01「ダーリン、この街には天使がいるんだ。堕落と転落の天使の子守唄で、私たちはやっと睡れる!」本文
BABY99は堕ちた天使の街だ。超集合都市オルドポルターのいち自治区にあたるBABY99地区は、そのお行儀の悪さには枚挙にいとまがない。犯罪の温床、悪の巣窟、下卑た欲望の坩堝。そんな悪罵だって悪罵としての用をなさない。そんなことは、歴然たる事実なのだから。その悪の揺籠として機能するBABY99は、ゆえに堕ちた天使の街である。
———LALAbye NO.9。
BABY99の懐中に存在するそのナイト・クラブは、今宵も盛況と喧騒の区別なく音を撒き散らした。ネオン街の雑居ビルを規則に沿って避けて歩けば、誰にだって辿り着ける。さびれかけの廃屋を臆さず地下へ歩み進めれば、外観を裏切る煌びやかな夜の世界が広がるだろう。骨身を震わす重低音、人影を炙り出すネオン・ピンクの照明、道を踏み外したい若者、道の外に外れた男たち、男たちに群がる女たち。咽せ返るほどの熱気と音圧が凝縮されていた。それが、LALAbye NO.9の通常営業だ。
「ラケル。今日はひとりか? 俺たちと呑めよ! 」
カクテルを傾けて壁際へ背中を預けていた若い女性客、ラケルはLALAbye NO.9の馴染みだった。天鵞絨いろの髪を肩甲骨の下で切り揃え、黒いコートワンピースはしなやかな太腿を晒して揺れた。用心深い野良猫のまなじりが声の発信源へと向けられる。同じ歳ほどの男がラケルと呼ばれた女を手招きしていた。
「勘弁して。お前たちと飲んだら馬鹿が感染るでしょ。」
「聴こえねえよ。ま、どんなこと言ってるかは大体予想がつくけどな。」
騒音はラケルの口舌をかき消した。なんと言われたか知らぬまま男は彼女に近寄り、グラスを交わした。硝子の触れた感触だけが確かに伝わる。彼らはクラブの顔馴染みであった。同年代で、比較的言葉の通じるタイプの集団である彼らとラケルは遊び仲間だ。男はバー・スペースのテーブル卓一角にたむろっている仲間の元へラケルを案内し座らせる。騒音がマシになる代わり、アルコールとタバコの匂いが強くなる。原因は仲間内のタバコ癖とテーブルに転がるボトルが原因だろう。
ラケルに気付いた面々は彼女を歓迎して声を掛けた。
「汚い飲み方。お前たち、来月には出禁になってるんじゃない? 」
ラケルは口端を釣り上げて笑った。彼女の物言いに対し、仲間内だって容赦はない。「その前にお前が借金取りに沈められるのが先だろうな! 」「お前の口と態度はとにかくハプニングを招く。今生きてるだけありがたいと思ったほうがいいぜ。」等々、忌憚のない意見が寄せられた。ラケルは全ての発言を無視してグラスを煽る。
その時だった。
空間を支配する音圧に亀裂が入る。人々のどよめきと物理的な轟音が、雑踏からバー・ステーションまで波及して届いた。視線はその震源に釘付けられる。ラケルは冷ややかにその様子を見遣っていた。
人だかりの中心部に佇む男はなにかを叫びながら頭を抱えている。前後の文脈を剥ぎ取れば、あたかも彼自身が被害者であるかのように見えるが、彼の加害性は足もとに蹲る数人の男女が代弁していた。流血沙汰だった。
「ダーリンか? 」「どうせ野良のダーリンだろ。」「またダーリンかよ。」
男の手に武器はない。ネオンライトに照らされた影が膨張し、自由自在に蠢いている。彼の人ならざる存在を暴くのには一目瞭然だった。
音楽の享楽の場が、一瞬にして混沌へと生まれ変わる。やがて数人の黒服が現れて人ならざる男を取り囲んだ。乱闘から距離を取る客をよそに、男の影は黒服らを薙ぎ倒す。しかしひとりの黒服が男の背後を取り、首筋に針を刺して液体を注入した。次の瞬間、男の身体は崩れ落ちた。睡眠薬の類いだったのだろう。
お騒がせな乱闘が終わる。DJが再びレコードを回し、群衆はビートに乗って揺れ始める。彼らは失われた遊びの続きを、夢の続きを見るのに必死なのだ。天鵞絨いろ髪さきを払って、彼女は微かに笑って言った。
「
ラケルはその投与薬に確信があった。あれはただの睡眠薬でも、麻酔でもない。
その事実を知る者にとって身体を踊らす音楽や酒などは前座に過ぎない。天使の睡りのキスを受ける前の高揚を、誤魔化しているだけなのだ。
「なんでわかるんだよ。お前、クスリに手を出すタイプだったか? 」
仲間内の男が訝って指差した。ほのかな紅潮が酔いを物語っていた。
「私が? 冗談。私は被験体を使っただけ。」
先日、ラケルがひとりでクラブに赴いた時ひとりの男に声を掛けられた。一目で薬物の密売人だと直感した。それでも騙されたふりをして見せたのは、
「こんなものを使わないと『苦痛』から逃れられないなんて、ダーリンも不便な奴。」
それは本心の哀れみだった。
ダーリン。それはオルドポルターにのみ発生する存在、あるいは現象。ダーリンは地獄から蘇った悪人であるのだと、そんな荒唐無稽な非科学を偉い大学を出た科学者が否定できないほどに証明された存在。彼らは異能と苦痛を持って地獄から生まれ変わる。彼らが苦痛を取り除くには人間と契約をする必要がある。
死と地獄から解放された彼らは、真に自由ではなかった。
しかしBABY99は慈悲深い。堕落の天使は、彼らをだって受容する。
「へえ。さすがの情報通だ。Ag:47のヤロウがお前に目を付けるのもそう遠くはないかもな? ラケル。」
仲間内の男は知り過ぎは事件のもとになると咎めている。ラケルの身を心配してのことではない。ラケルを介して、自分たちまで目を付けられることを危ぶんでいる。ラケルと彼らはそういう打算の仲間内だった。
「Ag:47とは上手くやってる、本職の方でね。」
ラケルは視線を背けてグラスに口付けた。
「本職? ああ、確かゴミ処理掃除だったか? 」
「正解! お前がゴミになった日には私が処分してあげるよ。仲間のよしみでね。」
ラケル・ディアクイーン。BABY99に根城を下ろす21の女である。彼女の本業は事件現場清掃員だ。被害者であったものが人であろうが、ダーリンであろうが適切に処理をして街から死の痕跡を拭き取る。この犯罪事件に恵まれた地区において、到底仕事の減ることのない職種だった。
事件現場にはあらゆる物的証拠が残る。そこから予測できる裏社会情勢、秘匿された情報は、繋ぎ合わせるとひとつの地図を描き出す。
例えば、このLALAbye NO.9の裏には犯罪組織がバックについていること。例えば、それはかつて拡大成長した一大犯罪組織の一部であること。例えば、対ダーリン組織Ag:47が彼らを密かにマークしていること。情勢を整理して理解すれば、それは武器になり金になる。
ラケルの目的は、音楽でも踊りでも天使の睡りでもない。情報を買ってくれる「カモ」なのだ。
「お前たちに構ってあげたいのは山々だけど、用ができた。どうやら私のカモが降って来てくれたらしい。」
ラケルの視線はバーカウンターに腰を下ろすスーツの男に向けられていた。ネオンに似合わない小綺麗なイギリススーツが浮かび上がる。ウィスキーグラスの氷はまだ新しい。ラケルには分かる。彼もまた、音楽や踊りを目的にはしない者だと。
「女王陛下がご退場だ。お前らも拍手で道を開けてやれ! 」
仲間内のひょうきん者が道化て手を叩いた。通り際の天鵞絨の女王は、その男の頭にグラスをひっくり返して過ぎる。残った氷が男の頭上に降って、男たちは可笑しさのためにみな声を上げた。グラスを黒服に託してラケルは振り返った。
「じゃあね、お前たち。どちらがこの街で長生きしていられるか、次会うまでの賭けにしておいてあげる。」
◇
ラケルは喧しい一角から抜けてバーカウンターへ腰を下ろす。カウンター席は一つが埋まるのみだったが、そこへ隣り合った。わざとだ。なぜなら、ラケルはそのスーツ姿の客に覚えがあったから。
「Ag:47の職員もプライベートではこんなところへ足を運ぶんだ? ———お目当ての子は見つかった? ミスター・バットベスト。」
それは男のファミリー・ネームだった。サルビア・ブルーの頭をした、ナイトクラブとは縁遠く見えるスーツ男の顔を覗き込んでラケルは笑った。鋭い猫のひとみを細らめて化かすように笑う仕草が、ナイトクラブに似合っていた。男のメガネ越しに返される視線は、対して冷ややかに鋭い。ラケルはカウンタースタッフにカクテルを頼んで男とグラスを交わす。ひとくち唇を付けて、男のウィスキーはふたたび沈黙へ戻った。
「よせ、ディアクイーン。今日は
この男はラケルの本職での知り合いだった。プライベートで顔を合わせる間柄でもない。彼が「知り合いの女」、ようはラケルにわざわざ会いに来たと言うのであれば、それは仕事の延長上に他ならない。それも、表立っては口にできないような。
「わお。公私が分られなくなってきたのならワーカーホリックもいよいよだ。お前、半年くらいバカンスへでも行った方がいいんじゃない? 」
「———お前を追っている借金取りの一味が、DEAR<3地区に出入りしているという噂を耳にした。」
その一声で揶揄の挙措がなりを潜める。
しかし、Ag:47の男の意図がわからない。沈黙をカクテルで流し込んだ。彼らの静けさの背後には、DJのミュージックに湧き上がる歓声の波が揺らいでいる。
「そして、もうひとつDEAR<3に関連した耳寄りの噂がある。DEAR<3のとあるバーで、オークションが開かれていると。そこには金目のものならなんでも売りに出される。薬も、人も、契約書も。」
間髪入れることなく端的に話すのはこの男の美点だった。しかしそれを差し引いても眉唾程度の噂だ。ラケルは鼻白んだ。嘲り混じりの笑みが男へ向けられる。
「奴らがDEAR<3地区にまで手を拡げ始める。そう言いたいの? 」
「可能性だ。点と点を繋げば見えるものがあるかもしれない、そういう可能性の話を、お前に話しに来た。」
「へえ、ご親切に。」
そして、ラケルの疑惑は当初へと立ち返る。「なにを目的に、私へその話を持ちかけた? 」と。
「報告が欲しい。知人が赴いたオークションの、素朴で実直な報告が。」
職員の男は臆さない。悪びれない。ただ、その眸はラケルがかならずDEAR<3地区へ赴くと知っているまなざしをしていた。彼は、ラケルが日々借金取りに追われていることを知っている。もしラケルが彼らの裏をかけるのであれば、その機会を逃さないだろうことも。極彩色のライトに当てられたスーツは色味を失い、淡いグレイ・カラーであることだけが見てとれた。
ラケルは18になる頃に訳あってこのBABY99へ転がり込んだ。オルドポルターを構成する100余りの地区を差し引いてここへ辿り着いたのは、彼女を地の果てだろうが追い掛ける仕事熱心な借金取りとの攻防の末のことだった。以前ほどの執拗さは薄れたものの、今でも追跡は続いている。借金取り。それは、ラケルがこのネオンと堕落に塗れた街で生きねばならなかった最大の要因。
彼らを出し抜けるのであれば、ラケルの人生は一転する。
「———
この男は、それら情報を掴んだ上で提案していた。
対ダーリン反抗勢力としての民間組織、Ag:47。警察も国家権力もダーリンの異能には及ばない。彼らに対抗できるのは、彼らを地獄へ送り返す正義の銀弾だけ。彼らは特別性の弾丸をもってダーリンと対峙する、オルドポルターの正義の執行者である。隣り合う男、バッドベストもまたその一員であった。彼の告げる情報にダーリンが絡まない理由がない。借金取りを口実に利用しようとするのが見え透いている。
それでも、この世界で生き残るにはわずかの情報が命綱になり、命取りになる。
「———人のプライベートを覗くんだ。相応の対価を用意しておきなよ。」
ラケルは音を立ててグラスをテーブルに置いた。酔いが回ったか、気が立ったかとスタッフが一瞥を向けて、ふたたび逸らした。職員の男のおとがいをネイルの黒光る指先が掬ってみせる。挑発に対する挑発。男は手を振り払うことなく問うた。
「行くのか? 」
「どうかな。私のプライベートだし、気が向いたら行く。気が向かなければ行かない。それには今日のお前の態度も掛かってるかもね。」
ラケルの視線が減ることないウィスキーへと落ちた。カウンタースタッフに顎で合図を送る。テキーラボトルと小ぶりのショットグラスが運ばれ、スタッフの手で注がれる。それはネオンの灯るキャンドルライトのようにも幻視された。整列させられたショットグラスをひとつ擡げて眼前の男へ渡し付ける。
「お堅い職員さんがどれくらいアルコールに耐えられるか、見せてみな。LALAbye NO.9の遊び方を教えてあげる。」
◇
LALAbye NO.9が夜通し騒ぎ倒した後、夜明けと共に人々の熱は冷めていった。組織内の裏話に興じる者、男女の駆け引きに溺れる者、天使の睡りに耽溺する選ばれた者たち。バーカウンターで夜を明かしたふたりの男女は、勝負を決することなく席を立った。
廃屋の地下街から這い出ると、ふたりへ差す自然光が朝を知らせた。双者の足もとは覚束ない。しかし転倒することもない。引き分けだった。職員の男は正面分けの前髪を撫で付けて崩した。ラケルは額を抑えて息を整えた。
「それがLALAbye NO.9の作法とやらか? ディアクイーン。」
「Ag:47の入隊試験にはアルコールテストも含まれてるわけ? バッドベスト。」
天使の子守唄は夜明けに歌い尽きる。
懐に抱かれた仔羊らは、天使の堕落に飲み込まれないように身を守りながら、それでもこの街を離れられずに朝を迎える。
まるでそれが、街と人との契約だとでも言うように。
◇
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