第8話 ランプは消えない ── 素のねむ、PCが眠った夜
朝のルーティン
湯気の音で目が覚める。
ケトルの小さなブクブク。加湿器の白い息。
トーストが跳ねるカチ、蜂蜜が糸を引く。
私はカップを両手で包んで、窓を少し開けた。空気が細く入ってくる。
スマホには、昨夜の配信に付いたコメントがまだ増えていた。
コメント:「朗読アーカイブ、寝落ちに効いた」「英訳ありがとう」「“沈黙はみんなのもの”名言」
読んでいると、胸の奥があったかくなる。
“ありがとう”って言葉、何回見ても飽きない。
ノートを開いて、今日のやることを書く。
「午前:歌詞リライトのメモ整理。
昼:音合わせ(Distance Bテイク/位置ハモ/Promiseピアノの確認)。
夕方:配信枠の準備。
夜:軽い雑談、ねむる。」
ペン先が紙を走る音が心地いい。
私は、好きなものに囲まれて働けている。
そのことを、できるだけ忘れないようにしていた。
⸻
起動ボタン
机に向かって、電源ボタンを押す。
ピッ。
次にキィと、小さい悲鳴。
画面に英語の羅列が出て、すぐ消える。
いつもなら、ここからロゴが出て、波みたいな音が鳴って、
そこに“私の仕事部屋”が現れる。
今日は、現れない。
「……あれ?」
驚いたとき、私の声はいつもより高い。
もう一度押す。もう一度、呼吸を整えてから押す。
同じ。
しばらく眺めてから、私はモニタのふちにそっと触れた。
冷たい。
“お願い、起きて”と心で言ってから、手を引っ込める。
引っ込めた手が、ちょっと寂しい。
ノートに「起動せず」と書く。
書くと、少しだけ落ち着く。
スマホで「セーフモード」「回復ドライブ」を調べて、
眠っているUSBメモリを引き出しから出し、奥歯でキャップを外しかけて(やめた)、
ゆっくり差し込む。
――反応、なし。
「疲れちゃったのかな。……そうだよね、いっぱい働いてくれたもんね」
声に出して言ったら、心のざわざわがほんの少し静かになった。
“労う”って、私にも効くんだなって思う。
⸻
レン、入室
「ねむちゃん、入るよ」
ノックと同時に水城レン。
目で部屋を一周して、一秒で状況を把握する人。
「電源は入るけど、起きない?」
「うん。寝てる、のかも」
「PCは基本、寝ない(笑)」
「そっか……じゃあ“起きるのを待つ”でもいい?」
「可愛いけど、今日は待たない。見積り出す」
レンは端末を開き、提携ショップに連絡。
話す声が落ち着いていると、私も落ち着く。
“だいじょうぶ”。この人の声は、そう言い続けてくれる。
「夕方までに診断。代替機、手配済み。カイが配線、シンがデータ救出。
歌データは最悪でもステムが残ってる。“位置”の仮ハモは確実に別SSD」
「ある。……ありがとう」
「泣く?」
「泣かない。泣くのは配信で」
「それ、毎回言うね」
「うん。毎回、思ってる」
レンが笑う。
私も笑う。
笑うと、目の奥のこわばりがほどける。
⸻
同期が来る
「甘いものは正義、持ってきた」
天音ルナがコンビニ袋を掲げる。
プリン、わらび餅、ストローゼリー。
“喉守れ”と手書きメモ。可愛い。
「状況は?」と霧原シン。
「電源は入る。起きない」
「……昏睡だね」
「言い方」と天ヶ瀬カイ。
「でも蘇生はできる」
「うん」
カイが工具箱を開く。
金属の音が“仕事が始まる”合図みたいで、私は肩の力を抜いた。
「SSDは後で専用ツール。順に“位置ハモ”“Promiseピアノ”“Distance B”。優先は?」(シン)
「“位置ハモ”が一番。あれ、すごく好き。……次、ピアノ。Distanceは……もう一回、録り直してもいいかな」
自分で言って、ちょっと頬が熱くなる。
“もう一回やる”って言葉は、少し怖いけど、好き。
「泣かないの?」(ルナ)
「泣くのは配信――」
「はいはい、配信でね」
笑い声が吸音材で丸くなる。
私はプリンの蓋をちょっとだけ開けて、レンに差し出した。
「ありがとうございます」と言ってレンは食べない。忙しいから。
“あとで”食べる人だ。知ってる。
そこに先輩の凪野レオが顔を出した。
「差し入れ。のど飴と、あったかいお茶」
低い声。いつも優しい。
「ありがとう」
「泣かないんだね」
「泣くのは――」
「配信で、か。……うん、知ってるよ」
後輩の春名ミナトも遅れて来た。
「あの、ネジ回すの手伝っていいですか」
「うん。ありがとう」
ミナトは手がきれいで、ネジの頭を舐めるみたいに優しく回す。
見てるだけで機械が安心してる気がした。
⸻
見積もり
夕方、レンの端末が鳴る。
マザーボード故障、SSDの一部でエラー。
修理費見込み20~23万円。
電源・冷却の交換推奨。
現実の数字は、冷たくない。むしろ正直で、頼りになる。
「ねむちゃん、これが現実。必要な投資」
「うん。必要なものに使うお金は、可愛いと思う」
「可愛い?」
「“次の夜が明るくなるお金”は、可愛い」
言いながら、心の波が少し大きくなる。
私は4で吸って、1止めて、6で吐く。
大丈夫。私には、やり方がある。
「配信はスマホで短く。状況説明と、安心を。
“募金”は言わない。“スポンサー/機材協力/字幕共同”に誘導。
お金の流れは私から簡単に話すけど、数字は最小限。ねむちゃんの言葉で包む」
「うん。私の言葉で」
⸻
スマホ配信「PCが眠った夜」
白露ねむ:「こんばんは。白露ねむです。
今日はスマホから。PCが、ちょっと眠ってます。
起きたらまた歌ってくれると思うから、今夜は少し、お話を」
コメント:眠ってるw/壊れた!?/心配
EN:Sleeping PC?? Are you okay?
古参:BGMないの逆に落ち着く
「私は大丈夫。PCも、多分大丈夫。がんばりすぎただけ、かな。
――で、ちょっとだけお金の話もしようと思います。
“スパチャあるのに、なんで困るの?”って、思う人もいるよね」
コメント:正直気になってた/教えてくれるの助かる
EN:Thanks for explaining
「YouTubeに三割。これは決まりです。
事務所に二割。今日みたいにすぐ動いてくれる。
スタジオや編集、翻訳で一五%前後。
税金はだいたい二割。
それで、私の生活に残るのは一五~二〇%くらいの月が多いです。
“バズ”の月はもうちょっと増えるし、静かな月は減る。……生活って、そういうものだよね」
コメント:現実……/でも教えてくれて嬉しい
EN:Only 15–20% left… tough
「悲しい話ではないよ。
分け合ってるから、私は歌に集中できる。
今日も、事務所がすぐ動いて、同期が来てくれて、みんなが“がんばれ”って言ってくれた。
それが、私は、すごく嬉しい」
言った瞬間、声がちょっと跳ねた。いつもの癖。
私は笑う。
笑うと、コメントの速度が一瞬だけ落ちて、また速くなる。
「ただ、“夢を広げる”ためには、少し余裕が欲しい。
もっと小さな“おやすみ”を録るためのマイク。
毎回英語の字幕を付けるためのチーム。
だから、レンが契約の見直しをしてくれます」
水城レン(声だけ):「ねむちゃんの契約、古い条件が残ってる。
事務所15%、本人**55〜60%**のラインで上と交渉中。
朗読と歌の実績を材料に、今動く」
コメント:レン有能/守ってくれてありがとう
白露ねむ:「レン、ねむちゃんって呼んだ」
水城レン:「いつも呼んでる(笑)」
コメント:呼び方に救われる/尊い
「それから、“基金”は作らない。
誰かが無理をしてまで支える形は、私には違う。
支えたいって思ってくれるなら――メン限やグッズや、スポンサーや、翻訳で一緒に作るみたいな、
“楽しく続けられる支え方”にしたい。
支える人のほうが笑ってくれないと、私、寂しくなっちゃうから」
コメント:わかる/楽しい支援がいい/スポンサー待ってる
EN:Sponsor & collaborate > donation. Healthy.
そこへ、青いバッジがふたつ、立て続けに光る。
音響メーカー公式:「白露ねむ様。ダイナミックマイク+ショックマウントの試用機、短期レンタル可能です。
“小さいおやすみ”が録れる設計です。よろしければDMを」
PCショップ公式:「長期代替機の貸与、相談可。配信スケジュール最優先。
データ復旧、立会い対応します」
コメント:公式が来た/“小さいおやすみ”理解度高いw/ありがたい
EN:This community is incredible!
「ありがとうございます。……録ります。
“可愛いお金”で支えてもらえたら、すごく嬉しい。
でも、無理はしないで。コンビニのプリンも幸せだから」
コメント:プリン買う/それも支援だな
EN:“Cute money” saved my day
バッテリーのマークが赤くなる。
私は指先で画面を示し、笑っていつもの言葉を置く。
「おやすみ、ちゃんと言ってね?
配信、ここで切ります。ちゃんと、押す」
タップ。
赤いランプが消えて、静けさが戻る。
静けさは怖くない。呼吸の音が聴こえるから。
⸻
裏・Discord(抜粋)
水城レン:配信おつ。メーカー・ショップともDM到着。条項は私が確認。
黒瀬ミオ:“可愛いお金”サムネ検討。切り抜き候補は「可愛いお金」「基金は作らない」「スポンサー&共同」。
星野コウ:EN
花咲ユリ:翻訳ボランティア希望が10件。業務負担にならない範囲で合流線引き。
霧原シン:SSD救出。位置ハモ生存。Promiseのピアノ波形、ノイズ軽。
天ヶ瀬カイ:代替機安定。冷却上げ気味。夏仕様。
天音ルナ:プリン補充。ねむの分は右上奥。手を出した者は許さん。
凪野レオ:ねむの“素直”が現場の士気を上げる。覚えておく。
春名ミナト:ネジ回し勉強になりました(場違いな報告)。
レオ:尊い(控えめ)
ミナト:尊い×2(学習不足)
⸻
事務所の廊下にて
配信のあと、レンに呼ばれて事務所へ。
廊下の白い光が床に長く伸びている。
レンは、会議室の椅子を半分だけ引いて、私が座るのを待っていた。
「ねむちゃん」
「はい」
「さっきの言葉、“可愛いお金”。名言だった。
私は契約の数字を動かす。ねむちゃんは、言葉で世界を動かして」
「うん。……レン、いつもねむちゃんって呼んでくれて、ありがとう」
「知ってるよ」
会議室のガラスに、私たちの影が薄く映る。
影はしゃべらないけど、なんとなく笑って見えた。
⸻
小さな回想(1話の夜)
エレベーターを待ちながら、少しだけ前の夜のことを思い出す。
まだ登録者が二千人のころ。
深夜、配信を切り忘れて、寝言みたいな本音が漏れた日。
「……今日も誰も見てないや。
でも、“おやすみ”って言ってもらえたら、生きていけるんだ」
あの時、私は素だった。
“素”って、怖い。
でも、あの夜から、私の“素”を好きだって言ってくれる人が増えた。
――今日のこれも、たぶん、その続き。
⸻
夜のスタジオ(代替機の灯り)
代替機のファンが静かに回っている。
緑のランプがちかちかして、止まって、また光る。
私はそのリズムに合わせて呼吸する。
4で吸って、1止めて、6で吐く。
(だいじょうぶ。だいじょうぶ。)
机の端に置かれた紙コップの水を一口飲む。
喉のうしろを水が通る音まで、今日はよく聞こえる。
音が全部、働いている。
そこへ、Museの氷室リアからDM。
氷室リア:「Sleeping PC… are you okay? Sponsor over donation —— wise. Proud of you.」
白露ねむ:「I’m okay. My PC just worked too much.
Money is cute when it makes someone smile, right?」
氷室リア:「lol. You’re pure. Let’s sing again when it wakes up. Not goodbye.」
白露ねむ:「Good night, not goodbye.」
“pure”。
“無垢”って言葉、紙の上だと照れるけど、メッセージで言われると、ちょっと嬉しい。
褒められるの、まだ慣れない。
でも、ちゃんと受け取りたい。
⸻
翌昼:データ救出
「位置ハモ、生きてたよ」
シンがイヤホンを片方差し出す。
私の“あー”が二人分、ふわっと重なって、ふたりで笑った。
「Promiseのピアノ、ノイズ少ない。
**Distance(Bテイク)**は半分。――でも“半分”は“ゼロ”じゃない」
カイの声が明るい。
私は頷く。“半分”が嬉しい。
残りは“今の私”で歌えるから。
「じゃあ、今の私で録ろう」
自分で言って、胸のあたりが温かくなる。
“今の私”は、ちょっとだけ強い。
昨日より、すこしだけ。
⸻
パートナー募集(言葉を整える)
午後三時、公式から文面が出た。
“スポンサー”の言葉は使わない。
“声を守るための機材協力”“字幕・翻訳の共同制作”“教育・医療への無償使用相談”。
支える人が楽しめる、誇れる、誰も疲れない形。
最後に、短い文を添えた。
私の手の字は丸くて、すぐ揺れる。
でも、揺れてても、本当。
白露ねむ:「声は、息の形をしています。
息は、ひとりでは長く続かないから。
いっしょに作って、いっしょに残したい。
Good night, not goodbye.」
ポストから数分で、メッセージが降り始める。
オーディオメーカー、PCショップ、翻訳コミュニティ、大学の研究室、教育系NPO、病院の音楽療法士。
“おやすみの歌を、病棟で流していいですか?”
“授業で“沈黙の一拍”を扱ってもいいですか?”
私は、ひとつずつ、ゆっくり返す。
言葉の温度を下げないために、ゆっくり。
⸻
ちいさなすれ違い(でも笑って終わる)
「ねむ、金額のこと、もっとバンって言ったほうがさ……」(ルナ)
「ううん、私は“ありがとう”を増やしたい。数字は、レンが守ってくれる」
「なるほどの分業」
「うん。私は“ありがとう”係」
「それ、天然に聞こえるからな?」
「そうなの?」
「そうなの」
ルナが笑って頭を撫でた。
撫でられるの、実は好き。犬っぽいねって言われたことがある。
犬、好きだから、嬉しかった。
⸻
夜の前の“素”の独り言
夕方、ひとりでスタジオの灯りを落として、薄暗い中に座ってみる。
暗いと、音がくっきりしてくる。
換気扇の軽い回転、どこかの部屋の笑い声、遠くの車。
“ここは、人が生きている場所だ”って分かる。
「壊れたのも、がんばった証拠だよね」
声に出したら、少し泣きそうになって、でも泣かない。
泣くのは、配信で。
泣くときは、みんなに見ててほしい。
“おやすみ”って言ってもらえるから。
⸻
追加のスマホ配信(短め)
白露ねむ:「二回目こんばんは。
今からデータの確認をして、**“今の私”**で一部録り直します。
その前に、ひとことだけ」
コメント:がんばれ/今の声が好き
EN:Do your best! We’re here.
「今日の配信は、安心してほしくてやりました。
心配かけちゃったら、ごめんね。
でもね、みんなが心配してくれること、そのものが、
私の安心なんだよ。
だから、ありがとう」
コメント:それはずるい(泣)/安心した
EN:That’s exactly what I needed to hear.
「配信、ここで切ります。ちゃんと、押す。
おやすみ、ちゃんと言ってね?」
タップ。
静けさ。
静けさは、友だち。
⸻
ノート(長め)
机に小さなスタンドライト。
紙の上だけが明るい。
「PC:眠る。代替機:元気。
見積:20~23万。可愛いお金=“次の夜が明るくなるお金”。
救出:位置ハモ〇/Promiseピアノ△/Distance B半分。
方針:残りは“今の私”で録る。
収益:YouTube三割/事務二割/技術一五/税二割/生活に残る一五~二〇。
でも、悲しくない。分け合ってるから、歌に集中できる。
契約:事務一五/本人五五~六〇に交渉(レン)。
支え方:基金はつくらない。スポンサー/機材協力/翻訳共同。
ことば:可愛いお金(=誰かを笑わせるための)。
無垢:疑わないわけじゃない。信じたいだけ。
素:最初から素だった。みんなが気づいただけ。
呼吸:4-1-6。落ち着く。
ランプ:切れていない(配信じゃないほう)。」
最後に、もう一行。
「素で、がんばる。 それがいちばん続く。」
ペン先が止まる。
静か。
私は窓をほんの少しだけ開ける。
外の気温が頬に触れる。
遠くの部屋で、誰かが笑っている。
それで、十分。
⸻
深夜:ランプは消えない
電気を落とす。
緑のランプがちかちかして、止まって、また光る。
私はそのリズムに合わせて、息をする。
4で吸って、1止めて、6で吐く。
(おやすみ、ちゃんと言ってね)
声には出さない。
でも、言ったのと同じだけ本気で。
ランプは消えない。
――配信じゃないほうのランプは、いつもゆっくり、点いたり消えたりしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます