2-4. 断崖
トラックは沿岸部に出ると、海岸線をなぞるように進んだ。切り立った崖が目立つ岬で停車し、すでに確保されている足場に沿って断崖を降りる。靴底の置き場所を間違えると、風化して脆くなった岩が崩れ、眼下の干潟へと落ちていった。ハンジは拡声器を岩にぶつけて破損させないよう、慎重に抱え直した。
水平線の向こうから吹き荒ぶ風が、米兵たちの汗ばんだ体と磨耗した精神に幾許かの清涼感を与えた。深く呼吸をすれば、潮の香りが肺を満たした。力強い波の音が体の芯に轟く。
紺碧の水面は日差しを照り返し、その下の岩礁が透過しながら絶えず揺らいでいる。南へ、南へと逃げ惑う人々が最後に行き着いた、断崖の下の海岸線。学徒隊と呼ばれる戦闘補助員の、若い命が飛び散った場所。その腐乱して黒ずんだ残骸が、打ち上げられた流木よろしく放置されている。
ここには、天国のような砂浜は存在しない。
「あの崖の影がそうだな」
ハドソン軍曹が呟くと、その隣の副隊長、ロバートが頷いた。ハンジたちの視線の先には、断崖の麓の空洞があった。岩が入り組みまるで亀裂のようにも見える細く黒い影の奥は、奥まった洞窟になっているはずだ。報告ではそう聞いていた。
「制圧したのは六月だってのに」
「ずっと見張っているわけにはいかないさ」
背後からそんな会話が耳に入る。彼らの話す通り、地上戦が最終局面を極めた六月の下旬、この南部の海岸は激戦の末に死地と化した。両軍共に消耗した戦闘であったことは伝え聞いている。本当にそれだけだろうかと、ハンジは波に飲まれることなく岩場に取り残された、亡骸の有様に疑問を抱いた。日射に目を細めながら、そびえる崖を見上げる。四肢がひしゃげたような、それこそ地面に叩きつけられたような死体は、被弾しただけでは出来上がらない。つらつら思い巡らすハンジを、崖に根付いたテッポウユリが、風に翻弄されながら見下ろしていた。
「洞窟内は
「
「大きなモノだけさ。あの激戦の中で洞窟を丁寧に掃除はしない、今頃は蛆の巣に決まっている。奴らはよく隠れていられるよ」
先を行くハドソン軍曹には、後方の隊員の会話は聞こえていないみたいだ。彼らに対して、ライアンが振り向きざまに咎める視線を送ろうとしたが、ジョージが彼の肩に手を置いてそれを制した。
「言わせておけよ、な」
宥められ、ライアンは肩を竦めてライフルを持ち直した。
ハンジはロバートから声をかけられ、拡声器を口元に寄せる。取手を握る手に力を込めて、何度目かしれない祈りを胸中で唱える。
「出てきてください。投降すれば殺しません」
無事な島民を見つけることができますように。誰も見つかりませんように。
「収容所は安全です。食事もあります。治療も受けることができます」
平易な日本語が岩壁に跳ね返り、すぐさま潮騒にかき消える。すると、浦波ではない騒ぎが微かに聞こえてきた。分隊一同は息を殺した。
恐らく男の声だ。何かを捲し立てている。言い合っている様子だが、相手の声は聞こえない。周りの隊員たちが顔を見合わせたり洞窟を注視したりしていることから、集団幻覚でなければ、洞窟内に人がいることに間違いは無いだろう。次に発する警告が決まった。
「いるのは分かっています。出てきてください」
声が止んだ。暫くの後、何かを振り解いて一人の老爺が姿を現した。ぼろ切れを引っ掛けた骸骨にも見える彼は、両手を上げて一歩一歩こちらに近づいた。彼は右手に白い布切れを掲げて口を動かしているが、ここからの距離では聞き取れない。
「他に、誰がいますか」
ハンジは問いかけた。近づいた彼は諸手を振るわせているものの、真っ直ぐにハンジを見据えていた。
「
老爺の言葉は、つん裂く銃声に途絶えた。ハドソン軍曹が目を見開いて振り返り、ハンジもまた後方を確認する。誰も撃った様子はない。
「ライアン!」
ジョージが叫んだ。刹那、間近で銃声。ライアンがライフルを構えていた。骨まで届く音圧と硝煙の匂いを知覚してようやく、ハンジは一発目がより距離のあるところから放たれたものだと気付く。
「衛生兵!」
ハドソン軍曹が叫びながら老爺に駆け寄った。
「ライアン、何を考えてるんだ?」
老爺とそれを囲む仲間を茫然と眺めていたハンジは、ジョージの慌てた声で我に返った。
「仕方ないだろ。あいつ、武装していたんだ。下手すればこっちが危険だった」
ライアンが顎で指し示す先には、干潟に落ちているものとは異なる、真新しい日本兵の死体が横たわっていた。日本兵が、投降した島民を銃撃したのだ。
「エトー上等兵、来てくれ」
会話を耳に立ち尽くしていたところ、ハドソン軍曹に呼ばれて老爺の傍に膝をついた。
腹部から広がるどす黒い赤が、藍染の甚兵衛を侵していた。血のあぶくを吐きながら、老爺はひび割れた唇を必死に動かしている。
「彼の言葉が分かるか」
ハドソン軍曹が横目でこちらをうかがった。血を吹く老爺の口元に耳を寄せて聞き取ろうと試みるが、彼が標準語でないことに気づくと、ハンジは小さく首を横に振った。
「僕にも……」
ハンジは膝の上で握りしめた拳に目を落とした。すると、その手に枯れ木と相違ない年老いた手が触れた。驚き彼を見ると、老爺もまたこちらを見ていた。彼の両眼は、まだ光っている。
ひゅ、ひゅ、と浅い呼吸を繰り返す口からは、もう何も言葉は出ない。代わりに、彼はハンジの拳に爪を立てて握りしめ、もう片方の手を自身の胸の辺りで上下に動かした。背丈の低い、そう、子供がいる。胡乱な身振りと、拳に立てられた爪と、死に物狂いの眼光が訴えている。
「僕たちは子供を殺さない…………絶対だ」
手を握ると、彼はゆっくりと天を仰いで目を閉じた。風船が萎んでいくように、彼の身体が弛緩していく。それを見届けずに立ち上がると、ハンジは彼らを避けて岩陰の奥の闇を見据えた。
「いるのは分かっています。武器を捨てて出てきてください。子供たちを、安全なところへ保護します。————信じてください、お願いします」
波が二、三、打ち寄せて沈黙を埋める。やがて、洞窟に身を潜めいた者たちの姿が闇から抜け出てきた。気づかないうちに速まっていたハンジの心拍数が、徐々に緩やかになっていった。
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