第19話 夏の風、ふたりの家へ



 七月の風は、すこし潮の匂いがした。

 遠くで蝉が鳴きはじめ、空気は光そのもののようにまぶしい。

 坂の上のカフェでは、氷の音がグラスの底で小さく響いている。



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 藤川和昌は、アイスコーヒーを片手にカレンダーをめくった。

 休日の欄に小さく赤い丸。

 “新居の内覧”と書かれている。


「海の近くだって聞いたけど、どんなところなんだろうな……」


 そうつぶやいた瞬間、スマホが震えた。

 のりえからのメッセージ。


> 「今、物件の担当さんから連絡あり。

 部屋、海が見えるって。楽しみだね」




 画面の向こうで彼女が微笑んでいるのが目に浮かんだ。

 “海が見える”——その言葉だけで、心が少し軽くなる。



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 午後。

 二人は市境を越え、湾岸沿いの住宅地を走っていた。

 車の窓から、潮のきらめきがちらちらと差し込む。


「ここ、夏は風が強いけど、冬は意外と暖かいのよ」

 助手席でのりえが資料をめくる。

「スーパーも近いし、病院もあるし。あと坂道が少ない」

「坂道、少ないって、俺たちらしくないな」

「ふふ。今度は“坂を登らなくても暮らせる人生”にしようよ」

「それもいいな」


 笑いながら交わす会話が、窓の外の風と混ざって消えていく。



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 到着したのは、三階建ての小さなアパートだった。

 外壁はクリーム色で、玄関前には小さなオリーブの木。

 管理人の女性が出迎えてくれる。


「この部屋が空いたの、ちょうど先週なんですよ。

 南向きで風通しが良くて、カップルさんにも人気で」


 案内された二階の部屋。

 玄関を入ると、真新しい木の香りがした。

 窓を開けると、潮風がやわらかく流れ込む。

 遠くに、白い灯台が小さく見えた。


「……海、見えるね」

「ほんとだ」


 のりえが窓際に立ち、光の向こうを見つめる。

 風に髪が揺れて、肩にかかる。

 その姿を、和昌はしばらく黙って見つめていた。


「ここにしようか」

「うん。最初の朝、きっと気持ちいいよ」

「じゃあ決まりだね」


 不動産の契約書に名前を書く手が、少し震えた。

 “藤川和昌・上田のりえ”——

 ふたりの名前が並ぶのは、これが初めてだった。



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 帰り道、車の中。

 陽は傾き、窓の外には夕立の雲。

 ラジオから、夏の定番曲が流れる。

 そのメロディは、高校時代の文化祭を思い出させた。


「ねえ」

「うん?」

「こうして並んでると、不思議。

 あの頃の私たちが、ちゃんと“大人”になってる」

「そうだな。でも、まだ途中だよ」

「途中?」

「うん。ずっと途中でいいんだと思う。

 完成したら、それ以上の“変化”がなくなるから」

「……先生らしい」

「またそれ」

「ごめん、つい」


 笑いながら、のりえは窓の外を見た。

 灰色の雲の隙間から、光がこぼれている。

 まるでふたりの未来を照らすように。



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 その夜。

 カフェの駐車場に車を停め、ふたりは並んで外に出た。

 雨上がりの空に、細い月が浮かんでいた。


「ねえ」

 のりえが少し照れた声で言う。

「次の引っ越し、家具は半分ずつ出そう」

「了解。じゃあ俺、洗濯機とソファ担当」

「私は冷蔵庫と食器棚。……あとカーテンも選ばせて」

「カーテン?」

「うん。朝の光がやわらかく入るやつがいい」

「まるで“希望”みたいだな」

「そう。希望は“遮らない光”のことだよ」


 風が通り抜けた。

 少し湿った夏の空気の中に、

 未来の生活の匂いが確かに混じっていた。



---


> 海が見える小さな部屋。

そこから始まる日々は、きっと派手ではない。

でも、朝ごとに風が変わり、

そのたびに「今日も一緒に生きている」と確かめ合える。




 ふたりは並んで空を見上げた。

 遠くの灯台が、淡く光を点滅させている。


> 夏の風が吹く。

その向こうに、ふたりの家が見えた。





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――第19話 了――



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📘 次回予告:第20話「八月の灯、帰る場所」

夏の終わり、のりえの母の容態が再び揺らぐ。

海の見える新居と、房総の実家を行き来する日々の中で、

ふたりは“家族”というもう一つのかたちに向き合っていく——。

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