第3話 侵食
薄闇が部屋に侵食してくる。カーテンを閉めて電気をつけた。部屋にぽつんと一人で佇むと、どうにも不安で、先ほどまでみんなで行動していたことが懐かしい。
やっぱり外で泊まるべきだったかとさっそく後悔するが、自分で決めたことだ。祈祷や御札の効果があったのかどうかを確認したい。
小野瀬さんが魔除けの御札を玄関や窓の付近に貼っていった。それを見ていると、非現実的な状況に自分がいることに、夢を見ているような奇妙な感覚を覚える。
小野瀬さんが、玄関に御札を貼るのにテープを使わず、もち米で作ったというのりを使っていたのが興味深かった。別にテープでもいいのだと言っていたが、もち米自体も魔除けとして効果を発揮することを期待するのだとか。たしかに、テープを使うよりは、お作法的な感じがして効果がありそうである。取るのがたいへんそうで、叔父は大家としては嫌だったかもしれないけど。
寝るときも近くに持っておくように言われた護符は、愛用している羊のぬいぐるみの抱き枕のカバーの中に入れた。手持ちでは、一番強い魔除けの護符なのだという。
一人でテレビを見て、夕飯に焼きそばを作って黙々と食べながら、夕飯くらいは外で食べるべきだったかと後悔する。お風呂に入ってから気付いたが風呂という密室空間には格別の怖さがあった。何しろ、髪を洗うときに目をつぶるのが怖い。目をつぶっている間に、何かが忍び寄っているのではないかと想像すると、おちおち目をつぶれない。
シャンプーが目に入りそうになるのをこらえながら片目ずつ開けるようにして、なんとか髪をゆすぐところまでこぎつけた。
これから何日こんな時間を過ごすのだろう。そう思うと、引っ越すという選択肢をもう一度考えるべきなのだろうかと悩んでしまう。
とにかく今はお金がないが、バイトでお金貯めれば夏くらいには可能だろうか。しかし家賃の負担は重くなるだろう。母親に頼るのは論外。
などと考えて布団に入るとすでに瞼が重い。身体が疲れていることを自覚しながら意識が遠のく中で、小野瀬さんと尚くんが歩いていく様子が頭に浮かんだ。あの二人ならなんとなくだけど、解決してくれそうな気がして、ちょっとだけ気が休まる。うん、今日はよく眠れそうな気がする。
目覚めると、もう朝だった。恐れていた霊の訪問も金縛りもなく、すっと眠りにつけて、引っ越してきて一番気持ちよく寝れたかもしれない。小野瀬さんの祈祷や御札の効果か、それとも気持ちの問題か。とにかくいい朝に違いない。
顔を洗おうと廊下に出る。玄関の扉の郵便受けにチラシか何かが挟まっていたことに気がつき、それを抜き取ろうとする。
触れる直前に違和感を感じ、ぞっとした。チラシにくっついてきた黒いもの。髪の毛だ。ぞわぞわとしたものが身体の内側を這いずり、背中と首筋に抜けていくようなおぞましい感覚を覚える。
髪の毛は長く艶やかで、赤黒いものがこびりついている。
ドアノブにそっと触れると、躊躇しながらも静かに扉を開けてみる。外の様子を見て愕然とした。扉の外側に貼ってあった御札は剥がされており、引きちぎられて廊下にばら撒かれていた。
脳が一瞬理解を拒む。
しばらくその場で固まっていると、徐々に状況が頭の中で整理されてくる。
これはつまり、夜中に亜沙美さんの霊が部屋を訪れていたということなのか。
一昨日までのわたしなら、大声で叫ぶかへたりこむかしていただろうが、恐慌に陥りそうな気持ちをぐっとこらえた。怖いことは怖い。それでも、小野瀬さんたちと過ごした半日が、わたしに、何が起こったか考える余裕をくれた。
いつもの金縛りはなかったし、扉を叩く音もなかった。扉の外の御札は破られたが、扉の内側までは突破できなかったということなのかもしれない。たぶんそういうことだ。
隣はどうだろうか。三〇二号室の扉の御札もやはり剥がれていた。
破れた御札はもう効果がないだろう。まだ、扉の内側や部屋の中の御札は残っているが、亜沙美さんは次はもっと近づいてくるのではないか。明日は、内側の御札まで破られるかもしれない。その次はどうなる。
わたしは、廊下の様子を写真に撮った後、黙々と作業して廊下に散らばった御札を箒とちりとりで集めてごみ袋に入れた。そしてすぐに小野瀬さんに電話する。
「しばらく部屋を離れられませんか。連休に入るからちょうどいいでしょう」
小野瀬さんの提案はもっともであり、わたしもすでにそのつもりでいた。結局この部屋にいる以上は、亜沙美さんの霊を避けることは難しいのだ。
「外に泊まったら、もう出ませんかね」
「おそらく。いや、わからないと言う方が正直かな。船戸亜沙美さんの霊は、氷川さん自身に憑いているわけではないというのが私の見立てですが、それでももし追いかけてきたら、それはおそらく……いや、今はいい。まず、護符は常に身につけておいてください。寝る時も枕元に置いておくといい。窓の御札が無事なら持っていきなさい。テープでいいから宿泊先のドアにでも貼るといい」
大丈夫なのか。微妙な言い回し。
もらった護符は、抱き枕カバーの中に入れてあるので、忘れずに取り出す。
「こちらで調査して対処を考えておきますが、とりあえず連休明け。もう一度、高橋さんの家に集まりましょう」
「調査というのはどんなことを」
「コシロサマという、トネさんの祀っている屋敷神。あれの由来を確認する必要があると思っています。トネさんの田舎の伝承などですね。それから、亜沙美さんの彼氏の澤田卓二ですね。彼の行先を調べておきたい」
「何か解決のヒントになるでしょうか」
「はい。亜沙美さんの霊がなぜどんな理由で行動しているか。なぜ消えないのか、それを知るのは大切なことです。魔祓いをすることよりも、より重要だと言えます」
「わかりました。調査はお任せします。わたしがやっておくことはありますか」
「万が一ですが、宿泊先にあれが現れたとき、部屋に入れないこと。部屋に入ってしまったら、護符を離さないこと。これだけお願いします。あとは、少し気分をリフレッシュしてもらうことですね。やはり気が落ち込むと、魔につけ込まれやすくなりますので」
「わかりました。できるだけ頑張ります」
その日は笹杜駅近くのアパートに住んでいる高校からの友人の明子の部屋に一晩泊まることとした。同じ笹杜町近くにいるから今度遊ぼうと連絡していたのに会えていなかったから、明子はちょうどよいと言ってくれた。持つべきものは友である。
そのあとはどうするか。実家に帰るのは連休後半のつもりだったが、明日大学に出たら、もう実家に帰ってしまおうか。前半はS市の中心の美術館や図書館に行ってみたり、日帰りで観光地を回るつもりだったのだが。
親からバイトを入れるのは五月からと言われていたが、言うとおりにしておいてよかったかもしれない。
うん、なんとかなりそうな気がしてきた。
おそるおそる扉を開けて外に出てみると、朝ほどには怖くない。廊下には誰も、何もいない。
最寄りの駅まで向かう途中、なぜ振り返ったのか、目に入ったのはアパートの窓とベランダのある側、その三階の真ん中の部屋の窓。そこは三〇二号室、亜沙美さんの部屋だ。
カーテンの隙間から覗くものがある。見るべきではないとわかっているのに、確認せずにはいられない。
人のように見える。あの部屋には人が住んでいないはずなのに。清掃の人とか、見学者とかそんな可能性はゼロではないが、伯父はそんなことは一言も言っていなかった。
人の顔が判別できるような距離ではなかったはずだが、不思議と顔がわかる。そこにいるのは確かに写真で見た亜沙美さんだった。ふっと、その顔がこちらに向いた。
わたしは咄嗟に視線をそらすと駆け出していた。
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