第4話 友人宅
まだ息が荒い。こんなに走ったのは久しぶりだった。何度か後ろを振り返ったが、何も後ろについてきていない。少なくとも見える範囲では。
友人の住むアパートまで、バスで十五分程度。わたしの住むアパートよりも笹杜町の中心に近く、お店も多い場所だ。駅前でぶらぶらして時間をつぶして、オープンしたばかりの話題のタルト屋で、一番人気のチーズタルトを手土産に買った。
もう来ていいよ、と明子のメッセージを見て、彼女のアパートに向かう。
明子の住むアパートの近くまで来て、店先に果物が並んだ青果店が目に入る。明子のアパートのほぼ向かい側。トネさんが言っていたイナガキだ。店先に並んだ桃を見て、明子は果物好きだったことを思い出す。フルーツロールケーキなんていいかも、買っていこうと思いつき、どれにしようかと眺めていた。
「あら氷川さん、こんにちは」
店先で後ろから話しかけてきた穏やかな声。小柄でにこやかな老婦人は、トネさんだった。
「あ、こんにちは。昨日は突然すいませんでした」
トネさんは買い物に来たのだろう、無地のシンプルな手提げカバンを持っている。
「いいのよ。たまにはお客さんをもてなしたいんだから。今日はこれからご旅行かしら」
「今日はちょっと気分転換に友達の家に」
「いいわねえ。楽しんでらっしゃいな。部屋のことで疲れてるんでしょうし、ちょっと顔色悪いみたいよ。無理はしちゃだめよ」
昨日、亜沙美さんのことで話をしたばかりで少し気まずいなと思っていると、携帯電話が鳴る。出てみると、明子だった。
「しょうちゃん。イチゴのケーキがいいなー」
わたしがここにいるとわかっているのか。どこから見ているのだろう。
振り返ると、向かいのアパートの二階のベランダから明子が手を振っていた。
「イチゴにするね」わたしも手を振り返しながら電話越しに答える。
トネさんは、「あらあら、可愛らしい子ね」と、笑っていた。
「はい、今日はあの子の家に泊まるんです。おみやげ買うところだったんですよ」
「そう、仲良いのねえ。イチゴのロールケーキおいしそうね。わたしはイチゴ買おうかしら」
トネさんは、果物の方を覗いて、はっと思いついたように話す。
「そういえば、高橋さんから電話があってね。昨日の方、小野瀬さんが、私の実家に興味があるみたいでいろいろと聞かれたの。ほんとに興味がおありなのね。なにもない村なのに。あとで、直接電話する約束したのよ」
「そうなんですね」
たしかに小野瀬さんは、ずいぶんとオシラサマのことに興味があったようだし、問題解決のために調査すると言っていた。
「あと、こんなこと言うのはどうかと思うんだけど……」
一瞬口ごもるトネさん。
「え、何でしょう」
「ごめんなさい。たまたまベランダから見えたんだけどね。昨日の夜、うちに来た後に、米村さんと話をしていたでしょ」
「あ、はい。少し立ち話を」
「あの人と仲がいいのかしら。お付き合いしてるなんてことは」
「ないですないです。仲がよいってこともないですし。よく話しかけてきますけど」
ちょっと苦手かもと口に出そうになるが、踏みとどまった。
「そうなのね。氷川さんかわいらしいから、気をつけてね。ああいう人はね、あまりおすすめしないわ。利用するだけ利用するタイプよ。あいつと同じタイプ」
あいつというのは、何となくわかった。澤田卓二のことだろう。トネさんはわたしのことを心配してくれているのか。まあ、あの人は変な人なのは間違いないからな。
「ほんとに余計なお世話ならごめんなさいね。向こうから寄ってきて迷惑だったら、相談してね」
「はい、そのときは」
明子の住む建物は賃貸マンションで、わたしのアパートとは違い、鉄筋の立派な建物だ。セキュリティはしっかりしているし、部屋はわたしの部屋より狭いが小綺麗な洋室のワンルームで、少し羨ましいと思う。立地的にも家賃は高いだろうに。
部屋に入ると、さっそくタルトとロールケーキとお茶にする。
明子は髪は明るめでウェーブがかっているし、おしゃれなワンピースだし、無難な服装のわたしと比べても明らかに手がかかっている。同じように地味でまじめなポジションで通ってきたはずなんだけど、この差はちょっと悔しい。わたしも見習おうかななんて考えてしまう。
夕飯はピザを頼んで、彼氏できたのかなんてじゃれ合いながら、互いの近況について話した。ちなみに二人とも彼氏はできていない。引っ越してからは緊張が続いていたのでいい気晴らしになった。わたしのアパートのことについては、楽しい時間にあえて水を差すことはないだろうと思い、結局話さなかった。
その晩、電気を消すまでは気分がよかったが、いざ寝ようとすると急に不安になる。アパートから離れたのだから大丈夫だと自分に言い聞かせるが、不安は払拭できない。
ソファーに寝転がりながら、うちから持ち込んだ羊の抱き枕をぎゅっと抱きしめる。
時間が経ち、時計はもう午前一時前だった。明子は隣で寝息をたてていたが、わたしは眠れず緊張していた。
いつもの時間だが、今日は大丈夫、何も起きずに時間が過ぎるはずだ――そのことばかり考えてしまう。
ふと耳をすませると、周りが異常に静かなことに気がついた。防音がしっかりしているとはいえ、さっきまで、外の車の音が聞こえていたし、金曜の夜で、飲み会帰りで騒ぐ人の声も聞こえていたはずなのに。今は、この部屋だけが別世界に切り取られたかのように静かで、明子の寝息と自分の深呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。
すーすーという上品な明子の寝息に、こつ、異音が混じった。耳元で聞こえたかのようにはっきりと聞こえた。
また聞こえるこつっという音。これは廊下じゃない。窓の方向から聞こえるんだ。
「ねえ、明子起きてる」
小声で呼ぶが、明子が目を覚ます様子はない。
こつっ、こつっ、窓に何かがあたるような音が続く。
「ねえ、起きて、ねえ」
明子の体を揺さぶると、「何、しょうちゃん、どしたの?」明子が目をさました。
ごっ、と、窓を叩く音が響いた。
「うわ、びっくりした。こわ。何よ今の」
どうやら明子にも聞こえているようだ。
ごっ、ごっ、ごっとさらに音が響く。窓が割れるのではないかと思う。
「鳥とかかな。ちょっと見てくるわ」
「だめだよ!」
わたしは止めるが、明子は立ち上がり、窓に近づく。
「なんか風で飛んできたのかも」
言いながらカーテンを開けた。
「何もない、みたいね」
明子には見えていない。ほら、そこにいる。窓の上の方、外を見る明子の右上に白い顔がある。髪の長い真っ白な生気のない女が、たしかにまっすぐこちらをみていた。
その顔は、視線の先にわたしをとらえている。ぞわっと鳥肌が立つのがわかった。
明子が、窓に手をかけた。
「だめ!」
声が裏返っているのがわかった。脂汗が気持ち悪い。明子が手を止めて、こちらを見ている。
「どしたの、しょうちゃん、顔真っ青だよ」
「窓は開けないで」
「え」
「開けちゃだめ。カーテンしめて」
「あ、うん」
怪訝にわたしを見ながらも窓をとんと閉める明子。閉めるということは、今、一瞬窓に隙間が空いていたのだ。危なかった。女の顔はすでに窓の外には見えない。
カーテンを閉める明子。静かだ。外の車の音もカーテンの閉まる音も聞こえない。間に合ったのか。
「さあ、寝よ寝よ」
明子が布団に入るのを見ながら、わたしもソファに転がる。借りたタオル生地の布団を顔までかけて、縮こまる。しばらくすると、明子が再び寝息を立てているのが聞こえてきたが、わたしは寝ようと目をつぶってはいるものの、目が冴えたままだった。
さっきのは見間違えではないはず。わたしを追いかけてきたのだ。
「見つけた」
呟いた声は明子のものだった。
どきっとする。寝言か。タイミング悪い寝言。
ソファの脇で布団で寝ている明子の様子を見ようとして、顔の前の布団を少しまくる。途端、全身が怖気立った。
もう少しで悲鳴をあげるところだった。いったいいつから居たんだ。
部屋の真ん中に、女が立っていた。
黒っぽいスカートに白いブラウス。手はだらりと下げている。そこまで見えて、とっさにタオルケットを顔まで引き上げ直す。
こちらが動いたら相手も動くような気がして、じっと今の体勢を保つ。そもそもわたしが存在に気づいたことにそれは気がついているのだろうか。
どうしよう。どうしよう。考える。
小野瀬さんの護符が入った抱き枕は、ソファーから落ちて、床に転がっているのが布団の隙間から見えた。
何でだ。自分を責める。肌見放さず持っておくために抱き枕に入れていたのに。
拾うか、拾わないか。
目立つ行動は、それを刺激することにならないだろうか。自然に寝返りを打ったかのように、自然に右手をベッドの下に落として抱き枕を拾い上げよう。そのために、布団の中でもぞもぞと動く。
自然な動きになるように、体勢を少しずつ動かして、うつ伏せ気味になりながら右手を床に落とした。
うつ伏せの体勢のまま布団の隙間から、ちらりと女を覗く。視界が狭くて女の下半身が見える程度だが、やはりまだいる。見間違えじゃない、こんなにはっきり見えている。
拾った抱き枕を掴んで、お腹に抱える。女はぴくりともしない。
もしかして、ただ立っているだけなのか。
布団の中に潜って、抱き枕を抱えて、女を視界に入れないようにしていれば、いつの間にか眠くなってそして朝になるのではないだろうか。ちょっとした悪夢を見た気分になるだけで、何も怖いことは起こらない。そうなればいい。
そんなことを考えているときだ。
聞こえる。ひゅうひゅうという音。布団のすぐ外。おかしい。近すぎる。だって、女はまだ部屋の真ん中に立っていて、ほら、足が見える。
おそるおそる、指先で布団の端を持ち上げ、視界を広げる。女の位置は変わらない。スカート、ブラウス、その上には顔が見えるはず。
顔を見ようとすれば、目が合ってしまうかもしれない。それは絶対に避けるべきだと、直感でわかる。でも、気になってしまった。わたしはすでに亜沙美さんの顔を写真で知っている。そこに立っているのが本当に亜沙美さんなのか。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、目の前の布団の端をずらす。
しかし、その女性の胴体から上には顔はなかった。かと言って、何もないわけではない。首の上には白い線が伸びていて天井にゆらゆらと蒸気のように立ち昇っている。
なんだろう。よく見ようとするが、そのためにはタオルケットから顔を出さなければならないだろう。今のわたしの唯一の防壁を手放すのはさすがに躊躇された。
と、なんだか視界がおかしいと気づいた。黒い線のようなものが視界を遮って、女の足がよく見えない。黒い線、まるで髪のような。髪がわたしの顔の目の前に垂れているのだ。
見るな。布団の端から指を離せ。息を止めて音を出すな。自分に言い聞かせる。
それは、目の前に、上から少しずつ降りてきていたのだ。女の顔、それも逆さの顔が。
もう額まで見えている。恐怖ですくむわたしの身体だったが、辛うじて思ったとおりに動いてくれた。つまんでいた布団の端を離すと、わたしの目の前に、一枚の布の障壁ができる。この向こうで、女はわたしを見つめている。
「なんで開けてくれないの」
ぼそっと呟く声が聞こえた。
自分の部屋のときと同じだ。部屋にいれてもらおうと声をかけてくる。
さっき、明子が窓を開けたから入ってきてしまったが、こいつは、相手が開けてくれなければ入って来れないのだ。扉の前で、部屋に入れてもらえずに亡くなったからなのか。こんな薄い布団一枚でも、かぶっていれば、女はそこから先には入ってこれないのかもしれない。あるいは、小野瀬さんのくれた護符の効果なのだろうか。いずれにしろ、このまま耐えるしかない。朝までか、とにかくこの女が消えるまで完全に無視する。無視するしかない。
しばらくの間、そうしてじっとしていた。30分か1時間か、時間の感覚が掴めない。携帯も充電していて手もとにはない。今は何時なのか確認したい。女はわたしの周りをぐるぐると回ったり、立ち止まったりしていたが、いつまにか気配が消えている。
もう大丈夫なのかも。でも、布団から出るのは怖いし、このまま朝まで過ごしてしまおう。
そんなときだった。
「しょうちゃん」
ちいさく呟く声。明子だ。
ほっとして顔の前の布を取っ払ってしまい、しまったと思う。自分の部屋で、叔父さんの声真似をしてきたことを思い出したのだ。
わたしの目の前に逆さの女の顔が笑っていた。やられた。騙された。
にたりと笑う女の顔は、これは亜沙美さんなのだろうか。亜沙美さんのようにも見えるが、もう少し輪郭のあいまいな、そうだ、まるでトネさんの部屋のコシロサマみたいにのっぺりした平面的な雰囲気のもの。目前にして、咄嗟にわたしの取った行動は、顔を背けながらも、護符の入った抱き枕を叩きつけることだった。追い詰められたときに、人間の本性が出るとしたら、わたしは手が出るタイプだってことなのかも。
衝撃を予想したが、手応えは全くなかった。
でも、女の顔は、ぶくぶくと泡立つように収縮し波打ち、部屋の中をぐるぐると高速で飛び回っていた。
呆気にとられていると、顔は風船のように膨らみ破裂した。破裂した女の顔からは、赤いものが飛び散る。それを呆然と見ていた。
「ねえ、しょうちゃん。どうしたの。大丈夫」
明子の声に、はっと気づくと、部屋に飛び散ったと思えた肉片も血液も髪の毛も歯も、そこには何もなかった。
握った抱き枕のカバーから護符を取り出す。小野瀬さんから念のためにと預かった真新しかった護符が、長い年月を経たかのように黄色く変色している。こういうことってあるんだ。
明子は布団から起き上がって、わたしの側に寄ってきた。明かりがついた部屋の窓には、闇夜が広がるばかりだった。
じっと窓を見つめるわたしに明子は心配そうに声をかける。
「何があったの?」
何があったのか、普通は人に信じてもらえるような話じゃない。でも、明子は、荒唐無稽な話であっても、ばかにするような人ではないとわかっていたから、だから話すことにした。
「ごめん、実は…」
わたしは、毎晩訪れる何かのことを必死に説明した。あの女は多分わたしを追いかけてきたのだということも。
「黙っててごめん」
わたしは、頭を下げる。
「とりあえずしばらくうちに泊まんなよ。さすがにしょうちゃんの部屋よりましでしょ」
「そんな、いいよ。迷惑かけるから」
「気にしなくていいよ。カーテン閉めときゃいいって」
明子はそういうので「いざとなったらお願いするね」とは答えておくが、そんなわけにはいかない。明日からどうするか。早めに実家に帰ろうか。でも、もしも、実家にまで追いかけてきたら。
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