第3話 見てはいけない事。
翌日、ミユは彼氏の佐藤ナオキと、千葉駅前のカフェで待ち合わせをしていた。
ナオキはミユと同じ「浦安ibc」の営業マンで、顔立ちも良く、誰に対しても礼儀正しい。
ミユにとってナオキは、父に次いで信じられる、大切な人だった。
最近、ナオキは少し痩せてきた。
以前は会社の近くのカフェでよくランチをしていたが、最近は『顧客対応が立て込んでるから』と断られることが増え、ミユは「関係が冷めてきたのかな」と、内心で不安を感じ始めていた。
「ごめん、待った?ミユ。」
ナオキは遅れてやってきたが、満面の笑みを向けた。
「ううん、全然。ところで、ナオキ?最近少し痩せたみたいだけど、大丈夫?なんかあった?」
「あー、バレたか。ちょっと担当企業の案件が難航続きでさ。全然大したことないよ。心配かけてごめんね。あはは、究極のワークでダイエットだよ!なーんてねっ!あはは。」
その笑顔は、誠実そのものに見えた。
( 本当に、そうなのかな……。 )
ミユは心の奥で感じた。
父の心を確認した今、ミユに残されたのは、最も知りたくない「ナオキ」の真実だけだ。
コーヒーを注文してからミユは化粧室に立ち、シールを貼って戻ってきた。
再び青白くフラッシュした世界で、ミユはナオキの顔を見た。
ナオキは、スマホをテーブルに置いてミユを見つめ、ニコニコしている。
そんな笑顔に重なって現れたのは、二つの映像だった。
一つ目の映像は、深夜のオフィス。
ナオキは、同僚たちが帰った後の誰もいないデスクで、コンビニのおにぎり一個を、まるで高級料理のようにゆっくりと噛みしめていた。
彼の貧困を連想させる、質素な夕食の光景だ。
( なんで、彼女の私を頼ってくれないんだろぅ。差し入れ位。もぅ……。 )
そして、二つ目の映像。
それは、ナオキが休憩時間中、会社の給湯室の隅で、慣れた手つきでスマホを使い多額の現金を振り込んでいるシーンだった。
( なんで?サラ金か?え?え? )
映像の音声がミユの脳裏に響く。
それは、泣きながら電話しているナオキの母親の声だ。
『ナオキ……お母さんが、あのバカ
( あ!うそ!マジッ! )
映像の中のナオキは、給湯室の換気扇の音にかき消されそうな声で、携帯電話にこう返していた。
「いいんだよ、母さん。家族なんだから。俺がなんとでもするから、もう泣かないで。これは、誰にも言うなよ」
( 嘘……。)
ミユの心臓が、今度は同情と衝撃で強く跳ねた。
ナオキの「案件が難航」「大したことない」という言葉は、彼がミユを心配させまいとする、優しい嘘だったのだ。
彼が痩せたのも、ミユとのランチを断るようになったのも、すべて家族を守るため、そして自らの生活を切り詰めているためだった。
ナオキは悪人ではない。
むしろ、誰にも言えない自己犠牲の苦悩を抱える、善人だった。
しかし、この真実は、ミユの心をさらに深く混乱させた。
( 嘘つきは、皆悪人じゃない。優しさのためにも、人は嘘をつく。そして、私はその真実に気づけなかった。)
ミユが抱いていた「ナオキとの関係が冷めたかも」という不安は、全くの的外れだった。
『アヌビスシール』が明らかにしたのは、彼の愛の深さではなく、彼の人生の重さだった。
ナオキの笑顔は、苦悩と優しさ、家族のための我慢という「新たな建前」と、同時にミユに心配かけまいとする、愛情表現が現れた笑顔なのだ。
ナオキのその太い精神力。
余計にナオキが格好良く、好きになった気がした。そして尊敬もした。
ミユはシールを剥がすこともできず、青白い世界の中で、人の心の真実を知ることの重さと知る事の責任感を強く感じたのだ。
そして、自分が抱いていた不安や、全くあてにならない先入観という、究極の矛盾を深く感じたのだ。
* *
ナオキと別れた後、ミユは頭の中でグルグルと考え続けていた。
( 優しさでつく嘘もある。でも、私が一番嫌いなのは、自分を守るため、自己保身や見栄のために吐かれる、あの『建前』だ。)
ミユの頭には、会社における「建前の象徴」である新田瑛子部長の顔が浮かんでいた。
「仕事と育児を両立させるSDGsキャリアウーマン」という完璧な仮面をかぶり、ミユにショボい土産を押し付けたあの新田部長だ。
* *
翌日、ミユは出張から戻ってきた新田部長を、再びシール越しに見てみることにした。
ミユはトイレの個室でシールを瞼に貼り、青白くフラッシュした視界でオフィスに戻った。
新田部長は、朝礼で声を張り上げ、ミユの彼氏である佐藤ナオキを褒め称えていた。
「──先日、佐藤くんが担当する大口のクライアントで、重大なクレームが発生しました。しかし、佐藤くんは見事、これを解決に導きました!粘り強い交渉で、浦安ibcのSDGsに対する誠実さを証明してくれた!佐藤くん、拍手!」
( オォ――ッ! )
ナオキは照れたように会釈し、周囲から拍手を受けている。
部長の言葉は、いつも通り、清く正しく、模範的だ。
周囲の同僚たちは「さすがナオキ!」と感嘆の声を上げている。
しかし、ミユの目には、その完璧な部長の姿の上に、二つの映像が重なって見えた。
一つ目の映像は、クレーム対応の現場だった。
――新田部長とナオキは、クライアント企業の社長室にいた。
映像の中のナオキは、すでに疲労困憊で、言葉も出ていない。
その時、部長は冷静な表情を一変させた。
彼女はスーツの上着を脱ぎ、履いていたハイヒールを脱ぎ捨て素足のまま床に土下座したのだ。
『申し訳ありません!すべての責任はこの新田にあります!どうか、佐藤のことは許してやってください!』
SDGsキャリアウーマンの建前など、そこには微塵もない。彼女は、部下であるナオキと、会社の「建前」を守るためだけに、プライドを捨てていた。
そして、二つ目の映像。
それは、新田部長が、残業して帰宅した後の、深夜の自宅での光景だった。
娘が寝静まったリビングで、部長は痛む膝を抱え、小さな声でつぶやいていた。
『あぁ、痛い……なんでこんなことまで。私、母親として、カッコ悪いわね……』
娘の部屋に静かに入り、スヤスヤ寝ている娘の頭を撫でてから、ニッコリ微笑んだ。
「ヨッコラしょっ!ふーっ。」
学習机の椅子に座り、頬杖をついて娘の寝顔を眺め始めた。
( こんな程度で、私が落ち込んでどうする。)
部長の心の声が聞こえてきた。
( ミユちゃんや紀香ちゃんたちの様に、片親でも立派に育つまでは、泣き言言えないわね。 )
自分の名前を言われて、ドッキリするミユ。
部長は、自分たちを評価していたのだ。
上司だから先入観で勝手に敬遠していたのか、部長に対するそんな浅はかな、今までの感情に反省するミユだった。
その時、娘が目を開いた。
膝を揉みながらウトウト始める部長。
「ママ?」
「あっ、ごめんなさい。今出るよ。」
「ううん、膝どうしたの?」
「ふふ、おっちょこちょいで、ぶつけた。」
「……。ママ、冷蔵庫にママの好きなカスタードプリン買って置いたよ。シャワーから上がったら食べて。」
「何よ、アルバイト代勿体無いでしょ?幾らしたの?」
「もう寝る、おやすみ……。」
「かすみ、もう。ありがとう。おやすみ。」
反対を向いてニッコリする娘のかすみだった。
そんな娘と母親を見て、ホロッと涙が出そうになるミユだった。
ところが次の瞬間、部長は自らを奮い立たせるように、洗面所の鏡に映る自分に向かって、無理に笑顔を作っていた。
『いいの。これは、会社の未来と、娘の学費のためよ。私は、完璧な母親でいなきゃ。』
部長のプライドと、母親としての責任感、そして会社での建前。これらすべてを維持するために、彼女は孤独な自己犠牲を強いられていた。
ミユは思わず、その場に立ちすくんだ。
中島先輩の嘘は自己保身。ナオキの嘘は家族への優しさ。
そして、部長の嘘は、自分を完璧に見せるためと、大切な部下と家族を守るための、自己犠牲的な建前だった。
SDGsのクリーンなオフィスで、彼女の頭上にこの映像がオーバーラップしている現実は、浦安ibc全体が「人知れぬ重い建前」によって成り立っていると、ミユに確信させた。
( もう、十分。もうこんな他人の過去とか真実とか見たくない。私には重すぎる……。 )
ミユはシールを剥がそうと手を上げた。
このままでは、父以外のすべてが、理解不能な複雑な真実でできているように見えてしまう。
しかし、その時だった。
ミユの隣のデスクの電話が鳴り、系列事務所の弁護士が、ミユの横を通り過ぎた。
彼の顔に、ミユの視線が、「不意に」向いてしまったのだ。
弁護士は、いつも冷静沈着な男だった。この浦安ibcの法律顧問を兼任し、難しい契約書の確認などを行っている。彼のデスク周りだけは、他の営業マンと違い、常に静かでクリーンだ。
ミユの視界は、まだ青白いフラッシュの中で固定されている。
弁護士の顔を見た瞬間、その冷静な外見とは裏腹に血とナイフの映像が一瞬でミユの脳裏に焼き付いた。
それは、深い山奥。
土と岩がむき出しの、険しい場所だった。
映像の中の弁護士は、登山ナイフを手に持っている。そのナイフの刃先には、わずかに血が付着していた。
そして、彼の足元には、膝を抱えてうずくまり、出血している女性の姿があった。
女性の顔は、苦痛と恐怖に歪んでいた。
ミユの心臓が、今までにないほどの激しさでドクドクと鳴り響く。
( また、誰かの醜い秘密……! )
ミユは息を呑んだ。
弁護士の顔のクールさと、彼の心に深く残る「血とナイフの映像」。
最悪の断片だけがミユの心に深く刻み込まれた。
ミユの人間不信は、真実が何であれ、「善意」よりそれを「悪意」として処理するレベルにまで達していた。
「……ひいらぎさん?」
弁護士が立ち止まり、不意にミユに声をかけた。
彼の声は、いつも通り落ち着き払っている。
ミユは驚愕で、声も出せない。
「顔が青いですよ。体調が悪いなら、帰った方がいい」
弁護士の言葉は、ミユの体調を気遣う優しさに聞こえる。
しかし、ミユは彼が「優しさという建前」の下で、血の記憶を隠しているとしか思えなかった。
弁護士が殺人犯……、いや違う。
これから女性を殺す、それを行うリアルな現場……。
そう思ったミユは、恐怖で完全に動けなくなっていた。
「あ、あ、あっ……。」
※ あおっちのプチセン 第2弾 終話。
「出たー!会議用爆睡シール!」 あおっち @rohhie01
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