第7話 歌詞の部屋 ── ことばが息をする場所
朝の光は薄かった。
カーテンの糸目を透けた白が、机の角で四角く止まっている。
ケトルが小さく鳴りはじめ、加湿器が白い息を吐く。
トーストのカチという小さな跳ねる音で、私はスマホを手に取った。
【公式】白露ねむ『Distance』『Promise(Long)』『おやすみの位置』歌詞全文公開
和訳/英訳/音屋注釈:“breath=voice”。
投稿は8:00。すでに1.8万いいね、引用が雪のように降っている。
英訳の横には、音屋チームの注釈が丁寧に並ぶ。
「“息”は“声の最小単位”。“沈黙の一拍”は“観客に委ねられた行(line)”」。
読みながら、バターが溶けたパンを一口かじると、蜂蜜が指に垂れた。
通知が連続して震える。
コメント(公式ポスト)
「呼吸=声、分かる」
「“届かなくてもいい”で救われた」
EN:「Her breath is our voice. I cried reading this.」
「I’m printing this like a poem and putting it on my wall.」
引用
「“Good night, not goodbye”は、もはや挨拶じゃなく“合図”だと思う」
「歌詞が“寝息の間取り図”になってるの面白い」
DMにも長文がいくつか届いていた。
父親の介護で眠れなかった夜、あなたの“Distance”で初めて泣けた──というメール。
海外の学生から、“Promise”を読んで課題をやり切れたと、拙い日本語で綴られたもの。
どれも“手紙”の温度があって、すぐには返せない。
スクショだけ撮って、ポケットにしまう。
◆
午前十一時、事務所の編集室。
白い壁、冷房弱。ケーブルが机の脚を抱いている。
黒瀬ミオがタブレットを開き、サムネ候補を三枚並べた。
1. Distance:サビ前の“沈黙の一拍”。口が少し開く直前。
2. Promise:囁き「名前で呼んでね」。目が笑う前の“これから”。
3. 位置:ラストの「息の場所で」。手が胸の前で止まった瞬間。
「一拍が“教科書的に強い”。けど、海外は“名前”で燃える」とミオ。
「EN解析だと“one beat of silence”と“call my name”の二極」と星野コウ。
「“位置”のラスト、ねむの手が反則級」と花咲ユリ。
会議は一瞬だけ止まり、私の方へ視線が集まる。
「……Distance。あの一拍が、全部だから」
自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
ミオがうなずき、レンが決裁のスタンプを押す。
「サムネは“Distance”。タイトルは『一拍で泣く』。
ただし釣りはしない。“一拍”が“委ねる”ものであることをテロップで明記する」
「英語サムネは?」
「“The One Beat of Silence.” サブで “You filled it.”」
ユリが即座に訳を整え、コウがテロップ案を叩く。
霧原シンはPCで音圧の最終確認。「息を残す。圧は上げ過ぎない。部屋を残す」
休憩に出た自販機脇で、天音ルナが紙コップのココアを飲みながらぶつぶつ言う。
「“朗読配信”って、歌より泣くんだよね。ずるい」
「ずるいと言われましても」
「いい意味。人間のずるさ。好き」
笑って、戻る。
◆
夕方。今日の枠は“歌詞公開配信”。
サムネは淡い灰青、フォントは前夜の歌詞のまま。
私はマイクの位置を半センチ上げて、紙の束を整える。紙とマイクが触れない距離。
OBSの音量は呼吸でピコと跳ね、赤い「LIVE」が灯る前、胸の中で小さく言う。
(配信、まだ切れてませんよ?)
クリック。赤が灯る。
⸻
歌詞公開配信(朗読+解説)
白露ねむ:「こんばんは。白露ねむです。
今日は“歌詞公開配信”。
昨日の三曲を“読む”夜にします。歌うのとは、すこし違う届き方をするから」
コメント:読む!?/朗読助かる/息のやつだ
EN:Reading stream!!
古参:“人間のずるさ”始まった
「まず、“Distance”。
“距離”って、悪いものじゃなくて、“呼吸が潰れないための壁”かもしれないと思って書きました」
紙をめくる音がマイクの手前で止まる。
私は一行ずつ、声で“置く”。
ねむれない夜の端で 君の街の灯を数える
ひとつ またひとつ 見えなくなるたび
胸の奥で小さく 名前を呼んだ
「“名前を呼ぶ”は、相手の不在を肯定する行為だと思ってます。
いないから呼べるし、呼ぶからいないことが“耐えられる”。」
コメント:説明で泣く/不在の肯定…
EN:Calling the name confirms absence… oh.
スパチャ:¥10,000 灯り「“不在の肯定”で救われました」
ENスパチャ:$100 EN_Dreamer「This line healed me」
朗読は続く。一拍の手前で、私は息を合わせる。
コメント欄が自発的に静まる。
誰かが「黙るね」と書き、続いて「(一拍)」のスタンプが流れ、世界がふっと沈む。
私はその沈黙に、声ではなく在り方を置く。
(一拍)
おやすみを言えない夜に…
コメント:埋めた/埋めさせてもらった
EN:We filled it. / She gave us space.
音屋:「“委ねる行”成功」
スパチャ:¥20,000 夜更かし社畜「沈黙に居場所がある」
解説を少しだけ。
「“離れても消えない=記憶”ってよく言うけど、私は“呼吸”って言いたかった。
記憶は保存だけど、呼吸は更新するから。毎秒、続けられるから」
コメント:保存と更新…語彙の暴力
EN:Memory saves / Breath updates… wow
スパチャ:¥50,000 毛布財団「“更新”の支援」
「次、“Promise(Long)”。
“約束”って重いから、軽く・柔らかく書き直しました。
“Good night”は“また明日”の合図で、“not goodbye”は“扉の位置情報”です」
私は“鍵”の節を読む。
囁きに近い音量で、語尾を飲み込まず、歯の裏で止める。
さよならじゃない 扉はここに
鍵は息の奥 君に預ける
「鍵=息にしたのは、“誰のものでもない鍵”にしたかったから。
“息”は本人に戻るから、奪えない。置き忘れても、吸えば戻る」
コメント:なるほどの説得力
EN:Key = breath (can’t be stolen). Genius.
スパチャ:¥12,000 ネムリストNo.07「鍵、受け取りました」
ENスパチャ:$200 EN_MoonWalker「Key in my breath now」
最後、“名前で呼んでね”。
「これはガチで恥ずかしいので、一回だけ読みます」
読み終えると、チャットが崩れる。
“Call me by my name”の翻訳が幾つも滝のように流れ、
“名前で存在を確認する儀式”という言葉がタグ化しそうな勢いだ。
スパチャ(集中)
• ¥20,000 名無しの課長「存在確認完了」
• ¥50,000 有休申請中「明日は休んで考察します」
• ¥100,000 NEM_UNLIMITED「“名前”が帰ってきた夜」
• $100 EN_Archivist「Archiving this ritual of names」
「最後、“おやすみの位置”。
“声が届かなくてもいい”って書いたのは、届かなさを罰にしないため。
届かないのに自分を責める夜が、ずっと嫌だった」
朗読に合わせ、呼吸の長さがチャットに共有される。
“吸って4、止めて1、吐いて6”──誰かが書くと、同じテンポのレスが連鎖する。
私は画面を見ず、耳の後ろで集団呼吸の錯覚を受け止める。
コメント:吸4止1吐6 了解
EN:4-1-6 breathing done
スパチャ:¥5,000 灯り「今夜のタイムコード:4-1-6」
ENスパチャ:$50 EN_Ocean「Waves in 4-1-6」
「……ありがとう。今日は“読む配信”だったから、歌の時より少しだけ話せた気がします。
最後、いつもの。合図」
マイクに半歩近づく。
「おやすみ、ちゃんと言ってね?」
コメント:おやすみ
EN:Good night
スパチャ(〆):¥100,000 匿名同僚「今日は寝ます(明日言う)」/$200 EN_Dreamer「Not goodbye.」
「配信、ここで切ります。ちゃんと、押す」
クリック。 赤が消える。
◆
配信が切れても、部屋の空気は少しだけ声の形をして残っていた。
ヘッドホンを外すと、耳のまわりの熱が空気にほどける。
控え室で紙コップの水を飲むと、霧原シンが短く言った。
「朗読の無音、成功」
天音ルナが「読むの反則」と笑い、黒瀬ミオが「反則は芸」と返す。
レンが端末で指示をまとめる。「このあと切り抜きを三本投下。サムネは“Distance”。EN同時公開」
⸻
裏窓(Discord 抜粋)
水城レン:維持率94.7%。朗読でこれは怪物。
黒瀬ミオ:EN勢のコメント整理、手伝ってくれた匿名翻訳者2名に“ありがとう”文案
花咲ユリ:英語・スペイン語固定文、ピン留め更新。
星野コウ:#HerWordsAreHome が伸び中。JP派生 #言葉の居場所 も出現
霧原シン:4-1-6 呼吸テンポ、医療のナレッジに近い。誤情報に注意文入れる
天音ルナ:ねむ泣かせ選手権、また負け。
天ヶ瀬カイ:勝ち負けとは
笠原サチ:尊い(3回目)
春名ミナト:尊い×2
凪野レオ:尊い×∞
外部(Muse・氷室リア):Reading was… home. We’ll make a “Morning Read” someday?
⸻
夜更け/切り抜き公開 → 波
22:30、公式切り抜き三本が同時に投稿された。
サムネは淡い灰青、テロップは“委ねられた一行(line)”。
コメント欄は始発前の駅みたいに密で、でも整っている。
1. 【Distance】一拍で泣く──沈黙を渡す歌
→ 5分で10万再生。
→ コメント「沈黙を渡すって日本語、初めて見た」「This is not a pause, it’s a place.」
→ スパチャが切り抜きにも飛ぶ(YouTubeメン限サポート)。¥20,000「この一拍に課金」
2. 【Promise】“名前で呼んでね”に世界がうなずいた夜
→ ENコメントが爆速。「Name is a small home」「Calling restores presence」
→ 1時間でトレンド3位。
→ サムネのサブコピー“扉の位置情報(not goodbye)”がミーム化。
3. 【おやすみの位置(朗読)】声がなくても届く方法
→ 看護師・介護職の人たちの実体験スレがぶら下がり、
→ 「声が出せない患者さんに、“息で”返事してもらう」話がシェアされる。
→ 私はそのスレを読む手を止めて、胸の内側に手を当てた。重くて、温かい。
ニュースまとめ(珍しく優しい)が出る。
見出しは「約束の歌は“読む”と家になる」。
記事の最後に、“沈黙の一拍は誰のものか?”という問いが添えられていて、私は目を閉じた。
“みんなのもの”。そう答えたい。
◆
深夜、家に戻る道。
自販機の白がやわらいで見える。
蜂蜜飴を舐めながら歩くと、横断歩道の信号が変わる前、一瞬だけ世界が止まる。
歌の一拍みたいに。
私はその一瞬に“ありがとう”を言う。声に出さずに。
◆
部屋に戻ると、加湿器の白い息が、まだ部屋の形を覚えていた。
机の上、ノート。
私はペンを取り、今日の“読み”を単語で留める。
「読む=生きる延長/“委ねる一行”/鍵=息=奪えない/名前=存在確認/位置=帰る座標」
「届かなくてもいい、を罰にしない」
「沈黙は、みんなのもの」
スマホが震える。DMが一通。
氷室リア:「Reading wasn’t performance. It was shelter.
Thank you for making a room for words to sleep.」
私は返す。
白露ねむ:「You taught me that first. Good night, not goodbye.」
送信して、スマホを伏せる。
ベッドに入る前、机にもう一行だけ書いた。
「私は“おやすみ”の続きを書き続けたい」
電気を落とす。暗闇は怖くない。
今日の暗闇は、紙の匂いがする。読書の夜みたいに。
(おやすみ、ちゃんと言ってね)
口の形だけで言う。
返事は、聞こえない。
でも、遠くからページを閉じる音がした気がした。
いい夜だ。
眠る。
⸻
翌方の朝/小さな追加
目が覚めると、通知がまだ雪のように降っていた。
“#HerWordsAreHome”は世界2位、#言葉の居場所が国内3位。
看護師さんのスレがさらに伸び、「“息で返事”を合図にする」実践ノウハウが共有されている。
私は一言だけ返した。
白露ねむ:「“おやすみ”は約束。“not goodbye”は、帰ってこられる位置情報。
それぞれの夜に、それぞれの合図を。」
送信。
ケトルの湯気が上がる。
蜂蜜をひと筋。
さぁ、今日も生きるために読む。
配信は切って、人生は切らずに。
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