ザ・ダンク ~生首で蘇った俺が、悪魔を狩って人間に戻ろうと足掻く話~

ぽんにゃっぷ

第1話 6兆分の1のダンク

 白かった。


 視界全部が、薄くにじんだ白で満たされていた。


 地面も、空も、感じない。浮いているのか、沈んでいるのか。

 体の感覚はなくて、でも意識だけが、ふわふわと漂っている。


 ――夢?


「……ここ、どこだ……? 俺……確かマキちゃんと……」


 あの子の名前を口に出した途端、空間にノイズが走った。


 視界にぽつんと現れたのは――バスケットゴールだった。


 唐突に、現実感のある形。リングとネット。見覚えのある形が記憶を揺さぶる。


「確か試合を一緒に見ていて……」


 だが、次の瞬間、そのリングの奥から黒煙が溢れ出す。


 空気が震え、煙が這いずり、異形の何かがゆっくりと姿を取る。


「やあ――目覚めたか、選ばれし者よ」


 どくりと心臓が跳ねる。

 未知に対する恐怖、そこの見えない海の底、真っ暗なトンネル、根源的な恐怖を感じた。


 見たこともない異形。巨大な山羊の角に、煙のようなマント。顔はフードに隠れているが、朧げに見える輪のような物体。


「なんなんだよ、あんた……」


「よくぞ聞いてくれた! 我ちゃんはアゾート。輪の悪魔。創造主に否定され、輪に希望を見た者だ」


 なんだそりゃ。


 不快な笑いが空気を振るわせる。


「……君はあまりおつむがよくないな。まあ、それも当然か。死にかけた脳は、物事を理解するのが苦手なのだろう」


「……は?」


「だが、安心なさい。我ちゃんが直に説明してやる」


 また突然現れたテレビ、REGZAかよ。

 バスケのスタジアム。試合は終盤だ。

 流れる映像で呼び起こされた記憶――8K画質。妙にリアルで、いやに綺麗だった。


「先ほど、君の首が鉄骨によって吹き飛ばされ――そのままバスケットゴールをくぐった。覚えているだろう?」


 ブツンと記憶のスイッチが入った。


 鉄骨――上だ。天井。


 ミシミシと嫌な音がして、顔を上げた瞬間。

 ブランコのように振り子になった鉄骨が、こちらへ。


 その直後の記憶が、なぜか“ゴールに入った瞬間”の感覚。


 ――いや、待て。誰かが、俺を……。


 テレビの中の映像が切り替わった。

 実況席の悲鳴、カメラがブレて、コート中央が映る。

 観客が騒然とするなか、ひとりの選手が――俺の首を両手で掴み、全力でダンクしていた。


「ナイスダァァァンク!!」


 歓声と悲鳴が、同時に爆発する。


 ネットが揺れ、審判が笛を吹く。

 選手は呆然とボールを探すように手を伸ばし、血に濡れたリングを見て絶句していた。


 ニュース映像に切り替わる。

 画面のテロップには「試合中の悲劇」「選手錯乱状態」とある。

 当然試合は中断、終了。


「いやぁ、ジャーナリスト魂を感じるよ、退出間際の選手インタビューなんて」


 リポーターがマイクを向け、汗だくの選手が震えながら答える。


「試合に集中してて……いや、興奮か……。ばっと影がきたと思って……気づいたら……ダンクしてた、というか……」


 テレビの前で、俺は絶句するしかなかった。


「……冗談だろ……」


 なんとか捻り出した言葉もそれだけだった。


「冗談じゃない。儀式だよ」


 悪魔が笑う。

 輪のような物体からこぼれる声は、嬉々としていた。


「これほどまでに偶然と衝動が一致した瞬間――芸術以外の何と言う? 観客の歓声も、実況の絶叫も、すべてだった。

 まさしく、我ちゃんに捧げられた――完璧な輪の儀式だ!」


「ふざけんな!!」


 怒鳴り返しても、悪魔は楽しげに笑うだけだった。


「いやいや、落ち着きたまえ。誰も君を殺そうとしたわけじゃない。人間の本能――ボールを追う指先が、奇跡的に君の頭を掴んだ。それだけのことだ。ね? 偶然は罪ではない」


「……ふざけやがって……」


 吐き気がするほどの理不尽だ。

 だが、その理不尽こそが――こいつが求めていることらしい。


「さあ、理解できただろう? この世には必然よりも強い偶然がある。それが我ちゃんの祝福、輪のことわりなんだよ」


「――死んだのか、俺」


「うむ。完全に、きっちり、清々しいほどに、死んだ。だが我ちゃんにとっては歓喜の瞬間だった。6兆分の1の確率、数千年間達成されなかった至高の儀式――そう、が、ついにこの世に打ち立てられたんだよ」


「……意味わかんねぇ」


「君の肉体は、すでに滅びた。だが魂と首は――美しく、完璧に、リングを通過した。その瞬間にのみ、我ちゃんは現世に降臨できる。これは単なる奇跡ではない。創造主への反逆であり、芸術なのだ」


 頭が追いつかない。

 死んでる?

 降臨?

 

 ってか生首ダンクってパワーワードはなんだよ。

 バズりの悪魔かよ。


 文字通り、もう回らない頭で考える。

 顔が動かないのは生首だからだ。手足の感覚はもちろんない。

 なんてこった。最悪だ。


 それでも、はっきりとわかるのは――こいつが、俺を何かに巻き込んだってことだ。


「……それで? 俺に何の用だ?」


「その言葉を待っていたよ。君が生き返りたいなら、取引しよう」


 悪魔の声が、ふいに低くなった。


「条件は――この世界に巣食う他の悪魔どもを、我ちゃんの代わりに蹴散らすこと。できれば、もっとを流行らせてくれると非常にありがたい。……まあ、そっちはさすがに無理筋か。とにかく偶然こそ美学よ」


「待て。悪魔って……他にも……いやいるか。サタンだの、ベルゼブブだの」


「よく知ってるね? 我ちゃんは珍しく感心してるよ、喜べ」


 ゲームの知識だなんて言えないよなぁ。

 しかしそいつらが現実にいるなんて……。


「サタンはあまりにも有名だな。他にもトレンドで言えばトラック事故を操る者、感電死を愛する者、ベランダから誘う者。奴らはただ死を量産し、“魂の餌場”を確保するだけの退屈な仕事に甘んじている。

 

 ――我ちゃんは、それが許せないんだ」


 悪魔の身体から、怒気のような黒煙が吹き上がる。


「トラック転生? 入浴感電? ピタゴラ死? そんな凡百の儀式で腹を満たしているクズどもに、我ちゃんの儀式美学は理解できぬ。


 だから、殺してしまえ。喰ってしまえ。君がその力を手に入れろ」


「……それをやったら、俺は生き返るのか」


「それは当然。君の魂は今ここにある。我ちゃんが、命を戻してやる。それが取引の報酬だ」


「――それだけ?」


「うむ。悪魔は嘘はつかない」


「……ほんとかよ、それ」


「我ちゃんには造作もないことよ? 悪魔を――まあ、そこそこの数、殺してくれたならな」


「そこそこってなんだよ……」


 思わず突っ込むが、それを深く考える暇もなく、目の前に黒い紙が現れた。

 異形の文字が蠢き、朱いペンがふわりと浮かぶ。


「さあ、契約書にサインを――」


「……いや、書けねぇし」


 虚空に揺れるペンを見つめた。手がない。

 身体が存在していない。ただ、首だけがここに浮かんでいるだけなんだけど?


「……あっ」


 悪魔が顎に手を当てる。


「そうだったな。体がなければ、サインもできぬか。うっかりうっかり。我ちゃんとしたことが!」


 そう言って、悪魔が両手を広げた。

 次の瞬間、黒炎が爆ぜるように吹き上がり――首の下に、身体が接続された。


 血が巡る。筋肉がうずく。肺が苦しみながら空気を吸う。


「っ……ぐ、は……!」


 地面を踏んだ感触。心臓が脈を打つ音。鼓膜が震える。

 全部が、生きている感覚だった。


 よくわかんないが、この悪魔の力は本物に思えた。

 指が震えながらも、ペンを握る。


「……いいぜ。悪魔なんかぶっ潰してやるよ」


 契約書にサインした瞬間、空間が砕けた。

 俺、朝倉一真あさくらかずまの意識は――現世へ、浮上する。

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