからね」
ミントの葉を沈めながら、湯気が二人の顔のあいだを通り抜けていく。
朝の光が青白く、壁の上で揺れていた。
棚の奥の星柄のマグは今日も出番がないけれど、
その存在がなくなるわけではない。
見えない場所で光るものほど、いつだって強い。
「今日、玲さんに会う」
「うん。仕事の方?」
「うん。契約の最終確認と……これからの運用」
「運用?」
「配信活動の線引き。距離のルール。あと、住環境の話」
「住環境」
その二文字が、白湯の表面に波紋を落とした。
お互いの顔を見ずに、息を吐く。
引っ越すことは、守る手段でもあり、隠れる手段でもある。
どちらを選ぶかで、“関係の名前”が変わってしまう。
「七海からも聞いた」
「うん」
「“どっちを選んでも正しい。でも、どっちでもよくはない”って」
「らしい言い方だ」
「だね」
朝の会話は、それだけで十分だった。
これ以上の言葉は、今の生活を傷つけてしまう。
語らずにいられる関係が、いちばん穏やかだ。
***
昼下がり。
俺は駅前の喫茶店で待っていた。
いつもの白湯じゃなく、ブレンドコーヒー。
カップの縁が厚くて、唇に残る感触が鈍い。
飲み込むたびに、胸の奥が重く沈む。
外は雲。灰色の空。
事務所の入るビルの前に、傘の列ができていた。
面談のある人たちが、順番を待っている。
春斗も、その中にいるのだろう。
スマホが震える。
画面の通知。
> 春斗:
> 今、入る。
> “残る”か“移る”か、今日決まるかも。
俺は短く返した。
> 颯太:
> 焦らない。焦ったら、白湯を飲む。
> 春斗:
> ……六番ね。了解。
そのやり取りだけで、胸の緊張が少し緩む。
こうして互いの言葉がルールになっていることが、
どれほど支えになっているか、改めて知る。
カフェの奥で、カップを回す。
黒い液面に自分の顔が映って、
その後ろに通りを行く人々の姿がぼやけて見えた。
“外”というものが、こんなにも遠く見えるのは久しぶりだった。
ニュースが静かでも、世界は騒がしい。
でも俺たちは、もう逃げない。
“遠ざかる手前で止まる”を覚えたから、
次は、“手前から歩く”。
胸の中でそう繰り返していると、スマホが再び震えた。
> 春斗:
> 終わった。五分でそっち。
席を立つ。
外の光が夕方の色に変わっていた。
オレンジと灰の境界。
その中に、人混みを縫ってくる春斗の姿が見える。
目が合った瞬間、言葉は要らなかった。
「……おつかれ」
「おつかれ」
「どうだった?」
「“残留”になりそう」
「ほんと?」
「玲さんが、“線を引けたなら、次は描け”って」
彼は席に座り、深く息を吐いた。
肩の力が抜ける。
その動きひとつで、今日という日がどれだけ長かったかわかる。
「描け、か」
「うん。今度は“自分たちでルールを描け”って」
「描くって、難しいな」
「うん。でも、描くってことは、まだ続けるってことでもある」
春斗がマグを持ち上げ、冷めたコーヒーを一口。
「俺、隠すのはやめた。……守るほうを選んだ」
「うん」
「逃げるよりも、怖いけど、ずっと気持ちいい」
「うん」
彼の手が震えていた。
だけどその震えは、怖さよりも熱に近かった。
「もう“遠ざかる手前で止まる”じゃなくて、
“手前から歩く”にしよう」
「いいね、それ」
「ね」
春斗は笑った。
その笑顔の奥に、ようやく“安堵”という言葉が似合っていた。
コーヒーの香りが、ゆっくりと店内に満ちていく。
外の風が、雨の匂いを連れて通り過ぎた。
店を出ると、風の匂いが少し変わっていた。雨上がりみたいな湿気と、どこか甘い屋台の匂い。夕方の街は、人の気配がやわらかくなる。俺たちは並んで歩いたが、肩は触れない。触れない距離のほうが、言葉がよく届く夜がある。
「玲さんに、あとでお礼を言いたい」
「通話、繋げる?」
「うん。七海も呼んで、四人で」
帰宅して靴を脱ぐ。息をそろえて「ただいま」「おかえり」を一度ずつ。加湿器のスイッチを入れると、青いランプがじわっと灯り、部屋の輪郭に湿度が戻る。棚の奥の星柄は出さない。無地のマグを二つ。今夜はミントを控えめにした。
テーブルに白湯を置くと、春斗がノートを開いて、今日の断片を箇条書きにし始めた。「決めた理由は、後で言葉にする」——七番のルールに従う癖が、もう身体に入っている。言葉にすれば、揺れは静かになる。
通話の着信が鳴る。玲の声は落ち着いていて、少し笑っていた。
「おつかれ。いい顔してるじゃん」
「ありがとうございます。……残ることにしました」
「知ってる。会議室の空気って、終わった後も残るんだよ。廊下まで“決めた”が出てた」
七海が間を取って入ってくる。
「はい拍手。はい深呼吸。はい白湯」
「白湯はあります」俺が答えると、画面の向こうで満足げに頷く気配がした。
「で、これから。残った以上、“描く”が始まる」玲が言う。
「“描く”って、具体的には?」春斗が尋ねる。
「語彙と間合い。それから動線。同じ言葉でも置き場所で意味が変わる。昨日までの君らは“止まるための間”を使ってた。明日からは“歩くための間”に書き換える」
「……歩くための間」
「そう。間って、空白じゃなくて呼吸。呼吸って、意思で整えられる。君ら、もうできるだろ」
七海が軽く笑う。
「それと“甘いものルール”続行ね。緊張のあとに砂糖は正義。あと、可視化。冷蔵庫の中、ルール紙、テーブルの位置。見れば落ち着く“定点”を増やして。配信者は“定点”で生き延びるんだよ」
「定点」
「うん。“ここは変わらない”を、生活の中に作る」
「あるよ」俺は視線で部屋のいくつかの点を示した。「加湿器の青、ルールの紙、奥のマグ」
「最高」七海の声が弾む。「じゃ、その三点を**“座標”**って呼ぼう。迷ったら座標に戻る」
玲がまとめに入る。
「最後にひとつ。“守る”は、盾を構えるだけじゃない。姿勢の総称だ。言葉の置き方、沈黙の選び方、立つ位置。全部が守りになる。——よくやった。続けて」
通話が切れると、部屋がいつもの体温に戻った。青いランプの下で、白湯の湯気が細く伸びる。
「“座標”、いいね」
「うん。貼っとく?」
俺はメモ紙を破り、ルールの下に三つ丸を書いた。
A:加湿器の青/B:ルールの紙/C:星柄のマグ(奥)
そして小さく付け加える。
——迷ったらABCに戻る。
春斗が笑って、ペンを受け取った。
「じゃあ俺からも。D:拍(呼吸)。吸って、吐く。どこでも持ち運べる座標」
「携帯用の座標、好き」
白湯を飲み干すころ、外はすっかり夜になっていた。配信まで一時間。俺たちは家の音を一段落とす。廊下の明かり、換気扇、カーテンの角度。映り込みを避けるのももう儀式の一部だ。今日の画角は少しだけ高い。背景の本の背が一段、増えたように見せて、視線を散らす工夫もしてある。
「テーマは“歩く距離と、届く声”にする」
「いい」
「“距離があるから届く”って言える人、増やしたい」
「それ、玲のいう“姿勢”だね」
玄関のほうで、風鈴みたいに小さい音が鳴った。誰かが廊下を走り抜けたのか、家の骨がわずかに鳴る。春斗がそれに合わせて深呼吸をひとつ。俺もつられて、同じ拍で吸って、吐く。Dの座標は、すぐに取り出せる。
「行ってくる」
「戻ってこい」
「うん」
扉が閉まり、鍵はかからない。壁のこちらに“家の声”をおいて、向こうに“仕事の声”を出しに行く。二つの声が混ざらないように、クールダウンの五分を確保してあるのが——一番の保険だ。
——二十一時。
「ん、……こほん。今日も来てくれて、ありがとう」
最初の一声が低く、澄んでいた。
チャット欄が静かに流れ、モデレーターの緩やかな掃き出しが効いている。
「今日は、歩く距離の話をしよう」
春斗の声は、間が美しい。言葉の前後に空気がある。空気があると、想像が入れる。想像が入れると、人は優しくなる。
俺はブレーカーの前で“置いて”ある。
座標Aの青を遠目に確認して、座標Bの紙に目をやる。四番:大丈夫じゃないを言う。
今日はいらなそうだ、と思ってから、**六番:焦らない。白湯。**を指で撫でた。冗談みたいだけど、触れるだけで落ち着く。
配信は穏やかに進む。
朝の匂いの話。歩く速度の話。距離は助走だという比喩。固有名詞は出ない。温度だけが残る。
チャットの中に、かすかな棘が混じる瞬間が一度あった。
〈背景のマグ〉〈同じ角度〉
モデレーターが掃いた。春斗は“置いて”、次へ行く。浮かんだ波紋は、見えないところで消えていく。
終盤、彼は少しだけ表情を和らげた。
「最後に、すこしだけ。
歩くって、誰かと並んで歩くことかもしれないし、遠くから同じ方向を見ることかもしれない。
どちらにも名前はいらない。
名前がないときの方が、呼吸が深い夜もあるから」
言い切らないで終わる。余白を残す。
“歩くための間”は、こういうときに力を持つ。
「それじゃ、君の夜に、星を」
決め台詞。
マイクの小さな切断音。
壁のこちらで、俺も一度だけ長く吐く。
扉が開き、家の人間が戻る。
「おつかれ」
「ただいま」
白湯を注ぐ。湯気が手の甲で揺れる。
春斗はマグを両手で抱き、口をつける前にほんの一拍だけ止まった。
「……大丈夫じゃない、が、少しだけ」
「どこ」
「胸の真ん中。“うまく届いたかな”の不安」
「届いてる。でも、不安は座標で薄めよう」
俺は紙を指で軽く叩き、読み上げる。
「A、青。B、紙。C、星。D、拍」
春斗の肩が一ミリだけ下がる。
「効果あるね」
「あるよ。可視化は正義」
静けさの中で、外の風が一段落ちる。
呼吸を合わせ、拍で落ち着かせる。
「ねえ」春斗が言う。「一歩だけ、進んでいい?」
「どの方向に」
「“彼氏”を家で一回だけ言う方向に」
胸の内側で心音が近づく。言葉の手前で、拍を整える。
「……いいよ」
彼は目を閉じ、笑って、言った。
「彼氏」
音としては短いのに、部屋の空気を温めるには十分だった。
「一回だけ、だよ」
「うん。一回だけ。外では言わない。家で、一回」
言い終えると、ふたりで笑った。笑いの余韻で、白湯が少し甘くなる。
「明日も、歩こう」
「うん。手前から」
寝室に移る前、冷蔵庫の紙に小さく追記した。
八、止まらず、歩ける限り続ける。
ペン先が紙に当たる音が、今夜のラストの拍になった。
布団に入り、境界の内側で、節と節だけを触れ合わせる。
額は寄せない。
でも、呼吸はひとつ。
“手前から歩く”の初日が、静かに終わっていく。
朝の光は、夜よりもやさしい温度で入ってきた。カーテンのすき間から差す薄い橙が、白い壁を金色に染める。湯気のないマグが二つ、テーブルの上で寄り添うように置かれていた。
春斗はまだ寝息を立てている。肩越しに見える髪の影が、静かに揺れた。昨日書いたばかりの八番目のルールが、机の上で光っている。
——止まらず、歩ける限り続ける。
俺は静かに立ち上がり、白湯を用意する。沸騰する音が、少しずつ生活のリズムを呼び戻す。窓の外では、早朝の配達バイクが一台、坂を下っていった。
世界はもう、いつもの朝を始めている。
「おはよう」
背後から声がした。まだ寝ぼけた声だった。
「おはよう。……起こした?」
「ううん。いい匂いしたから」
春斗はマグを受け取って、一口飲んだ。
「昨日の夜、ちゃんと眠れた?」
「うん。多分、今までで一番深く」
「そっか」
彼はルールの紙を眺めながら、ペンを回した。
「八番、いいね。“続ける”って、簡単じゃないけど、悪くない」
「悪くない、は最高の褒め言葉」
「だろ?」
二人で笑う。その笑いが、家の空気をやわらかく変えていく。
「……今日、七海に言われたこと思い出してた」
「なに?」
「“一緒に歩けるってことは、同じ方向を向けるってこと。でも、同じ速度じゃなくていい”って」
「うん」
「だから、たぶん俺たちは、それでいい」
「“速度の違う並走”」
「そう、それ」
外から小鳥の声が聞こえた。
「今日の配信、内容は?」
「“続ける”かな。シンプルに」
「昨日の“距離”の続き?」
「そう。歩く先に何があるかじゃなく、歩くことそのものに価値があるって言いたい」
「いいと思う」
春斗はマイクとライトを整える。
画面の明かりが灯ると、さっきまで眠っていた顔が仕事の顔に変わる。
俺はその背中を見ながら、ノートパソコンを開いた。
画面の右上、配信のサムネイルには手書きの文字。
《続ける。手前から、歩くために。》
——配信開始。
「こんばんは、星影ハルです。今日も来てくれてありがとう」
低い声が部屋を満たす。
「昨日、“距離と愛情”の話をしました。今日はその続き。“続けること”について、少しだけ」
チャット欄に、ハートや拍手の絵文字が流れる。
「続けるって、たぶん、才能じゃないと思うんです。
才能は、始めるときに必要な勇気で、
続けるのは、誰かと生きるための工夫。
だから、僕は、歩き続けます。
誰かの夜が、少しでも優しくなるように」
その声は、壁のこちら側まで穏やかに届いた。
俺は息を整え、ルールの紙にそっと手を当てる。
八番の文字が、光の中で少し滲んだ。
「そして、最後に一つだけ」
春斗がマイクの前で微笑む。
「僕が今日もここにいられるのは、隣で支えてくれてる誰かのおかげです。
名前は出さないけれど、ありがとう」
チャット欄が静かになり、次の瞬間、拍手の嵐に変わった。
画面の向こうで、春斗が深く頭を下げる。
「それじゃ、君の夜に、星を」
配信が切れる。
扉が開く。
「おつかれ」
「ただいま」
「……言ったね、“ありがとう”」
「うん。温度で伝えた」
「届いたよ」
春斗は笑って、マグを手に取る。
白湯の湯気が二人の間で絡まり、
その向こうに見える光が、まるで新しい朝みたいだった。
「明日も、歩こう」
「うん。止まらず、ね」
青いランプが一度だけ瞬いた。
呼吸の拍がそろう。
世界が、静かにまた回り始めた。
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