第二十五話:『100階層、原書の聖魔』
99階層の、聖魔樹の「森」の中心部。
そこに口を開けた、100階層へと続く「穴」。
それは、暗闇よりも深い、絶対的な「無」への入り口だった。
俺、アレンは、その縁に立ち、覚悟を決めた。
背後で、エルミナが、いつもの軽口も、からかうような素振りも見せず、固唾を飲んで俺を見守っている。
「……行くぞ」
俺は、その暗黒の中へと、足を踏み入れた。
落下する感覚は、なかった。
音も、光も、風も、時間さえもが消え失せた、奇妙な浮遊感。
まるで、世界と世界の間、その「隙間」を、俺の魂だけが通り抜けていくようだった。
リナの祝福が宿る胸の奥が、熱い。
この「無」の空間で、唯一、俺という存在を定義する、錨のように。
どれほどの時が経過したのか。
一瞬か、あるいは、永遠か。
ふっと。
浮遊感が消え、俺の【風切りのブーツ】が、硬い「何か」の上に、静かに着地した。
そして、目を開けた。
「…………」
俺は、息を呑んだ。
暗闇では、なかった。
俺の【暗視】の目が、そのあまりの「白さ」に、眩む。
そこは、光だった。
すべてが、純白。
99階までの、あの憎悪と魔素に満ちた、圧迫されるような「黒」とは、正反対。
床は、磨き上げられた純白の大理石のようであり、同時に、光そのものが凝固してできているようでもあった。
天井は見えない。ただ、どこまでも、無限に、白く輝く「空」が広がっている。
魔物の気配はない。
魔素も、ない。
憎悪も、ない。
エルミナがいた91階層の「静寂」とも違う。
ここは、あまりにも、清浄すぎた。
まるで、神々が世界を創造する前に使った、「設計室」。
この世の、あらゆる「概念」が生まれる前の、「ゼロ」の空間。
91階層の書庫を覆っていた古代魔法の残滓すら、ここでは意味をなさない。
「……アレン君」
俺の隣に、エルミナの霊体が、ゆっくりと姿を現した。
彼女の半透明の身体は、この強すぎる「光」の中で、いつもより、さらに薄く、希薄に見えた。
彼女の瞳から、一万年の憎悪も、俺への好奇心も、すべてが洗い流されたかのように、純粋な「畏怖」だけが浮かんでいた。
「……ここは、ダメだ。ここは、私たちがいていい場所ではない。ここは、迷宮ですらない……」
「……ああ」
「これは、『裁定の間』だ。世界の理そのものだ……!」
彼女の震える声は、俺の耳には届いていたが、俺の意識は、既に、この広大な純白の聖堂、その「中央」に釘付けになっていた。
そこに、「それ」はいた。
人型。
だが、人間ではない。
天を突くほどに巨大。
性別も、年齢も、表情さえも、ない。
それは、揺らめく、純白の「光」そのもので、構成されていた。
まるで、人という「概念」を、光だけで写し取ったかのような、圧倒的な存在。
敵意も、殺意も、憎悪も、何も、放ってはいない。
ただ、そこに「在る」だけで、この100階層の「すべて」だった。
【原書の聖魔】
エルミナのテキストが示した、この牢獄の「鍵」。
俺の、最後の「障害」。
「……フッ」
俺の口から、乾いた笑いが漏れた。
虚無でも、後悔でもない。
純粋な、「闘志」だった。
相手が神だろうが、世界の理だろうが、関係ない。
俺は、地上に帰る。
ザグラムを、この手で「剪定」するために。
俺は、【炎牙の槍】を構えた。
「エルミナ。下がってろ」
「……アレン君! 待て、早計だ! あれは、君がこれまで狩ってきた魔物とは、次元が……!」
「―――『発火』ッ!!」
俺は、エルミナの制止を無視し、修行の成果を、初手から、全力で叩きつけた。
腰のポーチから、「発火」「氷結」「雷撃」の【魔法の種】を、同時に三つ掴み取り、投擲。
俺の魔力と憎悪に呼応し、三つの「種」が、原書の聖魔の目前で炸裂した。
ボッ! ズドドドドッ! バチチチチッ!!
99階の岩盤すら溶かし、92階層の魔物を一瞬で凍らせた、古代魔法の「現象」そのもの。
火球が、氷の槍が、雷の網が、光の巨人を、飲み込もうと殺到する。
だが。
「…………」
無駄だった。
俺の放った「現象」は、光の巨人に触れる、コンマ一秒前。
まるで、存在しなかったかのように、「消えた」。
火は、光に「還り」。
氷は、光に「解かされ」。
雷は、光に「吸収」された。
爆発も、衝撃も、音さえも、ない。
ただ、光が、揺らめいただけ。
「……なるほど。小手調べは、通用しない、か」
「……おや」
俺の背後で、エルミナの気配が、わずかに「いつもの」調子を取り戻した。
「おやおや。私の知識で『栽培』した、あれほどの魔術が、まるで赤子の火遊びのように消されてしまったね。あれが『理』そのものだとすれば、君の『現象』は、『理』に反する『バグ』として、即座に修正(デリート)された、というところか」
彼女の霊体が、ふわり、と俺の肩先に近づく。
「どうするんだい、アレン君? 君の奥の手が、通じないようだが。……もしかして、怖気づいたかな? 君のその、強張った横顔。実に、そそられるね」
「……」
俺は、彼女の「からかい」という名の、緊張をほぐすため(あるいは、楽しむため)の儀式を、無視した。
彼女も、分かっている。
俺が、ここで止まらないことを。
「……通じないなら」
俺は、【炎牙の槍】の穂先を、光の巨人に向けた。
「お前が『理』だというなら。俺の『歪み』で、こじ開けるまでだ」
俺は、聖魔樹の力を、この100階層まで、無理やり引きずり出す。
99階層の拠点で脈打つ「幹」から、この俺の身体へと、聖と魔の力を直結させる。
ズズズ……と、俺の全身を覆う【耐熱鱗の鎧】が、脈打ち始めた。
【風切りのブーツ】が、力を溜めて、石畳を軋ませる。
【炎牙の槍】の穂先に、俺が栽培した「炎」「氷」「雷」「斬撃」、そして「石化」の、すべての「種」の力を、同時に込め、飽和させる。
「―――これが、俺の『全て』だッッ!!!!」
俺は、地を蹴った。
音速を超える、直線的な突撃。
純白の世界を、俺という「黒」が、切り裂いていく。
原書の聖魔は、動かない。
攻撃も、防御も、してこない。
ただ、そこに「在る」だけ。
そして。
俺の、憎悪と後悔と、リナの想いと、エルミナの知識、その「すべて」を込めた槍の穂先が、光の巨人の「胸」に、深々と、突き刺さった。
―――かに、見えた。
「…………え?」
手応えが、ない。
突き刺した感触も、貫いた感触も、弾き返された感触も、ない。
俺の槍は、俺の腕は、俺の身体そのものが、まるで、朝霧の中を通り抜けるように、光の巨人の「中」を、すり抜けていく。
だが、それは、ただの「幻影」だから、ではなかった。
「……!?」
俺は、自分の「槍」を見た。
俺が、魔物を狩り、概念を栽培し、エルミナと作り上げた、最強の【炎牙の槍】。
それが、光の巨人を「通過」していくそばから、「解(ほど)けて」いく。
穂先に埋め込んだ「炎の核」が、光に還る。
「斬撃の概念」が、消滅する。
「石化の瞳」が、ただの石ころに戻り、砕け散る。
槍の「幹」そのものが、聖魔樹の特性を失い、ただの「光の粒子」となって、俺の手の中で、霧散していく。
「……あ……」
これは、「防御」ではない。
「戦闘」ですらない。
「浄化」だ。
あるいは、「初期化(リセット)」だ。
俺が、この深淵で積み上げてきた「力(歪み)」そのものを、この世界の「理(システム)」が、「在るべき形(ゼロ)」へと、強制的に「修正」しているのだ。
俺は、槍を失った勢いのまま、光の巨人を通り抜け、その背後で、無様に体勢を崩した。
左腕の盾が、光に触れた部分から、ただの「樹皮」に戻り、崩れ落ちる。
ブーツから、風の力が消える。
俺は、武器を失い、鎧の力を失い、ただの「アレン」として、純白の聖堂に、立ち尽くした。
原書の聖魔は、ゆっくりと、俺の方へ「振り向いた」。
やはり、表情はない。
だが、俺には、分かった。
これは、「敵」ではない。
倒すとか、倒さないとか、そういう次元の存在ではない。
「……倒せない」
俺は、乾いた唇で、呟いた。
「こいつは、『戦う』相手じゃない……」
エルミナが、絶望とも、納得ともつかない顔で、俺の隣に浮かぶ。
「……そうか。私たちは、『試練』すら、与えられていなかった、というわけか……」
俺は、丸腰のまま、ゆっくりと、その光の巨人に向き直った。
攻撃が、通じない。
ならば。
こいつが、何なのか。
なぜ、ここにいるのか。
それを、知るしかない。
俺は、エルミナの制止を、今度は、手で制した。
そして、無防備なまま、死を覚悟して。
俺を「リセット」しようとする、その圧倒的な「世界の理」そのものへと、一歩、足を踏み出した。
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