責任の重みは、いつも後から~彼女に甘えていたら責任を取らされた~

舞夢宜人

第1話 無言の婚約と、支配の口癖


 生まれた時から、隣にいるのが当たり前だった。


 物心ついた頃には、俺、相沢直人の手は、いつも幼馴染である坂本美穂に引かれていた。春には桜並木を、夏には蝉時雨の降り注ぐ坂道を、秋には落ち葉の絨毯を、そして冬にはかじかむ指先を温めるように。季節が巡るたびに繰り返されるその光景は、俺たちの関係そのものを象徴していたように思う。常に前を歩く美穂と、その背中を追いかける俺。二十年近い歳月は、その距離をセンチメートル単位で縮めはしたものの、関係性の本質を何一つ変えはしなかった。


 都内の私立大学に通う俺のワンルームマンションで、美穂はまるで自分の部屋であるかのように寛いでいた。艶のある黒髪を揺らしながら、手際良く朝食の準備を進めている。フライパンの上でベーコンが立てる小気味良い音と、香ばしい匂い。トースターから飛び出したばかりのパンにバターを塗りながら、美穂が独り言のように呟いた。


「ねえ直人、あんたの貯金、そろそろそこそこの額になってるんじゃないの?通帳、私によこしなさいよ」


「はあ?なんでだよ」


 ソファに深く身を沈め、マグカップのコーヒーをすすっていた俺は、思わず眉をひそめた。特徴のないカジュアルな服装に身を包んだ俺とは対照的に、美穂は部屋着でさえ質の良さを感じさせるものを身につけている。切れ長の瞳が、鋭い光を放ちながらこちらを射抜いた。


「決まってるでしょ?私のものは私のもの、あなたのものも私のもの。いい?私はあなたのものなんだから、何の問題もないでしょう?」


 それが、美穂の口癖だった。


 幼い頃、俺が買ってもらったばかりの玩具を彼女が欲しがった時から、ずっと変わらない論理。それはまるでジャイアンのようだと、口には出せないがいつも思う。しかし、その言葉が孕む絶対的な支配の響きは、不思議と俺に不快感よりも、奇妙な安堵感をもたらしていた。


 この口癖は、俺たちの間に存在するあらゆる問題を覆い隠す、魔法の呪文だった。


 美穂が俺の所有物であるという宣言。そして、俺もまた彼女の所有物であるという事実の確認。その論理の前では、俺たちの関係を定義するための面倒な言葉、例えば「好きだ」とか、「付き合ってほしい」といった類の一切が、その必要性を失うように思えた。二十年近い歳月が積み上げた「信頼」という名の地層は、あまりにも厚く、固すぎた。今さら、その地盤を掘り返してまで、関係の礎に眠る感情の名前を確認する必要などない。俺はそう、自分に言い聞かせてきた。


 彼女の言葉は、責任を伴う明確な決断から逃げ続けたい俺にとって、この上なく都合の良い免罪符だったのだ。


 美穂が俺の女であることは、自明の理。だから、言葉はいらない。


 この甘えが、後に取り返しのつかない事態を招くことになるのを、この時の俺はまだ知らなかった。ただ、淹れたてのコーヒーの温かさが、手のひらに心地よく広がるのを感じているだけだった。


 ほかほかの湯気が立つスクランブルエッグと、完璧な焼き加減のベーコンが乗せられた皿が、ローテーブルの上に置かれる。その隣には、こんがりと焼かれたトースト。バターの甘い香りが、部屋中に満ちていく。


「ほら、さっさと食べなさい。冷めるでしょ、このヘタレが」


 美穂は俺の向かいに腰を下ろすと、自分の分のトーストを手に取った。その仕草の一つ一つが、あまりにも自然で、日常に溶け込んでいる。彼女がこの部屋に入り浸るようになって、もう二年近くが経つ。それは事実上の半同棲状態と言ってよかったが、俺たちはその事実について、一度も言葉を交わしたことがなかった。ただ、なし崩し的に、当たり前の風景として受け入れていただけだ。


 俺は差し出された皿に視線を落とす。完璧な朝食。俺が何も言わなくても、美穂は俺の好みを知り尽くしている。それは、まるで長年連れ添った夫婦のような、無言の阿吽の呼吸だった。


「……うまい」


 口に運んだスクランブルエッグは、絶妙な半熟具合で、バターの風味が口いっぱいに広がった。俺の掠れた称賛の言葉に、美穂は満足げに鼻を鳴らす。


「当たり前でしょ。誰が作ってると思ってるのよ」


 その勝ち気な横顔を、俺は盗み見る。陽の光を浴びて、彼女の黒髪がきらきらと輝いていた。綺麗だ、と思う。昔からずっと、俺にとって美穂は眩しい存在だった。何でもできて、誰からも好かれる、憧れの対象。そんな彼女が、なぜかいつも俺の隣にいて、世話を焼いてくれる。その事実が、俺の臆病な自尊心を静かに満たしていた。


 だからこそ、怖いのだ。


 もし、俺が「けじめ」をつけようと踏み出した瞬間、この完璧な日常が、ガラス細工のように脆くも崩れ去ってしまったら?もし、彼女の真意を確かめようとして、「そんなつもりじゃなかった」と幻滅されたら?その恐怖が、俺の喉元に突きつけられたナイフのように、決定的な言葉を封じ込めていた。


 現状維持。それが、俺が選び続けてきた、最も楽で、最も卑怯な選択肢だった。


「まあ、いいか」


 俺は、責任を先延ばしにするための、もう一つの口癖を心の中で呟く。そして、目の前の完璧な朝食を味わうことに集中するふりをした。美穂の切れ長の瞳の奥に、ほんのわずかな苛立ちと、それを上回る深い愛情の色が浮かんでいることにも気づかないまま。信頼と誤解の螺旋は、もう既に、ゆっくりと回り始めていた。

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