第20話 八月の灯、帰る場所
八月の空は、まるで溶けたガラスのように透き通っていた。
海沿いの国道を走ると、アスファルトの照り返しが陽炎のように揺れる。
ラジオからは高校野球の実況が流れ、車の温度計は三十五度を示していた。
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藤川和昌の運転席の隣で、上田のりえは手を合わせるようにして小さく息を吐いた。
「こんなに暑い日に帰るの、久しぶりかも」
「渋滞しそうだな。でも、この時間ならまだ大丈夫」
「うん。母の顔、少しでも早く見たい」
母が入院したのは、先週のことだった。
いすみ市の小規模病院で体調を崩し、検査の結果、医師から「大きな病院での精密検査が必要」と告げられた。
転院先は鴨川の海沿いにある亀田総合病院。
母の希望だった。「昔、海が見える病院で過ごしてみたいの」と笑っていたのを思い出す。
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病室の窓の向こうには、真っ青な海が広がっていた。
潮の香りが風に混じって、白いカーテンを揺らす。
のりえはそっと母の手を握った。
「お母さん」
「のりえ……来てくれたのね」
「無理しないで。どう、調子は?」
「点滴ばっかりで退屈よ。でも、ここ、いい風が入るの。
波の音が聞こえるの。夜は眠れるわ」
母はいつも通り、穏やかに笑っていた。
でも、その笑顔の奥にある疲れを、のりえは見逃さなかった。
手の甲の血管が浮き出て、指先は少し冷たかった。
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病院を出ると、夕暮れの海風が頬を撫でた。
和昌が自販機で買った冷たいお茶を差し出す。
「ありがとう」
「先生に会えて安心した?」
「うん。思ったより元気そうで、ほっとした」
「よかった」
「でもね、あの人、やっぱり私に“結婚式はいいの?”って聞くのよ」
「……なんて答えた?」
「“ちゃんと考えてる”って言った」
「ちゃんと、か」
「うん。でも、“ちゃんと”って案外むずかしい言葉だね」
のりえの声には、どこか自分を責めるような響きがあった。
「母が弱っていくのを見てると、私が遠くにいることが悪いような気がして……。
あの人、ずっとひとりで頑張ってきたから」
和昌はしばらく黙って海を見た。
水平線が赤く染まり、灯台がひとつ、淡く点滅を始める。
「俺ね、思うんだ」
「うん」
「“帰る場所”って、ひとつじゃなくていいと思う」
「ひとつじゃ、なくて?」
「うん。人には“生きる場所”と“帰る場所”がある。
のりえにとって、ここはいま“帰る場所”だろ?
でも、俺たちが一緒に暮らす部屋も、これから“生きる場所”になる」
「……そうかもしれない」
「だから、どちらかを捨てなくていい。
ふたつの場所を持てるって、すごく幸せなことだと思う」
のりえは小さく笑った。
「先生、ほんとにずるいくらい優しい」
「またそれ」
「でも、ありがとう」
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帰りの車で、海沿いのカーブを曲がる。
波打ち際の道を、夕焼けが照らしていた。
のりえはシートに背を預け、窓の外を見つめた。
潮風の匂いが髪に絡み、目を閉じると、子どもの頃の夏がよみがえる。
母と二人で線香花火をした夜。
火花が小さく消える瞬間、母が言った。
——「のりえ、自分の火を絶やさない人になりなさいね」
その言葉が、今でも胸の奥に残っている。
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翌朝。
病室に戻ると、母はベッドから身を起こしていた。
「おはよう。朝の海、見た?」
「見たよ。すごく静かだった」
「のりえ」
「なに?」
「お母さんね、心配してることがひとつあるの」
「なに?」
「あなた、自分の幸せを“人のため”に譲る癖がある」
のりえは息をのんだ。
「そう……見える?」
「見えるよ。母親だから」
母は微笑んだ。
「でもね、和昌さんは、あなたを“対等に支えたい”って顔をしてる。
だから、信じてみなさい」
その言葉に、胸の奥があたたかくなった。
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病室を出ると、エントランスのソファに和昌が座っていた。
手には病院の売店で買ったレモネード。
「待たせた?」
「いや、海見てた。きれいだった」
「ねえ、先生」
「うん」
「私ね、やっぱり式を挙げたい」
「……お母さんに、見せたい?」
「うん。簡単でいい。チャペルでも、病室でもいい」
「いいね」
和昌は立ち上がり、手を差し出した。
「じゃあ、約束。
“この夏、もう一度、灯をともそう”」
「灯(ひ)?」
「うん。消えかけても、また点けられる光のこと」
のりえはその手を握り返した。
窓の外では、海の向こうに夕陽が沈みはじめていた。
それはまるで、ふたりの未来を祝福する灯のようだった。
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> 誰かを想う気持ちは、
“帰る”ことと“進む”ことの間に揺れながら、
少しずつ形を変えていく。
八月の灯が、
ふたりの心に静かにともっていた。
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――第20話 了――
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📘 次回予告:第21話「九月の教会、白い花束」
母の容態が安定したのを機に、ふたりは小さな教会で式を挙げることを決意する。
“静かな婚約”から“静かな誓い”へ——
秋の風の中で結ばれる約束は、言葉よりも深く、優しく、確かなものとなる。
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