第10話 名前のない覚悟
朝いちの白湯は、湯気の立ち方ひとつで日を占う。
今日は、いつもより細く真っ直ぐに上がった。
加湿器の青いランプは安定していて、星柄のマグは相変わらず棚の奥。無地の白とボーダーが表に出ている。
冷蔵庫の内側には、角がやや丸くなったルールの紙。
一、配信直後は“家の声”で喋らない。
二、配信に関わる物証は画面に置かない。
三、外に出る動線はずらす。
四、“大丈夫じゃない”を言う。
五、外の“ありがとう”は減らし、家の“ありがとう”は増やす。
六、焦らない。焦ったら、白湯を飲む。
紙を撫でてから扉を閉める。冷気が足元まで落ちて、すぐに消えた。
「午後、事務所」
春斗がノートの余白を指で叩く。
「なんの件?」
「“これから半年の運用”の話。イベント、案件、露出の方針。……あと、住環境の見直し」
言いながら、彼は気配だけで俺の表情を読んだらしい。
「引っ越しが“候補”に上がってるだけ。決定じゃないよ」
「候補、か」
「うん。炎上の火種を減らすって名目。セキュリティも、回線も、遮音もまとめて強化する感じ」
「合理的ではある」
言いながら、無意識に棚の奥へ視線が引っ張られる。
合理の反対側に、暮らしの輪郭がある。
星の柄。ミントの匂い。加湿器の青。ルールの紙。
これらを丸ごと箱に詰めて、別の場所へ移す想像をしてみる。
頭では可能でも、胸のどこかが固まる。
「玲さんは?」
「“選べ”って言うはず。逃げでも守りでも、どっちでもいい。ただ、選ぶのは自分、って」
「玲さん、いつも正論が人間臭い」
「ね」
パンを焼く。バターを薄く。
俺たちの朝は、選ぶ前に食べて、飲んで、拍を合わせる。
吸って、吐く——。
体内に小さな定規を差し込む儀式みたいに、呼吸が横線を引いた。
***
昼前、七海からメッセージ。
七海:
今日の会議、多分“引っ越し”が出る。
どっちでもいい。
ただ、どっちでもよくはないってことは覚えてて。
つまり、“選んだ方にあなたたちの関係の名前が付く”ってこと。
続いて、短い通話。
「引っ越せば静かになる。けど、“守るために隠した”って物語が出来る」
「残れば?」
「“守るために線を引いた”って物語になる。……どっちが正解ってことはない。読む人の目次第」
「読む人?」
「世の中。界隈。——そして、あなた自身」
七海はいつでも厳しくて優しい。
電話を切ってから、ルールの紙の空白に鉛筆で仮の一行を足す。
七、決めた理由を、後で言葉にする。
選んだ瞬間は熱で動く。
後で言葉にしておけば、未来の自分が迷子にならない。
***
午後、駅前の風はやや強かった。
春斗と一緒に歩くのはやめて、今日は少し離れた喫茶店へ向かう。
“遠ざかる手前”の日には、出入口の視線を分散させる。
窓際の席に座り、メールを確認するふりをして外を見る。
通りを挟んだ先に、事務所のビル。ガラスの壁が天気を映して、薄い雲が流れた。
テーブルに届いたカップは、飲み口が厚くて重い。
白湯じゃない苦味が舌に広がる。
店内のBGMは、歌詞の聞き取りづらい洋楽。
“言葉が溶けている場所”だと、考え事がしやすい。
スマホが震える。
春斗:
始まる。
うまく喋れなかったら、あとで一回だけ逃げる。
颯太:
逃げ道はカフェの角席。
甘いものも置いた。
春斗:
ずるい。好き。
“好き”の三文字は、画面の上でやけに明るい。
言葉の重さは場所で変わる。
事務所の会議室に入る直前に打たれた“好き”は、多分、お守りの重さだ。
***
会議は一時間で終わらなかった。
二時間を過ぎ、三時間に届くころ、窓の光は灰色から薄い橙へ移っていた。
カップを二杯飲み、砂糖を一つだけ、途中で落とした。
胸の奥にささくれのような疲れができる。
呼吸して、吐く。
白湯じゃないときも、拍で守る。
スマホがまた震える。
春斗:
終わった。
五分でそっち。
早足の影がガラスに映る前に、ドアが開いた。
春斗は、整った顔で乱れていた。
髪は崩れていない。でも目の奥の筋肉だけが使われすぎて、少し赤い。
椅子に座ると同時に深呼吸をした。「……甘いもの、ある?」
フォークと一緒に、ミルフィーユ。層が多いほど、話がしやすい日はたしかにある。
「どうだった」
「案は二つ。“移る”か“残るか”。数字とリスクを並べて、“移る”が優勢。……でも」
「でも?」
「“残る”を選ぶ余地を、玲さんが残してくれた。“線を引けるなら、残れ”って」
「線」
「うん。公表する線——“私生活に関する一切の推測・詮索・場所特定に対する非関与宣言”。
あと、『星影ハル』の外にいる人の安全を守るための距離について、公式の言葉で出す」
「……事務所案?」
「玲さん案。正式に通すには言い回しを調整する。法務・広報・制作で揉むって」
春斗は水を一口飲んで、ミルフィーユを薄く切った。
層の一枚一枚が、音もなく崩れる。
「ねえ、颯太」
「うん」
「“隠す”と“守る”って、やっぱ違う。
隠すは、相手から目を逸らすこと。
守るは、相手と同じ方向を向くこと。……今日は、それをずっと考えてた」
「俺も、同じ」
「移ったら“隠した”になる気がした。
残るなら“守った”。
俺、守りたい。隠したくはない」
言い切る前に息が震えて、それでも最後まで言い切った。
覚悟を言葉にするのは、筋肉だ。鍛えなければ震えるし、鍛えれば震えても立つ。
「……じゃあ、残ろう」
「うん。残りたい」
「残る理由、あとで言葉にしよう」
「ルール、七番?」
「七番」
笑い合って、少しだけ沈黙する。
沈黙は、選んだ直後の揺れに寄り添う毛布だ。
やがて春斗が、フォークの先で皿を軽く叩く。「まだある」
「なに」
「“距離”のほう」
「ふむ」
「当面、俺は配信内で“私生活に寄る話”を減らす。
“朝の空気”みたいな温度の話は残すけど、“君を連想させる確信的な言葉”は置かない。
かわりに——家にいるときは、家の言葉を増やす。
“ありがとう”を増やす。
“寂しい”も、言う」
「四番の練習、ね」
「うん」
喫茶店の窓に陽が差した。
外の歩道で、子どもが水たまりを飛ぶ。
跳ねた水が光って、瞬間だけ星になる。
“星”はあらゆるところにいる。
だから、俺たちはその全部に名前をつけない。
名前をつけないことが、守りになる。
***
夜。
回線の最終確認、ブレーカーの位置、非常灯のスイッチ。
廊下の電気を一段落として、影が増える。影は音を食べる。
扉の前で、拍。吸って、吐く。
春斗は手を伸ばしかけて、指だけで止めた。「……行ってくる」
「いってらっしゃい。戻ってこい」
決まり文句は、いつだって最強のお守りだ。
——二十一時。
「ん、……こほん。今日も来てくれて、ありがとう」
最初の一声は低く、静かに強い。
“強い”には、音量は関係ない。
選んだ日にしか出ない声がある。
雑談のテンポはいつも通り。
でも、ところどころに**言葉の“置き方”**が違う。
「戻ってくる場所には温かいものがある」——固有名詞はない。温度だけがある。
「朝の空気の匂いが好き」——具体地名はない。輪郭だけがある。
そして、配信の終盤、彼は呼吸を整えて言った。
「最後に、少しだけ。
僕は、画面の向こうの君とお喋りするのが好きだ。
でも、僕の“外側”の話には関与しない。
誰かの生活や場所を、推測したり、詮索したり——それで誰かが傷つくなら、僕はその“推測”と“詮索”から離れる。
君の夜を守りたいから、僕の夜も守る。
それだけ、覚えておいてくれたら嬉しい」
宣言は、短かった。
短いものほど、長く残る。
モデレーターが流れを支え、チャット欄には「了解」「守る」「大事にしよう」の文字が増えた。
アンチもいる。
けれど、**“言葉の筋”**はもう通った。
「それじゃ、君の夜に、星を」
終わりの音。マイクが切れる前の空白。
壁のこちらで、俺も一度だけ深呼吸をする。
選んだことを、身体に染み込ませるみたいに。
扉が少し開いて、家の人間が戻ってくる。
目の奥の光が、仕事の光から生活の光に戻る途中。
「おつかれ」
「ただいま」
テーブルに白湯をふたつ。今夜はミントをほんの一片だけ。
湯気が重なって、影が揺れる。
「……怖かった?」
「少し。
でも、言ったあと、怖さが形を失った」
「形を失う?」
「うん。“言葉にした”分だけ、触れることができる怖さになった。
触れられるなら、抱えて歩ける」
「そうだな」
俺は笑って、湯気を吸う。「七番、書こう」
「七番?」
「“決めた理由を後で言葉にする”」
「やった。じゃあ今、言う」
春斗は少しだけ真面目な顔を作り、ゆっくり言葉を選び始めた。
「移らなかったのは、隠したくなかったから。
“誰かのために隠した”って物語は、たぶん長くもたない。
“誰かと一緒に守った”って物語なら、きっとずっと続く。
『星影ハル』の外にいる人の安全を守るための距離を選んだのは、僕の都合じゃなくて、“一緒に生きる”ための都合。
——だから、残る」
言葉が体温のある鈍器みたいに、胸の奥をどん、と叩いていく。
痛くない。
ただ、震える。
嬉しいと怖いの境界がふっとぼやけて、呼吸が一段深くなる。
「ありがとう」
「こちらこそ」
沈黙のあと、彼が照れたみたいに笑った。
「ねえ、練習しよう」
「なにを」
「四番。“大丈夫じゃない”を言う、の練習」
「いいよ」
「……いま、少し、寂しい」
「俺も」
「よかった」
「よくはないけど、よかった」
そんな会話をして、ふたりで笑った。
寂しさを共有できることが、強さになる夜がある。
指先だけ、節と節で触れる。
掌を合わせないのは、今日の正解。
額を寄せないのも、今日の正解。
遠ざかる手前で止まる。
止まるたびに、安心は増える。
***
翌朝。
晴れ。
雲の細片が剃刀で削ったみたいに薄い。
白湯の湯気はまっすぐで、ミントの葉脈が光った。
春斗は、スマホの画面を軽く見せた。
昨夜の宣言部分だけ切り取った公式の短文。
法務の文言と彼の体温が、無理なく同居している。
『星影ハル』は、視聴者のみなさまと健全に関わるため、
私生活に関する一切の推測・詮索・場所特定等の行為に関与しません。
誰かの生活や安全が損なわれる可能性のある行為を推奨しません。
どうか、それぞれの夜を大切に。
「玲さん、すげえ」
「**“温度で守る”**って、こういうことだね」
「うん」
パンを焼きながら、俺は冷蔵庫のルールを見た。
六行の下に、昨夜の約束と今朝の宣言をまとめた七行目を清書する。
七、選んだ理由を、言える言葉で持つ。
書いているうちに、紙の端がほんの少し波打った。
朝の湿度は、言葉をやわらかくする。
「颯太」
「ん」
「俺、やっぱり、ここで暮らしたい」
「うん」
「この青(加湿器)と、この紙(ルール)と、この見えない星(奥のマグ)で、落ち着く」
「俺も」
“俺も”の二文字を、**今朝初めての“家の声”**で言った。
春斗が目を細める。
その目の奥に、昨日よりも太い線が走っている。
覚悟は、輪郭に線を増やす。
扉の前で、靴紐を結ぶ。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。戻ってこい」
いつもの交換に、彼が小さな茶目っ気を乗せた。
「もし戻れなかったら?」
「戻れ」
「はは、強い」
「強く言うのが正解のときもある」
ドアが閉まり、静けさが戻る。
加湿器の青いランプが、一定の明るさで呼吸している。
机に座り、昨夜の配信ログを開かないまま、自分のための文章を書き始める。
> ——“隠す”と“守る”は違う。
> 隠すは目を逸らす。
> 守るは同じ方向を向く。
> 俺たちは、同じ方向を向いた。
> だから、残る。
> 名前はいらない。
> ここにあるのは、温度と拍。
> そして、毎朝の白湯。
書き終えると、胸のどこかで小さな音がした。
決めた理由が、言える形になった音だ。
紙を折って、ルールの紙の裏にマスキングテープで仮止めする。
未来のどこかで迷ったとき、開けばいい。
窓を少し開ける。
外から新しい空気。
顔を上げると、棚の奥で星柄のマグが、ほんの少し光った気がした。
隠れていても、光は消えない。
隠したのではなく、守ったのだと——胸の奥で、ゆっくりと言い直した。
白湯を一口。
吸って、吐く。
紙の上の七行が、静かに重みを増す。
今日も、遠ざかる手前で止まる。
止まりながら、同じ方向を向く。
その選択が、俺たちの名前のない覚悟だ。
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