第二十三話:『出口なき迷宮』
「―――アレン君」
エルミナが、静かに、そして、絶望的な事実を、俺に告げた。
「それが、問題なのだよ」
「……どういう意味だ」
俺の、殺気すら含んだ問いかけ。
ガイウスの死を経て、虚無と後悔を「栽培」し、俺の憎悪はより冷たく、重く、研ぎ澄まされた。
今の俺の原動力は、ザグラムへの復讐という、ただ一点に絞られている。
この91階層で、古代魔法という新たな「武器」を手に入れ、俺は今、万全の状態だ。
あとは、地上へ戻る「出口」だけ。
だというのに。
エルミナの、この一万年の諦観を映したような、青白い瞳は。
「私は、この『封印の書庫』に、一万年近く、囚われている」
彼女は、俺の焦りなど意にも介さず、淡々と続けた。
「この91階層の『すべて』を、私は、この霊体で、隅々まで探索し尽くした。隠し通路、転移術式、あらゆる可能性を、だ」
彼女は、俺の目を、まっすぐに見つめ返した。
「アレン君。残念ながら、教えることはできない。なぜなら」
「この91階層には、上層……90階層へと続く『出口』など、どこにも、存在しないのだから」
時が、止まった。
俺のブーツが石畳を打つ音も、聖魔樹が魔素を喰らう脈動も、すべてが遠のいていく。
今、こいつは、何と、言った?
「……ふざけるな」
俺の口から、地を這うような低い声が漏れた。
【炎牙の槍】の穂先が、俺の怒りに呼応し、チリチリと炎の粒子を散らす。
「出口が、ない? では、あんたは、俺が地上に戻れないと知っていて、今まで、俺に魔法を教えていたのか? 俺を、ここで弄んでいたのか!?」
「短絡的だね、アレン君」
エルミナは、俺の殺気を受けても、一歩も引かなかった。
「君のその、すぐに憎悪を『肥料』にしようとする悪癖は、感心しない。君が『揺らいでいる』のは、私にも分かる。だが、私もまた、君に『賭けて』いるのだ。嘘をついて、どうなるというのだね?」
彼女は、ふわりと浮かび、俺の周りを旋回した。
「考えてもみたまえ。ここは、世界迷宮。だが、90階層より下は、どうも造りが違う。50階層までは、Sランクの冒険者が到達したという記録が、私の古い記憶にもある。だが、それより下は?」
「91階層は、魔物さえいない、この『書庫』だけ。」
「92階層は、風の荒野。」
「95階層は、マグマの海。」
「97階層は、毒の沼。」
「98階層は、監視者の領域。」
「99階層は、すべてが死んだ、魔素の底。」
「これは、冒険者を試す『ダンジョン』ではない」
エルミナは、俺の目の前で止まり、断言した。
「ここは、『牢獄』だ。あるいは、『廃棄所』と言ってもいい。神々、あるいは何者かが、不要なもの、危険なものを『棄てる』ためだけの、最果ての奈落。それが、この90階層より下の、真の姿なのだよ」
棄てる、場所。
俺のように。
エルミナのように。
俺は、槍を握る手に、力が籠もりすぎて、指の骨が軋むのを感じた。
「……じゃあ、なんだ」
「俺は、ここで、あんたみたいに、一万年。復讐も果たせないまま、亡霊になるのを待てと、そう言うのか」
「……」
エルミナは、初めて、哀れむような目で、俺を見た。
その沈黙が、何よりも重い、肯定の答えだった。
「……ッッ!!!!」
俺は、言葉にならない怒りに任せ、槍を振り抜き、書庫の壁を殴りつけた。
ドゴォォォンッ!!
生体鎧と炎の力が加わった一撃が、古代魔法で守られた壁を揺らし、無数の書物が棚から崩れ落ちる。
無駄だ。
無駄だったのか。
99階層で目覚めた、あの日の誓いも。
魔物を狩り、その肉を喰らい、鎧を作った、あのサバイバルも。
ガイウスの死を見て、後悔を「栽培」した、あの苦しみも。
すべてが、この「行き止まり」にたどり着くための、無意味な道程だったというのか。
ザグラム。
あいつは、俺がこの深淵で力をつけ、復讐に戻ることすら、想定していなかった。
なぜなら、ここからは、誰一人として、戻れはしないのだから。
あいつは、完璧な「追放」を、成し遂げていたのだ。
俺は、崩れ落ちた書物の上に、膝から崩れ落ちた。
ガイウスを襲ったものと同じ、「虚無」が、今度は、俺の全身を、内側から食い荒らしていく。
「……そうだ。それで、いい」
エルミナが、俺の隣に、そっと降り立った。
「まずは、絶望したまえ。それが、スタートラインだ。私も、ここに来て、最初の千年で、それを学んだ」
「だが」と、彼女は続けた。
その声には、先ほどの諦観ではない、わずかな「熱」が籠っていた。
「私は、君という『イレギュラー』を見て、一つの『仮説』を思い出した。私一人では、決して実行できなかった、あまりにも荒唐無稽な、『賭け』とも呼べる仮説だ」
俺は、虚ろな目で、彼女を見た。
「……仮説?」
「そう。君は、『下』から来た」
エルミナは、俺が登ってきた、92階層への階段を指差した。
「私たちは、冒険者の常識に囚われ、『上』へ、『地上』へと、登ることばかり考えていた。だが、この牢獄の『封印』そのものを、解く方法があるとしたら?」
彼女は、書庫の、最も古い区画へと、俺を導いた。
そこには、彼女がこの一万年で、解析を続けてきたのであろう、巨大な石板が置かれていた。
「神話や、古の『物語』において」と、エルミナは石板の文字を撫でながら言った。
「試練の『結末』は、その始まり(1階層)にはない。常に、その『最深部』にこそ、用意されているものだ」
「この世界迷宮が、10階層ごとに『封印』が施されているとしたら? 91階から100階までが、一つの『区画(ブロック)』なのだとしたら?」
俺は、彼女が言わんとしていることに気づき、息を呑んだ。
「この91階層に『出口』がないのは、当たり前だ。ここは、まだ『途中』に過ぎないのだから。この『牢獄ブロック』の封印を解き、地上への道を『解放』するための、唯一の鍵」
彼女は、石板に刻まれた、ある「紋章」を指差した。
「それは、この『牢獄』の、本当の『最深部』。100階層にいるであろう、『主』を、倒すこと。……そうは、考えられないかね?」
「……100階層」
俺は、その言葉を反芻した。
99階層でさえ、あの魔素の地獄だった。
それより、さらに下。
前人未到の、最果て。
「馬鹿げてる」
俺は、乾いた声で言った。
「99階まで戻るだけでも、どれだけかかる。その上、その先に何があるかも分からない。そんな不確かな『賭け』のために、これ以上……」
「だが、アレン君」
エルミナは、俺の言葉を遮った。
「それは、君にとって、『唯一の可能性』だ」
「このまま、この91階層で、私と共に、虚無を『栽培』し続けるか」
「それとも、その万に一つの可能性に賭け、再び『下』を目指すか」
彼女の青白い瞳が、俺の答えを待っている。
彼女もまた、この一万年の絶望の果てに、俺という「希望」を見ているのだ。
俺は、立ち上がった。
崩れ落ちた書物を、払い除ける。
虚無は、まだ、俺の心に根を張っている。
だが、その虚無の「雑草」ごと、俺の「庭」は、前へ進むことを、決めた。
(……そうだ。ガイウスは、死んだ)
(だが、ザグラムは、まだ生きている)
(俺の庭を、地上で、今もなお、蹂躙し続けている)
ここで、立ち止まるわけには、いかない。
俺は、エルミナに向き直った。
「……100階層の主。そいつが、どんな奴か、見当は?」
エルミナは、俺の覚悟を見て、この数ヶ月で、初めて、心の底から嬉しそうに、微笑んだ。
「ああ。私の最も古いテキストによればね。その名は―――」
「―――『原書の聖魔』。この世界の『理』そのものを、守護する者、とね」
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