第30話 わたしのLIVEは、まだ消えていない

 ——なんで、こんなところに私がいるんだろう。


 控室の白い壁を見つめながら、れむはペットボトルのお茶を両手で包んでいた。

 ラベルの水滴が指先に移る。冷たい。それでも掌は汗っぽい。


 スタジオロビーの向こうから、スタッフの足音と、誰かの笑い声が聞こえてくる。

 機材搬入のカラカラいう台車の音。照明のチェック。

 今日は、ただの個人配信じゃない。


 ——箱横断、おやすみフェス「#LetSleepNight」本番。


 ルミエール、Muse箱、Rival箱、Free勢、インディー歌勢。

 “#ねむちゃんを寝かせろ”から派生した、半分お祭り・半分チャリティ企画。


(ねむも……本当に、ここに出ていいんだろうか)


 ペットボトルを傾ける手が、かすかに震えた。



【ルミエール事務所・Discord/本番一時間前】


天ヶ瀬カイ:「れむ〜、緊張してる?」

白露ねむ:「してない……って言ったら嘘になる」

カイ:「それでこそ。緊張してるのに出てきてくれるの、推せるな〜?」

星野コウ:「カイ、からかうな。れむ、深呼吸な。あと水飲め」

黒瀬ミオ:「心拍数、声に出るタイプだからねむは。緊張も“良い震え”に変えろ」

天音ルナ:「とりあえず噛んだらウケるから安心しろ」

白神ナオ:「フォローは全員で回す。れむは“いつものおやすみ”だけやればいい」


白露ねむ:「……うん。ありがと」


 通話越しでも、みんなの声は空気の温度を変えてくれる。

 喉の奥の砂っぽさが、少しだけ溶けていく。



 控室のドアがノックされた。


「白露ねむさん、そろそろ全体打ち合わせに——」


「あ、はいっ!」


 肩がぴくんと跳ねて、慌てて立ち上がる。

 パーカーの裾を直し、マスクを耳に掛ける。

 モニターに映る自分の“ねむ”のアイコンが、一瞬だけ視界の端をかすめた。


(ちゃんと、ねむでいられるかな)


 現場の照明の下に出た瞬間、視界がぱっと開ける。

 円形にテーブルが組まれ、その奥にずらりとモニター。

 そこには、各箱の人気Vたちのアバターが、それぞれの待機画面で揺れていた。



【参加者一部】


・氷室リア(Muse箱トップクラス歌姫V)

・黒羽イツキ(Rival箱看板イケボV)

・朝霧セナ(インディーASMR勢)

・霜月レオン(Free勢技術系V)

・天ヶ瀬カイ(ルミエール・バラエティ)

・天音ルナ(ルミエール・ゲーム)

・白露ねむ(ルミエール・おやすみ担当) ほか大勢



「白露ねむちゃん?」


 声に振り向くと、淡い青髪のアバターが画面の中から手を振っていた。

 Muse箱の歌姫V、氷室リア——の中の人の声だ。

 モニター越しなのに、目が合った気がして、れむは思わず背筋を伸ばした。


「は、はいっ。白露ねむです……!」


「初めまして。リアです。あのタグの時から、ずっと見てたよ。

 寝かせたい気持ちと、起こしたい気持ちが同時に来て困った」


 笑い声がスタジオに散る。


(見てた、って……あの夜のことだ)


 胸のどこかがきゅっとなる。

 あの切り忘れの夜。

 “おやすみ”が画面いっぱいに広がった日。


「ぼくも見てましたよ」


 低めの、しかし柔らかい男の声。

 Rival箱の黒羽イツキがモニター上で顎に手を当てる。


「“おやすみ代”のスパチャ、見てて普通に泣いたんで。

 ああいう空気、なかなか作れないから。——今日、一緒にやれるの楽しみ」


「えっ……あ、あの、ありがとうございます……」


(なんで、こんな人たちが……)


 名前だけは知っていた。

 “遠い場所の光”みたいな存在だと思っていた人たちが、

 今、同じ企画に名前を連ねている。


 Free勢の霜月レオンが、軽くミキサー卓の方に手を振った。


「音響周り、ちょっとだけ手伝ってる。あの日のクリップも編集したよ。

 “間”はそのままにしようって決めたの、うちの界隈でちょっとした合意事項」


「合意事項……」


「“あの沈黙”を削る勇気は、誰にもなかったってこと」


 さらっと言う。


 言葉の重さを、すぐに受け止めることはできない。

 ただ、喉の奥がまた少し震えた。

 それは、今度こそ——期待だけの震えだった。



【全体打ち合わせ/オンエア前】


ディレクター:「はい、それではざっくり流れを確認します。

 オープニングはカイさんとイツキさんで回して——」


カイ:「任されました〜」


イツキ:「ほどほどにやります」


ディレクター:「中盤の“おやすみセッション”で、

 ねむさんとリアさん、セナさんの三人に短いトークと一言をもらって。

 その後、箱横断の即興“おやすみ台詞リレー”。最後に全員で締め」


氷室リア:「締めは、ねむちゃんでいい?」


「えっ、えっ」


 思わず声が裏返る。


ディレクター:「実は全員一致でそうなってまして……大丈夫ですか?」


 カイが横からすっと手を挙げる。


「うちの箱としても異議なしで〜す。ねむ、やれる?」


 ここで“できない”と言えば、きっと誰も責めはしない。

 でも、その後、自分を責めるのは自分だ。


「……が、頑張ります」


 喉の震えを押し出すように、れむは答えた。



【配信開始/同接:開始時 14.2万】


カイ:「はいどうも〜、#LetSleepNight はじまりました〜〜!」

イツキ:「MCの天ヶ瀬カイさんと、黒羽イツキです。

 普段はなかなか並ばん顔ぶれだね」

コメント:豪華/箱またぎ/なんだこの並び

コメント:イツカイ!?/かいくろ!?

カイ:「落ち着け。今日の主役はぼくらじゃないから」

イツキ:「そうだね。——“寝かせる側”が主役の日、らしいですよ」


 オープニングトークが軽快に進む。

 カイとイツキの軽い掛け合いに、チャットはすぐ温まった。


 画面下に、小さくれむのアイコンも並んでいる。

 自分の順番は、中盤。

 手の中のペットボトルは、いつの間にか空になっていた。



【おやすみセッション/同接:18.7万】


カイ:「……ということで、お待たせしました。

 あのタグから始まった“寝かせろムーブメント”の中心と言っても過言ではない方に登場していただきましょう。白露ねむちゃん〜!」


コメント:きたああ/本物/主役

コメント:ねむちゃ/守れ


白露ねむ:「……こ、こんばんは。白露ねむ、です」


 自分の声が、他の誰かのチャンネルに乗っている。

 その違和感と、嬉しさと、怖さ。

 全部まとめて、マイクの向こうへ押し出す。


「えっと、その……今日は、ありがとうございます。

 “おやすみ”って、ほんとは自分にも言わなきゃいけないのに、

 なかなか言えない時って、あるじゃないですか」


コメント:ある/あるなあ/刺さる


「私も、そうでした。

 でも、あの夜、みんなが“おやすみ”って言ってくれて……

 あ、今も、言ってくれてるんですけど……」


 チャットが、また“おやすみ”で埋まり始める。


「それで、“もうちょっとだけ生きてていいのかな”って、思えたので。

 今日は、私からも“おやすみ”を返したいです」


 氷室リアが、隣の枠で小さく頷いた。


氷室リア:「ねむちゃんの“おやすみ”はね、やわらかいんだよ。

 あれ聞いて寝たら、朝ちょっとだけましになるやつ」


朝霧セナ:「わかります……ASMR勢としても、あの声帯は羨ましいです」


コメント:声帯って言うな/声帯褒め


霜月レオン:「技術的に言うとね、あの沈黙の使い方がうますぎる。

 “何も言わない”時間を怖がってない」


 次々と褒められて、れむの方が混乱しそうだった。


「い、いや、そんな……全然」


イツキ:「じゃあ、一度だけ。今夜の“おやすみ”を、もらってもいい?」


「えっ——」


 振られると思っていなかった。

 視線の集まる感覚に、喉がきゅっと締まる。


 でも、ここで逃げたくはなかった。


「……じゃあ、ひとつだけ」


 少し息を吸って、マイクに近づく。


「今日、起きてくれて、ありがとう。

 画面の前で、頑張って、えらかったです。

 ちゃんと、おやすみ、言ってね」


 ほんの数秒の沈黙。

 チャットが、一拍遅れて爆発した。


コメント:はああああ/優勝/これが…本物のおやすみか

コメント:生きててよかった/泣いた

コメント:寝る/明日仕事だけど寝る


カイ:「はい、これがね、世界一の“睡眠導入剤”です」


イツキ:「合法です。多分」


 笑いが混ざる。

 れむは、少しだけ息を吐いた。



【コラボ争奪・裏の動き/CM中(オフ音声)】


氷室リア:「ねむちゃん、今度、歌コラボしない?」

白露ねむ:「えっ、う、歌……ですか?」

リア:「うん。“おやすみカバー”みたいなの。子守唄とか。

 Muse箱の深夜帯、穴空いてるから、そこ埋めてほしい」


 そこに、黒羽イツキがすっと割り込んでくる。


イツキ:「リアさん、ずるいですよ。ぼくもゲームコラボしたいです」

リア:「ゲームして寝かせる気?」

イツキ:「いいじゃないですか。耐久睡眠企画。

 “先に寝落ちした方が負け”っていう」


 画面外で、スタッフが笑っている。


霜月レオン:「待った待った。技術枠としては、一度うちのスタジオにも呼びたいんだが」

カイ:「おーい、お前ら全員落ち着け。スケジュール組むの俺らなんだぞ」


 カイが苦笑混じりに頭をかく。


カイ:「れむのカレンダー、もう真っ黒なんだからな?

 これ以上詰め込んだら、ほんとに寝かせる配信できなくなるぞ」


リア:「……じゃあ、順番待ちってことで」


イツキ:「譲る気はないですが?」


レオン:「争うな争うな。推しは共有財産だろう」


 軽口の応酬。

 でも、その根っこにあるのは、どこか本気の温度だった。


(えっ、えっ、ちょっと待って……)


 れむは、話についていけずに目を白黒させるしかなかった。

 自分の知らないところで、自分の予定がコマみたいに回っている。


(でも——嫌じゃない)


 その感情に、自分で驚く。

 怖さもある。責任も重い。

 それでも、“一緒に何かしたい”と言ってもらえるのは、ただ嬉しかった。



【配信・終盤/おやすみリレー】


氷室リア:「じゃあ次、Muse箱代表、氷室リア。“おやすみ”——」

朝霧セナ:「インディーから、朝霧セナ」

黒羽イツキ:「Rival箱から、黒羽イツキ」

天ヶ瀬カイ:「ルミエール・バラエティ枠代表、天ヶ瀬カイ」

白露ねむ:「……ルミエール、“おやすみ”担当、白露ねむです」


 それぞれが短い“おやすみ”を重ねていく。

 笑いあり、ささやきあり、真面目な言葉あり。

 チャット欄は、世界各国の“おやすみ”で埋まっていった。


コメント:Oyasumi/Bonne nuit/Buenas noches/Good night

コメント:今日くらいは早く寝る

コメント:仕事だけど…寝る


イツキ:「最後、締めてもらいましょう。ねむさん」


 深呼吸。

 スタジオの空気が、少しだけ重たくなる。

 でも、それは嫌な重さじゃない。


「……聞いてくれて、ありがとうございました」


 マイクの向こうに、無数の部屋がある。

 モニターの光だけで照らされた顔が、きっといくつもある。


「今日も、いろんなことがあったと思います。

 嬉しいことも、悲しいことも、どうでもいいことも。

 それでも、ここまで起きてたの、えらいです」


 自分に言い聞かせるみたいに。


「だから、ちゃんと、おやすみを言ってあげてください。

 誰かに、じゃなくて——自分に」


 一拍、沈黙。


「おやすみ。

 また、起きてから会いましょう」


 照明の熱が少しだけ柔らかくなった気がした。


コメント:泣いた/これで眠れる/また明日

コメント:生きる/起きたらまた働く/ありがとう


カイ:「はい、ということで——#LetSleepNight、これにておひらきでーす!」

イツキ:「みんな、ちゃんと寝てね。配信は——」


 カイとイツキが笑いながら締めに入る。

 モニターの「LIVE」の赤い点が、ゆっくりと消えた。



【配信終了後/裏Discord】


リア:「ねむちゃん、やっぱりコラボしよ。歌と雑談、両方」

イツキ:「じゃあぼく、ゲームね。昼でも夜でも合わせます」

レオン:「技術枠は譲らないからな。収録一回、連れてこいよ」


 矢継ぎ早に飛んでくる誘いに、れむは困ったように笑う。


白露ねむ:「えっと……順番に、お願いします……?」


 その一言で、また笑いが起きた。


カイ:「はいはい、まずはうちの箱でスケジュール固めるんで〜。外部の皆さん、きちんと申請ルート通してくださーい」

ルナ:「同期の特権、忘れんなよ?」

ミオ:「バラけさせる。れむの体力は有限」

ナオ:「でも、こういう“争奪戦”、悪くないね」


 争っているようで、笑っている。

 冗談半分、本気半分。

 その中心に自分がいるのは、まだ慣れない。


(でも——)


 心のどこかで、すこしだけ誇らしいと思っている自分もいた。



【帰り道/夜風】


 スタジオを出ると、街はもう夜の色だった。

 照明の白さから解放された目に、ビルの窓の光がやわらかく見える。


「おつかれ」


 隣でカイが伸びをする。

 普段のふざけた声より、少し低いトーン。


「……おつかれさま、でした」


「どうだった?」


「……なんか、夢みたいでした。

 あんな人たちと、同じところにいて……一緒に“おやすみ”って言って……」


 言葉を探す。

 胸のなかのぐちゃぐちゃした感情に、まだちゃんと名前がつけられない。


「でも、“ここまで来ちゃったんだな”って、少し思いました」


「“来ちゃった”ね」


 カイは、ポケットに手を突っ込んだまま笑う。


「れむ、覚えとけよ。

 今日みたいに外から光が当たる日が増えても、

 お前のスタート地点は、あの切り忘れの夜だ」


「……うん」


「あの夜、お前が本音をぽろっと零したから——

 今こうやって、いろんな箱のトップが“コラボしたい”って言ってんだよ」


 その言い方は、どこか誇らしげで、どこか悔しそうだった。


「カイさんは……」


「ん?」


「カイさんは……“コラボしたい”って、思ってくれますか?」


「バカ。もうしてるだろ、ずっと」


 即答だった。


「お前のこと、最初に“おいしい”って思ったの、たぶん俺だからな。

 ——良い意味でな?」


 れむは、マスクの下で小さく笑った。

 夜風が、頬の熱を撫でていく。


(配信、まだ切れてませんよ?)


 心のなかで、あの言葉をそっと繰り返す。

 画面のランプは消えているのに、

 どこかでまだ赤い光が点いている気がした。


 それは、多分——

 自分自身の中に灯ったままの、小さな「LIVE」だ。

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