第30話 わたしのLIVEは、まだ消えていない
——なんで、こんなところに私がいるんだろう。
控室の白い壁を見つめながら、れむはペットボトルのお茶を両手で包んでいた。
ラベルの水滴が指先に移る。冷たい。それでも掌は汗っぽい。
スタジオロビーの向こうから、スタッフの足音と、誰かの笑い声が聞こえてくる。
機材搬入のカラカラいう台車の音。照明のチェック。
今日は、ただの個人配信じゃない。
——箱横断、おやすみフェス「#LetSleepNight」本番。
ルミエール、Muse箱、Rival箱、Free勢、インディー歌勢。
“#ねむちゃんを寝かせろ”から派生した、半分お祭り・半分チャリティ企画。
(ねむも……本当に、ここに出ていいんだろうか)
ペットボトルを傾ける手が、かすかに震えた。
◆
【ルミエール事務所・Discord/本番一時間前】
天ヶ瀬カイ:「れむ〜、緊張してる?」
白露ねむ:「してない……って言ったら嘘になる」
カイ:「それでこそ。緊張してるのに出てきてくれるの、推せるな〜?」
星野コウ:「カイ、からかうな。れむ、深呼吸な。あと水飲め」
黒瀬ミオ:「心拍数、声に出るタイプだからねむは。緊張も“良い震え”に変えろ」
天音ルナ:「とりあえず噛んだらウケるから安心しろ」
白神ナオ:「フォローは全員で回す。れむは“いつものおやすみ”だけやればいい」
白露ねむ:「……うん。ありがと」
通話越しでも、みんなの声は空気の温度を変えてくれる。
喉の奥の砂っぽさが、少しだけ溶けていく。
◆
控室のドアがノックされた。
「白露ねむさん、そろそろ全体打ち合わせに——」
「あ、はいっ!」
肩がぴくんと跳ねて、慌てて立ち上がる。
パーカーの裾を直し、マスクを耳に掛ける。
モニターに映る自分の“ねむ”のアイコンが、一瞬だけ視界の端をかすめた。
(ちゃんと、ねむでいられるかな)
現場の照明の下に出た瞬間、視界がぱっと開ける。
円形にテーブルが組まれ、その奥にずらりとモニター。
そこには、各箱の人気Vたちのアバターが、それぞれの待機画面で揺れていた。
◆
【参加者一部】
・氷室リア(Muse箱トップクラス歌姫V)
・黒羽イツキ(Rival箱看板イケボV)
・朝霧セナ(インディーASMR勢)
・霜月レオン(Free勢技術系V)
・天ヶ瀬カイ(ルミエール・バラエティ)
・天音ルナ(ルミエール・ゲーム)
・白露ねむ(ルミエール・おやすみ担当) ほか大勢
◆
「白露ねむちゃん?」
声に振り向くと、淡い青髪のアバターが画面の中から手を振っていた。
Muse箱の歌姫V、氷室リア——の中の人の声だ。
モニター越しなのに、目が合った気がして、れむは思わず背筋を伸ばした。
「は、はいっ。白露ねむです……!」
「初めまして。リアです。あのタグの時から、ずっと見てたよ。
寝かせたい気持ちと、起こしたい気持ちが同時に来て困った」
笑い声がスタジオに散る。
(見てた、って……あの夜のことだ)
胸のどこかがきゅっとなる。
あの切り忘れの夜。
“おやすみ”が画面いっぱいに広がった日。
「ぼくも見てましたよ」
低めの、しかし柔らかい男の声。
Rival箱の黒羽イツキがモニター上で顎に手を当てる。
「“おやすみ代”のスパチャ、見てて普通に泣いたんで。
ああいう空気、なかなか作れないから。——今日、一緒にやれるの楽しみ」
「えっ……あ、あの、ありがとうございます……」
(なんで、こんな人たちが……)
名前だけは知っていた。
“遠い場所の光”みたいな存在だと思っていた人たちが、
今、同じ企画に名前を連ねている。
Free勢の霜月レオンが、軽くミキサー卓の方に手を振った。
「音響周り、ちょっとだけ手伝ってる。あの日のクリップも編集したよ。
“間”はそのままにしようって決めたの、うちの界隈でちょっとした合意事項」
「合意事項……」
「“あの沈黙”を削る勇気は、誰にもなかったってこと」
さらっと言う。
言葉の重さを、すぐに受け止めることはできない。
ただ、喉の奥がまた少し震えた。
それは、今度こそ——期待だけの震えだった。
◆
【全体打ち合わせ/オンエア前】
ディレクター:「はい、それではざっくり流れを確認します。
オープニングはカイさんとイツキさんで回して——」
カイ:「任されました〜」
イツキ:「ほどほどにやります」
ディレクター:「中盤の“おやすみセッション”で、
ねむさんとリアさん、セナさんの三人に短いトークと一言をもらって。
その後、箱横断の即興“おやすみ台詞リレー”。最後に全員で締め」
氷室リア:「締めは、ねむちゃんでいい?」
「えっ、えっ」
思わず声が裏返る。
ディレクター:「実は全員一致でそうなってまして……大丈夫ですか?」
カイが横からすっと手を挙げる。
「うちの箱としても異議なしで〜す。ねむ、やれる?」
ここで“できない”と言えば、きっと誰も責めはしない。
でも、その後、自分を責めるのは自分だ。
「……が、頑張ります」
喉の震えを押し出すように、れむは答えた。
◆
【配信開始/同接:開始時 14.2万】
カイ:「はいどうも〜、#LetSleepNight はじまりました〜〜!」
イツキ:「MCの天ヶ瀬カイさんと、黒羽イツキです。
普段はなかなか並ばん顔ぶれだね」
コメント:豪華/箱またぎ/なんだこの並び
コメント:イツカイ!?/かいくろ!?
カイ:「落ち着け。今日の主役はぼくらじゃないから」
イツキ:「そうだね。——“寝かせる側”が主役の日、らしいですよ」
オープニングトークが軽快に進む。
カイとイツキの軽い掛け合いに、チャットはすぐ温まった。
画面下に、小さくれむのアイコンも並んでいる。
自分の順番は、中盤。
手の中のペットボトルは、いつの間にか空になっていた。
◆
【おやすみセッション/同接:18.7万】
カイ:「……ということで、お待たせしました。
あのタグから始まった“寝かせろムーブメント”の中心と言っても過言ではない方に登場していただきましょう。白露ねむちゃん〜!」
コメント:きたああ/本物/主役
コメント:ねむちゃ/守れ
白露ねむ:「……こ、こんばんは。白露ねむ、です」
自分の声が、他の誰かのチャンネルに乗っている。
その違和感と、嬉しさと、怖さ。
全部まとめて、マイクの向こうへ押し出す。
「えっと、その……今日は、ありがとうございます。
“おやすみ”って、ほんとは自分にも言わなきゃいけないのに、
なかなか言えない時って、あるじゃないですか」
コメント:ある/あるなあ/刺さる
「私も、そうでした。
でも、あの夜、みんなが“おやすみ”って言ってくれて……
あ、今も、言ってくれてるんですけど……」
チャットが、また“おやすみ”で埋まり始める。
「それで、“もうちょっとだけ生きてていいのかな”って、思えたので。
今日は、私からも“おやすみ”を返したいです」
氷室リアが、隣の枠で小さく頷いた。
氷室リア:「ねむちゃんの“おやすみ”はね、やわらかいんだよ。
あれ聞いて寝たら、朝ちょっとだけましになるやつ」
朝霧セナ:「わかります……ASMR勢としても、あの声帯は羨ましいです」
コメント:声帯って言うな/声帯褒め
霜月レオン:「技術的に言うとね、あの沈黙の使い方がうますぎる。
“何も言わない”時間を怖がってない」
次々と褒められて、れむの方が混乱しそうだった。
「い、いや、そんな……全然」
イツキ:「じゃあ、一度だけ。今夜の“おやすみ”を、もらってもいい?」
「えっ——」
振られると思っていなかった。
視線の集まる感覚に、喉がきゅっと締まる。
でも、ここで逃げたくはなかった。
「……じゃあ、ひとつだけ」
少し息を吸って、マイクに近づく。
「今日、起きてくれて、ありがとう。
画面の前で、頑張って、えらかったです。
ちゃんと、おやすみ、言ってね」
ほんの数秒の沈黙。
チャットが、一拍遅れて爆発した。
コメント:はああああ/優勝/これが…本物のおやすみか
コメント:生きててよかった/泣いた
コメント:寝る/明日仕事だけど寝る
カイ:「はい、これがね、世界一の“睡眠導入剤”です」
イツキ:「合法です。多分」
笑いが混ざる。
れむは、少しだけ息を吐いた。
◆
【コラボ争奪・裏の動き/CM中(オフ音声)】
氷室リア:「ねむちゃん、今度、歌コラボしない?」
白露ねむ:「えっ、う、歌……ですか?」
リア:「うん。“おやすみカバー”みたいなの。子守唄とか。
Muse箱の深夜帯、穴空いてるから、そこ埋めてほしい」
そこに、黒羽イツキがすっと割り込んでくる。
イツキ:「リアさん、ずるいですよ。ぼくもゲームコラボしたいです」
リア:「ゲームして寝かせる気?」
イツキ:「いいじゃないですか。耐久睡眠企画。
“先に寝落ちした方が負け”っていう」
画面外で、スタッフが笑っている。
霜月レオン:「待った待った。技術枠としては、一度うちのスタジオにも呼びたいんだが」
カイ:「おーい、お前ら全員落ち着け。スケジュール組むの俺らなんだぞ」
カイが苦笑混じりに頭をかく。
カイ:「れむのカレンダー、もう真っ黒なんだからな?
これ以上詰め込んだら、ほんとに寝かせる配信できなくなるぞ」
リア:「……じゃあ、順番待ちってことで」
イツキ:「譲る気はないですが?」
レオン:「争うな争うな。推しは共有財産だろう」
軽口の応酬。
でも、その根っこにあるのは、どこか本気の温度だった。
(えっ、えっ、ちょっと待って……)
れむは、話についていけずに目を白黒させるしかなかった。
自分の知らないところで、自分の予定がコマみたいに回っている。
(でも——嫌じゃない)
その感情に、自分で驚く。
怖さもある。責任も重い。
それでも、“一緒に何かしたい”と言ってもらえるのは、ただ嬉しかった。
◆
【配信・終盤/おやすみリレー】
氷室リア:「じゃあ次、Muse箱代表、氷室リア。“おやすみ”——」
朝霧セナ:「インディーから、朝霧セナ」
黒羽イツキ:「Rival箱から、黒羽イツキ」
天ヶ瀬カイ:「ルミエール・バラエティ枠代表、天ヶ瀬カイ」
白露ねむ:「……ルミエール、“おやすみ”担当、白露ねむです」
それぞれが短い“おやすみ”を重ねていく。
笑いあり、ささやきあり、真面目な言葉あり。
チャット欄は、世界各国の“おやすみ”で埋まっていった。
コメント:Oyasumi/Bonne nuit/Buenas noches/Good night
コメント:今日くらいは早く寝る
コメント:仕事だけど…寝る
イツキ:「最後、締めてもらいましょう。ねむさん」
深呼吸。
スタジオの空気が、少しだけ重たくなる。
でも、それは嫌な重さじゃない。
「……聞いてくれて、ありがとうございました」
マイクの向こうに、無数の部屋がある。
モニターの光だけで照らされた顔が、きっといくつもある。
「今日も、いろんなことがあったと思います。
嬉しいことも、悲しいことも、どうでもいいことも。
それでも、ここまで起きてたの、えらいです」
自分に言い聞かせるみたいに。
「だから、ちゃんと、おやすみを言ってあげてください。
誰かに、じゃなくて——自分に」
一拍、沈黙。
「おやすみ。
また、起きてから会いましょう」
照明の熱が少しだけ柔らかくなった気がした。
コメント:泣いた/これで眠れる/また明日
コメント:生きる/起きたらまた働く/ありがとう
カイ:「はい、ということで——#LetSleepNight、これにておひらきでーす!」
イツキ:「みんな、ちゃんと寝てね。配信は——」
カイとイツキが笑いながら締めに入る。
モニターの「LIVE」の赤い点が、ゆっくりと消えた。
◆
【配信終了後/裏Discord】
リア:「ねむちゃん、やっぱりコラボしよ。歌と雑談、両方」
イツキ:「じゃあぼく、ゲームね。昼でも夜でも合わせます」
レオン:「技術枠は譲らないからな。収録一回、連れてこいよ」
矢継ぎ早に飛んでくる誘いに、れむは困ったように笑う。
白露ねむ:「えっと……順番に、お願いします……?」
その一言で、また笑いが起きた。
カイ:「はいはい、まずはうちの箱でスケジュール固めるんで〜。外部の皆さん、きちんと申請ルート通してくださーい」
ルナ:「同期の特権、忘れんなよ?」
ミオ:「バラけさせる。れむの体力は有限」
ナオ:「でも、こういう“争奪戦”、悪くないね」
争っているようで、笑っている。
冗談半分、本気半分。
その中心に自分がいるのは、まだ慣れない。
(でも——)
心のどこかで、すこしだけ誇らしいと思っている自分もいた。
◆
【帰り道/夜風】
スタジオを出ると、街はもう夜の色だった。
照明の白さから解放された目に、ビルの窓の光がやわらかく見える。
「おつかれ」
隣でカイが伸びをする。
普段のふざけた声より、少し低いトーン。
「……おつかれさま、でした」
「どうだった?」
「……なんか、夢みたいでした。
あんな人たちと、同じところにいて……一緒に“おやすみ”って言って……」
言葉を探す。
胸のなかのぐちゃぐちゃした感情に、まだちゃんと名前がつけられない。
「でも、“ここまで来ちゃったんだな”って、少し思いました」
「“来ちゃった”ね」
カイは、ポケットに手を突っ込んだまま笑う。
「れむ、覚えとけよ。
今日みたいに外から光が当たる日が増えても、
お前のスタート地点は、あの切り忘れの夜だ」
「……うん」
「あの夜、お前が本音をぽろっと零したから——
今こうやって、いろんな箱のトップが“コラボしたい”って言ってんだよ」
その言い方は、どこか誇らしげで、どこか悔しそうだった。
「カイさんは……」
「ん?」
「カイさんは……“コラボしたい”って、思ってくれますか?」
「バカ。もうしてるだろ、ずっと」
即答だった。
「お前のこと、最初に“おいしい”って思ったの、たぶん俺だからな。
——良い意味でな?」
れむは、マスクの下で小さく笑った。
夜風が、頬の熱を撫でていく。
(配信、まだ切れてませんよ?)
心のなかで、あの言葉をそっと繰り返す。
画面のランプは消えているのに、
どこかでまだ赤い光が点いている気がした。
それは、多分——
自分自身の中に灯ったままの、小さな「LIVE」だ。
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