第2話「追放先はスローライフの聖地」
王都を離れる日、見送りに来た者はいなかった。まあ、当然だろう。公爵家からは勘当され、社交界からは追放されたのだ。私に付き従うと言ってくれたのは、老執事のセバスとメイドのアンナ、そして数名の使用人のみ。彼らは私の乳母やその子供たちで、ヴァレンシュタイン家というより、私個人に忠誠を誓ってくれている稀有な人たちだ。
「お嬢様、本当に……本当によろしいのですか? あのような不毛の地へ……」
揺れる馬車の中で、アンナが心配そうに私の顔をのぞき込む。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「いいのよ、アンナ。これは私が望んだことだから」
『むしろ、これから始まる新生活にワクワクしているくらいだ』
そんな本音を飲み込んで、私は穏やかに微笑んだ。質素な作りの馬車はガタガタと音を立て、窓の外の景色は日に日に寂れていく。王都の華やかな街並みが遠ざかり、豊かな田園風景もやがて途絶え、荒涼とした大地が広がり始めた。
忘れられた谷へは、馬車を乗り継いでも一週間以上かかる。道中は野営の連続だ。だが、元暗殺者の私にとってサバイバル生活など庭のようなもの。火の起こし方、安全な水の確保、食べられる野草の見分け方。私がテキパキと指示を出す姿に、セバスたちは目を丸くしていた。
「お嬢様は、いつの間にこのような知識を……」
「本で読んだのよ。貴族の嗜みとしてね」
適当にはぐらかしておく。まさか前世で敵地に取り残され、一ヶ月間ジャングルを彷徨った経験があるなどとは言えない。
そして出発から十日後。私たちはついに目的地、忘れられた谷の入り口に到着した。馬車を降り立ち、眼前に広がる光景にアンナたちが息をのむのが分かった。
谷は、険しい山々に囲まれた巨大なくぼ地のような場所だった。噂通り木々はまばらで、地面はゴツゴツとした岩肌が剥き出しになっている。冷たい風がヒューヒューと吹き荒れ、生命の気配が希薄だった。
「ひどい……。こんな場所で、どうやって暮らしていけば……」
アンナが絶望的な声を出す。セバスも厳しい表情で周囲を見渡している。だが、私の目には、この土地が全く違うものに見えていた。
『なるほど、面白い地形だ』
前世の癖で、瞬時に地形と環境を分析する。三方を険しい山に囲まれているということは、天然の要害だということ。侵入経路は限られ、防衛しやすい。風が強いのは風力発電に応用できるかもしれない。岩肌が多いが、土壌を分析すればこの環境に適した作物を育てられる可能性はある。そして何より――
「この空気……澄んでいるわ」
私は大きく深呼吸した。空気に混じる濃密な魔力の匂い。これは良質な薬草が自生している証拠だ。そして、遠くから聞こえる獣の咆哮。あれは低級の魔獣だろう。素材の宝庫がすぐそこにいる。
「さあ、まずは拠点を作りましょう。セバス、皆に指示を。南側の岩壁沿いが風を避けやすいわ。そこに簡易的な住居を設営するのよ」
「は、はい! しかしお嬢様、なぜその場所が……」
「風向きを読んだの。夜は北からの風が強くなるはずよ」
私の的確な指示に、セバスたちは戸惑いながらも従った。私たちは持参した資材と、その場で調達した木材を使い、数日がかりで風雨をしのげる最低限の居住区を完成させた。
その間も、私は谷の調査を怠らなかった。暗殺者としてのスキル――気配遮断、高速移動、地形把握能力――は、この世界でも健在だった。私は誰にも気づかれずに谷の隅々まで走り回り、水源の確保、薬草の群生地の特定、そして危険な魔獣の生息エリアをマッピングしていった。
「これは……『月光草』じゃない。しかもこんなに群生しているなんて」
崖の中腹に淡く光る薬草を見つけた時、私は思わず声を上げた。月光草は最高級の回復薬(ポーション)の材料となる希少な薬草だ。王都の市場では、一本でも金貨数枚で取引されるほどの価値がある。それがここでは雑草のように生い茂っていた。
『これだけで、当面の資金問題は解決だな』
他にも、解毒作用のある『蛇見草』や滋養強壮に効く『太陽の実』など、宝の山がそこら中に転がっていた。この谷が「不毛の地」と呼ばれていたのは、単に誰もその価値に気づかず調査しようとしなかっただけなのだ。
拠点設営が一段落した夜、私たちはささやかな食事の席を囲んでいた。メニューは、私が森で採ってきたキノコと木の実を煮込んだスープと、硬いパンだけ。それでも、自分たちの手で作り上げた住処で食べる食事は格別な味がした。
「お嬢様、明日からはどうなさるおつもりですか? 食料も、いずれは尽きてしまいます」
セバスが心配そうに尋ねる。皆の顔にも不安の色が浮かんでいた。私はにっこりと笑い、自信満々に宣言した。
「心配いらないわ、セバス。明日からは、この谷を豊かにするための第一歩を踏み出すの。まずはお金稼ぎよ」
翌日、私は護衛として志願してくれた若い使用人の一人を連れ、採取した月光草を手に、谷から最も近い街へと向かった。街までは一日がかりの道のりだ。途中、ゴブリンの群れに遭遇したが、前世で鍛えた体術と、この世界に来てから密かに練習していた短剣術であっという間に片付けた。護衛の青年は、私の動きにただ呆然としていた。
街の冒険者ギルドで、月光草を換金する。ギルドの受付嬢は、山積みにされた月光草を見て腰を抜かさんばかりに驚いていた。
「こ、こんな大量の月光草は見たことがありません! 一体どこで……!?」
「企業秘密よ」
そう言って笑うと、大金貨が詰まった袋を渡された。これだけの金があれば当面の生活物資を買い揃え、開拓に必要な道具も一通り揃えられるだろう。
帰り道、私たちは買ったばかりの小麦粉や塩、そして農具を馬車に積んで谷へと戻った。谷の入り口が見えてきた時、アンナが駆け寄ってきた。
「お嬢様! 大変です! 谷の奥から、大きな魔獣が……!」
アンナが指さす先には、数人の領民らしき人々が、牙を剥いた巨大な猪のような魔獣――ボアフェンリル――に追い詰められていた。この谷には、追放された私たち以外にも、行き場をなくした少数の人々が細々と暮らしていたのだ。
『面倒なことになった』
私は内心で舌打ちしつつも、馬車から飛び降りた。
「あなたは皆を安全な場所へ。私が時間を稼ぐわ」
護衛の青年にそう指示し、私は懐から二本の短剣を抜き放つ。ボアフェンリルが、標的を私に変えて突進してくる。その巨大な体躯から放たれる突進は、まともに受ければ馬車ごと吹き飛ばされるだろう。
だが、私の目にはその動きがひどく緩慢に見えた。
『首筋の動脈、膝裏の腱、そして眉間の急所。ターゲットは三つ』
冷静に相手の弱点を分析し、最小限の動きで突進をかわす。すれ違いざま、短剣がボアフェンリルの膝裏を正確に切り裂いた。
ギャイン!と悲鳴を上げ、巨体がバランスを崩して転倒する。私はその隙を逃さない。地面を蹴り、転がった魔獣の背中に飛び乗ると、そのまま首筋まで駆け上がり、硬い毛皮の隙間へ寸分の狂いもなく動脈に刃を突き立てた。
血飛沫が舞う。だが、まだだ。とどめを刺さなければ。私は最後の力を振り絞って暴れる魔獣の上で体勢を整え、眉間に向けてもう一本の短剣を全力で突き刺した。ズブリ、と肉を貫く鈍い感触。ボアフェンリルの巨体が大きく痙攣し、やがて完全に動きを止めた。
静寂が訪れる。助けられた領民たちもセバスたちも、ただ呆然と私を見つめていた。返り血を浴びたドレス姿の令嬢が、巨大な魔獣を一人で仕留めたのだ。信じられない、という顔をしている。
私は魔獣の骸から短剣を引き抜きながら、やれやれとため息をついた。
「これで、今夜は猪鍋ね。この肉、きっと美味しいわよ」
私の呑気な一言に、皆が我に返ったようにざわめき始める。これが、忘れられた谷での私の新たな日常の始まりだった。面倒事は多いが、王都の窮屈な生活に比べればずっとマシだ。
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