第2話 良家の期待と無言の圧力


 俺と美穂、相沢家と坂本家は、三代にわたる付き合いだった。

 祖父の代が共に興した事業は今や業界でも確固たる地位を築き、その成功の証として建てられた屋敷は、高い塀を隔てて隣り合っている。子供の頃、俺にとって坂本家の庭は自分の庭の延長であり、美穂の部屋は隠れ家の一つだった。そんな環境で育てば、互いを特別な存在だと意識するのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだったのかもしれない。


 しかし、その「特別」は、いつしか「当たり前」という名の重たい鎖に姿を変えていた。

 特に、俺たちが高校を卒業し、エスカレーター式に同じ大学の門をくぐった頃から、その鎖は目に見えない重みを増し始めた。親族が集まる席で交わされる会話の端々に、俺たちの未来を規定しようとする無言の圧力が、粘り気のある空気のように纏わりつくようになったのだ。


 それは、伝統と家柄を重んじる一族特有の、「けじめ」という名の期待だった。

 大学卒業、そして大手メーカーの子会社と優良企業への就職。人生の大きな節目を目前にした俺たちに、周囲の大人たちは、まるで熟した果実が木から落ちるのを待つかのように、静かな、しかし有無を言わせぬ視線を注いでいた。早く身を固め、大人としての自覚と責任を持つこと。彼らにとって、俺と美穂の婚約は、二十年近い腐れ縁がたどり着くべき唯一のゴールであり、両家の盤石な関係を次世代へと引き継ぐための、神聖な儀式ですらあったのだ。


 年明け、雪のちらつく元旦に行われた本家での新年会。金屏風の前に一族が居並ぶ光景は、時代がかっているが相沢家では毎年恒例だった。屠蘇の香りと、上等な和服が擦れる微かな音。その厳かな雰囲気の中で、伯母が穏やかな笑みをたたえながら、俺の肩を軽く叩いた。

「直人も、春からはもう社会人なのね。あっという間だわ。これからは、しっかり美穂ちゃんを支えてあげないと」

 その言葉は、祝福の形をとりながらも、鋭い楔のように俺の胸に打ち込まれた。周囲の大人たちが、そうだそうだと頷き、温かい眼差しを俺と美穂に交互に送る。その視線の集中砲火に、俺は息苦しささえ覚えた。

 隣に座る美穂は、頬を微かに赤らめながら、「もう、おば様ったら、気が早いですわ」と、完璧な淑女の笑みで応じる。しかし、その切れ長の瞳の奥には、勝利を確信した女王のような、揺るぎない光が宿っていた。彼女のその態度が、俺をますます絶望的な気分にさせる。誰もが、俺たちが結ばれる未来を、一片たりとも疑っていない。その盤石な期待が、俺という一個人の意思や感情を無視して、巨大な城壁となって逃げ道を塞いでいく。


 この息の詰まるような期待を、美穂がどう感じているのか。

 考えるまでもなく、彼女こそが、その期待の体現者だった。彼女は周囲の圧力を苦痛と感じるどころか、むしろ自らの野望を後押しする追い風として、巧みに利用していた。彼女にとって、俺との婚姻は、単なる恋愛の成就ではない。それは、坂本家の長女として、そしていずれは相沢家の嫁として、その血統と家柄に課せられた責務を全うするための、「けじめ」という名の聖戦なのだ。


 ある日の夕暮れ。講義を終えた俺の部屋に、当たり前のように美穂はいた。西日が差し込む部屋で、彼女はファッション雑誌のページを熱心にめくっている。上質な紙の匂いと、彼女から漂うフローラル系の香水の香りが混じり合い、甘く重い空気を生み出していた。


「そういえば、直人の就職先、うちの会社と同じ業界よね。先日、うちのお父様も喜んでいらしたわよ。これなら結婚してからも何かと安心だって」

 その声は、あくまでも何気ない世間話のトーンだ。視線は誌面に並ぶ高級ブランドの新作バッグに注がれたまま。だが、その言葉の節々には、俺の人生という駒を、彼女が描く未来の設計図の上に、当然のように配置している響きがあった。


「ああ、まあ……偶然だよ、そんなの」


「偶然でもいいのよ。大事なのは結果。そういう巡り合わせだったってこと。……ねえ、見て。このバッグ、素敵じゃない?卒業旅行に持って行きたいわ」


「卒業旅行?」

 俺は、思わず間抜けな声で聞き返した。彼女の思考は、いつも俺の想像の数歩先を行く。その軽やかで大胆な跳躍に、俺の鈍重な心は振り落とされそうになる。


「そうよ。私たち、まだまともな旅行なんてしたことないじゃない。学生最後の思い出作りよ。どこか遠くへ行きましょう。ロンドンとか、どうかしら」

 ロンドン。具体的な地名が、現実味を帯びた杭となって俺の思考を縛り付ける。俺は言葉に詰まった。旅行そのものが嫌なのではない。そのイベントが持つ「意味」の重さに、足がすくむのだ。卒業旅行、婚前旅行、そして……プロポーズ。彼女の頭の中では、きっとそこまでストーリーが出来上がっているに違いない。


「……金、かかるだろ、そんなの」

 ようやく絞り出した、あまりにも矮小で、情けない抵抗の言葉。それを聞いた美穂は、ぱたんと雑誌を閉じ、心底呆れ果てたというように、冷ややかな視線を俺に向けた。


「だから、昨日言ったでしょう?あんたの貯金と、私の貯金を合わせれば、十分行けるって。それはもう、私たちの『共有財産』なんだから。理解できない?」

 出た。彼女の絶対的な論理だ。

 俺が汗水垂らして稼いだアルバイト代も、彼女の手にかかれば、いとも容易く「私たちのもの」に変換される。その思考の根底には、両家の期待という名の強固な土台があり、もはや誰にも揺るがすことのできない真実として、彼女の中に君臨していた。俺の財産は、未来の夫の財産。その使途決定権は、未来の妻たる彼女にある。あまりにも暴力的で、あまりにも身勝手な理屈だ。

 しかし、俺はそれに正面から反論することができない。なぜなら、俺の心の最も臆病な部分が、彼女のその自信に満ちた瞳の奥に、抗いがたい光を見てしまうからだ。「あなたのためを思って言っているのよ」という、歪んでいるが純粋な善意と、疑いようのない愛情の色を。


 彼女の献身と支配。それは、俺が自分を大切にしている証拠なのだと、美穂は微塵も疑っていない。そして、その揺るぎない確信こそが、俺の曖昧な態度を許容し、同時に、言葉による責任表明を無限に先延ばしにさせている元凶でもあった。


「まあ、いいか……」

 俺は再び、思考を放棄するための呪文を、誰に聞かせるともなく呟いた。そして、彼女が再び開いた雑誌の、ロンドンの美しい街並みの写真に、無理やり視線を固定した。ビッグ・ベンの荘厳な姿とは裏腹に、俺の心象風景には、鉛色の重い雲が垂れ込めていく。このままではいけない。そう警鐘を鳴らす理性の声は、現状維持という心地よい沼の底へと、無残にも引きずり込まれていく。

 そのヘタレな精神構造が、美穂の支配欲をさらに強く、そして確実なものへと育て上げ、物語を破滅的な結末へと、刻一刻と近づけていることに、この時の俺はまだ、気づいていなかった。

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