第31話 おやすみが届いた世界
――カウントは、呼吸みたいに揺れていた。
夜の2時。
モニターの右上、登録者数の数字だけが、部屋の空気から浮いて見える。
499,312
マウスもキーボードも触っていないのに、数字はじわ、じわ、と勝手に増えていく。
499,327
499,355
「……こわ」
思わず、口からこぼれた言葉は、それだけだった。
こわい。
でも、うれしい。
でも、こわい。
その三つがぐちゃぐちゃに混ざって、胸の奥で固まっている感じがする。
ワンルームの空気は、さっきからずっと冷たいのに、手のひらだけ汗ばんでいた。
加湿器の白い蒸気が、いつもより頼りなく揺れている。
(……ほんとに、五十万なんて、行くのかな)
現実感がない。
ただの数字。
でも、その数字の一つ一つに「人」がついてるって思うと、胃のあたりがぎゅっと縮む。
だって、私は――
大手箱の看板でもないし。
派手な企画が得意なわけでもないし。
顔出ししてるわけでもない。
ただ、画面の向こうで、マイクの前に座って、
「おやすみ」って言ってるだけの、ちっちゃいVtuber。
「……それでも、ここまで来ちゃった、んだよね」
独り言は、声に出した途端に現実になるから怖い。
スマホがデスクの隅で震えた。
通知は山ほど来ているけど、今見たらきっと心臓が止まる。
とりあえず、深呼吸。
吸って、吐いて。
喉の奥が少し痛い。昨日、歌いすぎたせいだ。
(今日は、ちゃんと喉温めておこう)
マグカップの中の白湯をひと口飲む。
まだ熱い。舌の上がじんわりする。
モニターの左側では、待機画面がもう動いていた。
配信はまだ始めていないのに、チャット欄はすでに流れ続けている。
【待機チャット】
・ねむまち民:今日五十万行くまで寝ない
・雨宿り:心臓ドキドキなんだが
・EN_sleep:500K Nem day… I’m ready
・同期箱箱推し:同期の大出世を見届ける日
・こたつ:こたつから動かない覚悟
・ナース夜勤:病棟からこっそり見てる
・学生:明日のテスト?知りません
スクロールが止まらない。
見てるだけで目が回りそうだ。
(……でも、いつもと同じ。いつもと同じ夜)
そこだけは、自分に言い聞かせる。
椅子の背にもたれたまま、深呼吸をもう一度。
頭の中で、いつものオープニングの言葉を練習する。
「こんばんは、白露れむです。……えっと……」
声に出してみて、すぐ喉に違和感が走った。
震える。
普段より少しだけ高くて、安定しない音。
(あー……絶対バレるやつ……)
フェイスリグのチェック。
カメラの角度。
マイクのゲイン。
BGMの音量。
全部、いつもと同じ設定。
なのに、「いつもと同じ」じゃない。
私が勝手に、違う。
右下の数字が、また跳ねた。
499,420
(……こわ。でも、行きたい)
矛盾した感情を抱えたまま、私はマウスカーソルを「配信開始」のボタンの上に乗せた。
指先に、うっすらと汗。
「……いきます」
小さく呟いて、クリックした。
⸻
◆
配信ソフトの赤い「LIVE」が点灯する。
BGMが、いつものやさしいピアノに切り替わる。
チャット欄の速度が、急に上がった。
【コメント】
・きた!!!
・こんば……わああああ
・EN:SHE’S LIIIIIVE
・待機五分勢:やっとだ
・カイ箱:すでに泣きそう
・ミラ推し:落ち着こうな?
「こ、こんばんは……白露れむ、です……」
自分でも分かるくらい、声が震えていた。
普段なら、ここで軽く笑いを入れる。
「なんか緊張してます」とか、「寝起きみたいですね」とか。
そうやって、空気を柔らかくする。
でも今日は、それすら出てこなかった。
「えっと……今日は……」
喉の奥に、言葉が詰まる。
言いたいことはいっぱいある。
感謝とか、感想とか、夢とか、ここまでの道のりとか。
でも、「いっぱい」ありすぎて、逆にどこから出せばいいのか分からない。
そんな私をよそに、チャット欄は勝手に言葉を流してくる。
【コメント】
・まず呼吸しよ
・落ち着いていいんだよ
・EN:Take your time Nem
・今日は“話す”より“いる”だけでいい
・泣かせるなまだ早い
・同期ルナ:泣く役は私の担当
「……はい、深呼吸、します」
マイクにかすかに、息の音が乗る。
ヘッドホン越しに聞こえる自分の呼吸が、妙に生々しくて、余計緊張する。
(落ち着け、私。これは、いつも通りの配信)
そう言い聞かせながら、椅子の背を少し倒した。
背中を支えてもらうだけで、すこし楽になる。
「えっと……今日は、いつも通り、歌ったり、お話したり、しながら……」
言いながら、ちらっと右上の数字を見る。
499,580
――まだ、ギリギリだ。
「……気付いたら、もしかしたら、数字が……変わってるかもしれないんですけど……」
【コメント】
・知ってるよ
・五十万だよな
・EN:500K day LET’S GOOOO
・れむ:数字に弱いから優しくしような
・医師:血圧測ってくる
・テスト勢:心拍数の実験かな?
「数字に……あまり、強くないので……あの……ほどほどに、見守ってくれたら、うれしいです」
最後のところだけ、ちゃんと声が出た。
小さく笑う。
それに、チャットもつられる。
【コメント】
・かわいい
・このくらいのテンションがちょうどいい
・守護したい
・EN:Her laugh omg
・ヨル:れむねーちゃんがんばれ
・ソラ:今日まじで一番かわいいです(断言)
画面の向こうから返ってくる言葉の温度が、少しずつ、自分の中に沁みてくる。
(……そうだ。私、ひとりじゃない)
⸻
◆
「じゃあ……最初の一曲、いきます」
最初に選んだのは、デビューして一週間目に初めて歌った曲。
「雨の帰り道」。
あの夜も、同接は一桁だった。
コメントなんてほとんどつかなくて、
音程も何度も外して、アーカイブを見返して泣いた。
でも、「好きです」と言ってくれた人が、一人だけいた。
それが、今もずっと残っている。
今夜は、同接が何万人になっても、あの夜の延長線上にいる自分でいたかった。
「……きいてください」
喉をもう一度温めて、静かに歌い始める。
ピアノのイントロ。
呼吸の位置。
最初の一音を外したら、そのまま全部崩れる気がする。
でも、不思議なことに、一度声が出てしまえば、あとは身体が覚えていた。
湿ったアスファルトの匂い。
コンビニの白い明かり。
誰もいない夜道。
歌詞に入ってない光景が、脳の中で勝手に再生される。
その全部を、ちょっと高めのミドルレンジに乗せて、吐き出す。
【コメント】
・初期曲きた
・最初の頃思い出すな
・あの頃からずっといるよ
・EN:Even I don’t understand, but it’s beautiful
・泣き虫:歌いだした瞬間ダメでした
・ミラ:この曲でV目指しました
チャット欄が、じわりと滲む。
最後のフレーズを伸ばしたとき、喉の奥にあった固まりが、少しだけほどけた気がした。
「……ありがとう、ございます」
歌い切った瞬間、胸がふっと軽くなる。
マイク越しに聞こえてくる、自分の少しかすれた声が、今日は嫌いじゃなかった。
⸻
そのあと、もう二曲歌った。
二曲目は、アニメEDになった新曲。
三曲目は、視聴者からのリクエストで、少し明るめの恋の歌。
歌っている間、数字のことを忘れた。
忘れられるくらいには、今の自分の声に必死だった。
けれど、曲と曲の合間に、ふと右上を見ると、現実は勝手に進んでいる。
499,820
499,930
(……あ)
胸が、ひときわ強く、脈打った。
「……えっと」
息を整えるためにコメント欄を眺めると、すでに空気はざわついていた。
【コメント】
・やばい
・あとちょっと
・EN:70 to go
・心臓が……
・誰か止めて
・止めるな
・実況民:現在499,930です!
今、声を出したら、震えが全部バレる。
それでも、黙っていることの方が、不自然だった。
「……数字、見ちゃいました」
【コメント】
・見たか
・見ちゃったか
・EN:She saw it lol
・ここまで来たら見ていい
・大丈夫、こわくないよ
・一緒に見よ
こわくない――の一言に、胸がずきんとした。
(こわい、よ)
不安だけじゃない。
期待も、嬉しさも、プレッシャーも全部混ざってる。
でも、画面の向こうから「大丈夫」と言われると、本当にそうなりそうな気がしてしまうから不思議だ。
「……じゃあ、最後に、もう一曲、歌ってもいいですか」
自分の声が、さっきより少しだけしっかりしている気がした。
【コメント】
・もちろん
・見届ける
・EN:YES
・五十万の瞬間、歌の中で迎えよう
・泣く準備できた
・テスト勢:もう寝れない
「今の気持ちに、いちばん近いやつ……」
そう言って、私はマイクを握り直した。
選んだのは、自分が作詞に関わったオリジナル曲。
テーマは「明日へ残る声」。
昼間、アニメのスタッフさんから「海外で伸びてます」と連絡が来ていた。
その実感はまだないけれど、曲自体は、間違いなく今の私の一部だ。
静かなイントロ。
ピアノとストリングスの中間。
歌い始めてすぐに、視界の端で数字が動いたような気がした。
でも、見ない。
今見たら、絶対に歌えなくなる。
歌詞の中の「おやすみ」を一つ一つ大事に発音する。
自分自身に言い聞かせるみたいに。
「おやすみ」と言えなかった夜。
「おやすみ」が言えなくて泣いた夜。
「おやすみ」をもらえなくて、どうしていいか分からなかった夜。
そういう夜の自分たちごと、全部まとめて、救いたかった。
最後のサビに入る前、息を切る。
その瞬間、視界の端の数字が、跳ね上がった。
499,997
(あと、三人……)
喉がかすかに詰まる。
それでも、歌詞の続きを歌う。
『おやすみ、と今日も言えるように
目を閉じるまえに、あなたに触れるように』
最後のフレーズを伸ばす。
その間に、数字は――
500,003
マイクの向こう側で、世界が爆発した。
⸻
◆
【コメント】
・五十万!!!!!!
・いったあああああああ
・EN:500K NEM!!!!!
・同期:れむーーー!!!!
・先輩:よく頑張ったね
・後輩:世界一の“おやすみ”です
・泣き虫:無理
・きょうだけは:泣かせてくれ
・海外勢:PROUD OF YOU
・医師:心電図止まった(比喩)
チャット欄が、文字の洪水みたいになる。
なのに、自分の耳には、何も聞こえなくなっていた。
いや、正確には――
「カッ」となる自分の心臓の音だけが、やたら大きく聞こえていた。
(いった……の? 今、ほんとに……)
信じられない。
だって、ついこの前まで、「一万いったらやばくない?」とか言ってたのに。
十万の時でさえ、自分のことでなく、誰か別の人の話みたいだったのに。
五十万。
ゼロが五つもついている数字を、現実として受け止める脳のスペースが、私には用意されていない。
「……っ」
喉に、何かがつかえる音がした。
次の言葉を出そうとした瞬間、その“何か”が一気に膨らんで、声を塞いだ。
「……あ、」
口は開いているのに、音が出ない。
呼吸はできる。
息は吸える。
でも、それを言葉に変換する部分が、急に壊れてしまったみたいだ。
【コメント】
・れむ?
・息してる?
・焦らなくていい
・EN:Don’t push yourself
・声が出ないのも、いい瞬間だよ
・同期:黙って泣いてても許される日
泣いてはいない。
涙は、まだ出ていない。
喉が熱くて、目の奥がじんじんするだけ。
涙の手前で、時間だけが止まったような感覚。
(……声、出ない)
毎日、声で誰かの夜に触れようとしてきたのに。
今、一番大事な瞬間に限って、その声が出ない。
「……ごめ、っ」
謝ろうとした言葉も、途中で崩れた。
代わりに、マイクに小さな息が当たる音だけが乗る。
その無音に近い“声”を、チャットはちゃんと受け取ってくれた。
【コメント】
・ごめんって言わないで
・謝ることなんて何もない
・むしろここまで来てくれてありがとうだよ
・EN:You don’t need to apologize
・泣き虫:声にならないのが一番刺さるんだよ
・ソラ:頑張りましたって言わせたいけど、今は黙って見守ります
視界が、少しぼやけた。
涙ではなく、画面の光がただ強すぎる。
世界の向こう側で、私のことなんて知らないはずの人たちが、
私の声に、こんなにも多くの言葉を返してくれている。
(なん、で)
何度も同じ問いが浮かぶ。
なんで、私なんかの声で。
なんで、こんな数字になって。
なんで、「ありがとう」を言いたい瞬間に限って、声が出ないの。
息をひとつ、深く吸う。
喉が少し痛む。
でも、その痛みが、かろうじて“今ここにいる”ってことを教えてくれる。
「……あ……」
マイクに、かすかな音が乗る。
言葉に届かない、小さな破片みたいな音。
それでも、チャットは反応する。
【コメント】
・うん
・今の“あ”だけで十分
・ちゃんと届いた
・EN:That’s enough, really
・見守り勢:この瞬間を見に来た
・記録勢:スクショ忘れるな
こんなにも“受け取ってくれる”人たちの前で、
私は、なんとか、言葉になるギリギリのところまで喉を押し出した。
「……ありが……と、う」
壊れかけの音だった。
最後の「う」は、ほとんど空気だけで、声になっていなかった。
でも、マイクはちゃんと拾っていた。
ヘッドホン越しに、自分の情けない声が返ってきて、
そのあまりのちっぽけさに、逆に笑いそうになる。
【コメント】
・こっちこそありがとう
・五十万回、おやすみ言ってくれてありがとう
・EN:Thank you for being here
・今日、生きててよかった
・仕事つらいけど、れむがいるから頑張れる
・看護師:夜勤の休憩時間、救われてる
・学生:テスト前だけど、見届けられてよかった
数字は、まだ増え続けていた。
500,100
500,600
501,000……。
天井が遠くなる。
世界の音が遠くなる。
その真ん中で、私は、ひとりのようで、ひとりじゃなかった。
⸻
◆
配信は、そのあと、いつもより早めに切り上げた。
「……今日は、ここまでにします」
本当は、もっと喋るつもりだった。
五十万人の感想とか、ここまでの話とか、これからの目標とか。
でも、そんなの、全部きれいに話せるほど、私は器用じゃなかった。
だから、いつも通りにした。
少しだけ雑談して、少しだけ笑って、
最後に、いつもの言葉で締めた。
「じゃあ……今日も、ちゃんと……おやすみ、って言ってください。
おつれむ、でした」
【コメント】
・おつれむ
・おやすみ
・EN:OtsuNem / Oyasumi
・泣きながら:おやすみ
・仕事勢:今から出勤だけど、気持ちはおやすみ
・ナース:患者さんにも“おやすみ”配ってきます
・学生:テスト前だけど寝ます(決意)
最後の「配信終了」を押す瞬間、
私は、ほんの少しだけ迷った。
(……ほんとは、まだ切りたくない)
でも、その感情は、胸の奥にそっとしまってから、
マウスをクリックした。
画面の赤い「LIVE」が消える。
代わりに、静かなデスクトップが戻ってくる。
ヘッドホンを外した途端、部屋の静けさが一気に押し寄せてきた。
PCのファンの音。
加湿器の小さなシュウという音。
冷蔵庫のモーターが回る微かな響き。
さっきまで、何万人もいた場所から、いきなりひとりきりに戻る。
そのギャップに、毎回、くらくらする。
(……はぁ)
深く息を吐いて、背もたれに身体を預けた。
喉が、ヒリヒリする。
声を出したいのに、出したくない。
泣きたいのに、泣けない。
視界の端で、スマホが何度も震えた。
同期から。
先輩から。
後輩から。
事務所スタッフから。
知らない番号からのメディア取材依頼も、たぶん混ざっている。
でも、その中で、ひとつだけ、すぐに目に入る名前があった。
天ヶ瀬カイ:『外、来い。空気吸え』
短い。
いつも通り。
軽いノリ。
なのに、その一文が、さっきからうまく回っていなかった脳に、ストンと落ちた。
(……空気、吸ってないかも)
ずっと画面だけ見てた。
数字とチャットと、自分の顔だけ。
それ以外の世界のことを、ここ二時間ほど、何も考えてなかった。
ジャージを羽織って、玄関でスニーカーを突っかける。
鏡を見ると、目の下には少しだけクマ。
でも、顔自体は、そんなに崩れていない。
「……だれも、見てないから」
そう言い聞かせて、部屋の電気を消し、外に出た。
⸻
◆
深夜の事務所ビルの裏口は、いつも通り静かだった。
自販機の明かり。
植え込みの影。
遠くの車の音が、かすかに聞こえる。
その中のベンチに、カイが座っていた。
ジャージの上にパーカー。
髪はいつもより少し乱れている。
「……きたな」
「……来ました」
自分の声が思っていたよりちゃんと出て、少しほっとした。
カイは、いつもの調子でペットボトルの水を差し出してくる。
キャップはすでに開いていて、軽く一口減っていた。
「飲め」
「……ありがとうございます」
少しだけ躊躇してから、口をつける。
水が喉を通る感覚が、さっきまでの「声が出ない」感じを少し洗い流してくれた。
「五十万、おめでとう」
「……はい」
「なんだその“はい”は」
カイが笑う。
それにつられて、私も少しだけ笑った。
「……現実味が、ないです」
「そりゃそうだろ。
普通に生きてたら、一生関わらない数だからな」
「ですよね……」
ベンチに腰掛けると、金属の冷たさが太ももに伝わる。
夜風が、少しだけ頬を撫でた。
「喉、つぶれてないか」
「……ギリ、セーフです。
最後ちょっと、声出なくなりましたけど」
「知ってる」
「見てました?」
「見てた。
あの“ありがとう”は、ずるい」
「ずるい?」
「視聴者全員、落ちたろ。
俺も危なかった」
「……え」
あまりにもさらっと言うから、胸の奥が少しだけ跳ねた。
落ちたって、何に。
どこに。
どういう意味で。
すぐに答えを求めたら、たぶん話が変になってしまう気がして、口をつぐむ。
カイは夜空を見上げたまま、続けた。
「自分で分かってないだろうけどさ……
お前、今日、世界中に“おやすみ”配ってたぞ」
「……そんな、こと」
「ある。
チャットも、タイムラインも、EN勢も、全部“おやすみ”で埋まってた。
あれ、俺、久しぶりに“いいインターネット”見たわ」
“いいインターネット”。
言葉だけ聞くと、少し笑ってしまう。
でも、それは、たぶん、私があの夜に欲しかったやつだ。
誰も傷つけない、誰も笑わない、ただ一緒にそこにいてくれるだけのネットの世界。
「……れむ」
「はい」
「配信、まだ切れてねぇからな」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
「……終わりましたよ? さっき、“配信終了”押しました」
「そういう意味じゃなくてさ」
カイは肩をすくめる。
「お前が“おやすみ”って言ったとこから、
どっかの誰かの夜が変わってる。
たぶん、今日、お前の声聞いて踏みとどまったやつが、世界のどっかにいる」
「……そんな、大げさな」
「大げさかどうかなんて、関係ねぇよ。
五十万もいたら、一人くらいはいるだろ。
それで十分じゃね?」
胸の奥が、また少し、きゅっとなった。
「誰かの夜が変わる」とか、「踏みとどまる」とか、
そういう言葉に、私は弱い。
だって、自分がずっと、そうされる側だったから。
誰かの声を勝手に再生して、勝手に救われて、勝手に生き延びて。
今度は、それをする側になっている、なんて――
「……うれしいです」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。
でも、それが本心だった。
嬉しい。
怖いけど、嬉しい。
怖いからこそ、ちゃんと嬉しいって言っておきたい。
「そっか」
カイは、それ以上何も言わなかった。
隣に座ったまま、視線だけ空に向けている。
その沈黙が、なぜか居心地がいい。
さっきまで、何万人もの声が飛び交う場所にいたのに、
今は、二人分の呼吸音しかない。
それなのに、寂しくない。
むしろ、落ち着く。
(……あれ)
胸の中で、小さな違和感が芽生える。
カイと一緒にいる時の、この安心感。
肩に力が入らない感じ。
変なことを言っても、否定されない、という確信。
それは、「同期だから」なのか。
「同じ箱の配信者だから」なのか。
それとも――
喉の奥にさっきとは違う種類の熱が溜まる。
でも、その正体を確かめる前に、カイが立ち上がった。
「風、出てきたな。
このあと喉冷やしたら怒られるぞ、レンに」
「……ですね」
「中戻るか。
五十万記念の会議、たぶん明日地獄だぞ」
「えっ」
「案件どっさり来てるらしい。
アニメのやつも、海外からも」
「……こわ」
「こえーけど、食ってこうぜ。
お前の“おやすみ”で」
そう言って、カイは先に歩き出した。
その背中を見ながら、私はようやく、さっきから胸の中に引っかかっていた言葉を思い出す。
(これも、たぶん、“まだ切れてない配信”なんだ)
画面は消えても、数字は増え続ける。
出番が終わっても、誰かの夜は続いていく。
オフラインの会話も、どこかで誰かの心に配信されている。
それを「こわい」と思うか、「うれしい」と思うか。
その両方を抱えたまま、私はきっと、明日もマイクの前に座るんだろう。
「カイさん」
「ん?」
「……さっきの“おめでとう”、ちゃんと、うれしかったです」
「知ってる」
「あと、その……」
言いかけて、言葉が喉で絡まる。
“ありがとう”って、さっき言った。
世界に向かって。
チャットと数字に向かって。
でも、もう一回くらい、言ってもいい気がした。
「さっき、外に呼んでくれて、ありがとうございます」
「……それは、まあ、
同期特典ってことで」
振り返ったカイが、照れくさそうに笑う。
その顔を見た瞬間、胸の奥で、小さく何かが跳ねた。
(……この感じ、なんだろう)
まだ、名前はつけない。
つけてしまうと、きっと戻れなくなるから。
ただ――
(この人と一緒に、これからも夜を迎えたいな)
そう思ってしまったことだけは、認める。
事務所の自動ドアが開くと、蛍光灯の明かりが、夜よりも少し冷たくて、
でも、どこか安心する色に見えた。
五十万人の夜は、こうして静かに終わっていく。
配信のランプは消えている。
だけど、心のどこかで、まだ赤い光が、弱く点滅している気がした。
(――配信、まだ切れてませんよ?)
誰にも聞こえない声でつぶやいて、
私は、明日の「おやすみ」に向けて、ゆっくりと歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます