第2話 『これが一番』

 ミユは塞ぎこんでしばらくすると、気持ちが落ちついてきた。

 

 そして、顔を上げた――


( パシンッ! )

 

 ミユの視界が一瞬、青白くフラッシュした。いや、視界と言うより頭の中が光った気がした。

 

 そして、世界の音が遠くなったような、飛行機に乗った時の気圧が変わったような感覚だった。


「もう、今度は、何、何、何っ!」


 両耳を、手で塞いだままフラフラと自席に戻るミユ。


 瞼にシールを、貼ったままなのを忘れたのかも知れない。

 

 シールを貼ったままフロアを見渡した。

 

 昼の買い物から戻った中野さん。

 古文書の修繕に没頭している前田さん。


 ……いつもと変わらない昼のオフィスの光景だ。

 

 しかし、ミユの目がデスクで熱心に仕事をしている中野さんの顔に止まった、その瞬間だった。

 

( えっ? )

 

 中野さんは、社の主力プロジェクトを仕切る、誰もが認める冷静沈着なキャリアウーマンだ。

 クールな表情でキーボードを叩いている。


 だが、ミユの目の前で、中野さんの顔が二重にブレた。


 先輩の姿の上に、もう一枚の、「記憶の映像」が重なったのだ。

 

 それは、つい先週末の光景だった。

 

 薄暗いアパートの一室。


 映像の中野さんは、いつものクールさとはかけ離れた、アイシャドーが涙で落ち、泣き崩れた情けない顔で男の足元に必死にまとわりついていた。

 

 男は中野さんを足で軽く払いのけ、冷たく言い放つ。

 

『もういいだろ、うざいんだよ。』

 

 映像の中野さんは、それでも汚れた服にしがみつき、涙と鼻水を流しながら「ごめん、別れないで」と必死に懇願し続けていた。


 映像だけなのに、映っている人の言った言葉が、不思議と理解できた。

 

( マジ!中野さんって、いつも「男なんて、仕事の邪魔でしかない」って、ビルの喫煙所で電子タバコを吹かして笑ってたのに……。マジかぁ。)

 

 ミユの心臓がドクリと跳ねた。


 これはただの幻覚ではない。

 このシールが映しているのは、中野さんが心の中に強く残している、「建前とは真逆の情けない事実」だ。

 

 ミユは慌てて、瞼からシールを剥がした。指先に粘着剤の冷たさを感じた瞬間、視界の青白い光は消え、世界の音は元に戻った。

 

ミユは剥がしたシールを手のひらに載せ、その恐ろしさを再確認した。

 

( クールで男勝りな中野先輩が、まさかあんな私生活を送っているなんて……)

 

 ミユは静かにシールを再び瞼に貼り付けた。世界の音が遠ざかり、青白い光が視界を覆う。

 

 次にミユの目に入ってきたのは、デスクで古文書の修繕作業をしている前田さんだ。

 

 彼女はいわゆる「歴女」で、SDGsの精神に則り、会社で請け負う日本の各地域固有の古文書や美術品の管理に情熱を注いでいる。

 持続可能な地方文化の継続とかなんとか。

 

( 前田さんは、古文書が好きという純粋な人だけど。)

 

 ミユが前田さんの顔に目を向けた瞬間、再び映像が重なった。

 

 それは真っ白な修繕室の床に、薄い和紙の束が散らばっている光景だった。

 映像の前田さんは、絶望に顔を歪ませ、両手で顔を覆って震えている。

 

 床には、貴重な古文書の一枚が、無残にも真ん中から破れてしまった跡が生々しく残っていた。

 

( あれって、先月、修繕不可能だと会社がクライアントに説明して、弁償することになった古文書だ……え?まさか。)

 

 ミユは、会社では「修繕中に偶発的に破損した」と報告されていたその古文書が、実は前田さん自身の不注意で破かれたものであり、彼女がそれを隠しているという「事実」を知った。

 

 前田さんの顔は、古文書を愛するがゆえの深い「罪悪感」で歪んでいた。

 

 ミユは再びシールを剥がした。

 手のひらに汗が滲む。

 

( なんだ、これ……本当に会議中に熟睡するためだけのシールじゃない )

 

『人の心の、裏側を見るシール』

 

 ミユは、その得体の知れないアイテムに、静かな恐怖を覚えた。


「うわぁ、どうしよう。」


   * *


 週末の夕方。

 

 ミユは自分の部屋で、手に入れたばかりの奇妙なアイテムをテーブルに広げていた。

 

( 本当に、あれが、あの映像が人の心の奥底にある記憶だとしたら……。 )

 

 オフィスで目にした、中野さんの醜い泣き顔が脳裏を蘇る。

 前田さんの悲痛で引きつった顔。

 

「人の心って、どれだけ嘘でできてるんだろう。」

 

 そんなことを考えていると、ノックの音がした。


( ミ~ユちゃん。 )


「ん?なあにお父さん。」


( 開けるよー。)


「はいはい。」


( スススー…… )

 

 襖が開くとともに父、柊由一ひいらぎよしかずが顔を出した。

 ミユが短大を出てからも、父とミユは二人暮らしだ。

 

「ミ~ユちゃん、たまには一緒にビール飲みませんか?浦安駅で試飲したら美味しかったからさ、新作ビール買ってきちゃった。どお?」

 

「うん、良いねーチチー!そっち行く。」

 

 先にソファに座っている父親の横にミユが座った。

 その横顔は穏やかで、いつもと変わらない。

 

 父は十数年前に母と離婚して以来、ずっとミユを一人で育ててくれた。

 

 そんな父親が、ミユの冷えたグラスに、缶ビールを注いだ。

 父は缶のまま飲むようだ。


 ニッコリしてグラスを持つミユ。

 やはりキンキンに冷えたグラスだった。

 

 いつも、いかなる時も自分よりミユに良いものを与えようとする父。

 

 このビールもそうだ。

 自分は缶でそのまま飲む。


「おちかれチチー。乾杯。(カンッ)」


「おちかれ~ゴクッ、ゴクッ。かあー!うめっ!旨いなぁ。『これが一番』か、名前もうまいわ~。へ~!」


 缶ビールのバナーやデザインをマジマジと見る父親だった。


 ミユにとって、この世界で唯一、心から信じられる存在だった。

 

( もし、あのシールが映すのが、その人の心に深く残る感情だとしたら。 )

 

 ミユの心に、一つの疑問が湧いた。

 父の心に深く残る感情とは、一体何だろう。


 母との離婚の苦悩か、あるいは再婚を諦めたことへの後悔か。

 

 ミユは静かに「会議用熟睡シール」を手に取り、そっと自分の瞼に貼った。

 

 視界が一瞬、青白くフラッシュし、世界の音が遠ざかる。

 

 ミユは父の方を見た。

 

 父はニコニコしたまま、テレビのバラエティ番組を見ている。

 

 その瞬間、父の穏やかな姿の上に、鮮烈な「記憶の映像」がオーバーラップした。

 

 病院の白い天井。

 

 映像の父は、手術着のようなものを着て、疲れ果てた表情で、小さな新生児を抱いていた。

 

『ミユ……ミユだよ。天使がウチに来てくれた。う、うっ。本当にありがとう。』

 

 映像の父の目が、涙で潤んでいた。

 その声は、ミユが知る父の優しい声よりも、ずっと優しく、温かい響きがあった。


 父は、小さな赤ん坊──

 生まれたばかりのミユを抱きしめ、その小さな顔を自分の頬に押し付けていた。

 

 その背景には、ミユの母親の姿は映っていなかった。

 

 過去の苦悩や、離婚に関する映像も一切ない。

 

 父の心に深く刻まれていたのは、ミユがこの世に生まれた瞬間という、純粋な「ミユへの愛」と「感謝の気持ち」だけだった。

 

 ミユは瞼に貼ったシールの裏で、ほっと息をついた。

 心の奥底から、張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じた。

 

( よかった。お父さんだけは…… )

 

 ミユはシールを剥がし、再び世界の色と音を取り戻した。目の前の父は、ミユの顔を見て優しく微笑んだ。

 

「どうした、ミユ。変な顔して。なんかあったのか?」

 

「ううん、何でもない。ふふっ!」

 

 父の心に触れ、なんだか楽しくなるミユ。

 

 ミユは、父を見て確信した。

 

 この『アヌビスシール』が映すのは、建前や浅い感情ではない。その人の人生を形作ってきた、最も強い愛憎だ。

 

 ミユは、この「心の拠りより所」が確定したことで、次に試すべき相手を決めた。


 その相手とは――

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