第47章 雪道の向こう《佐伯 比未子》

夜行バスの窓の外で、

東京の街がゆっくりと後ろへ流れていった。





街灯の列が遠ざかるたびに、

胸の奥で何かが少しずつ冷めていく。







わたしはカーテンの隙間から

暗い高速道路を見つめていた。






アツシさんは隣で、じっと目を閉じていた。







膝の上に置かれた小さなボストンバッグ。

その中には、服と財布、

それから彼が最後まで手放せなかった

手紙だけが入っている。






――いつも持っていたベースはもうない。






「……寒くない?」


「はい…平気です」






その答えに、アツシさんは小さく笑った。

けれどその笑みはどこかぎこちなかった。







「もう音楽とは関わらない。

 僕はキミのために普通に働いて生きるよ」


「…うん」





(普通…か…普通っていったい何だろう?)







わたしは胸の中でそう呟いた。 










***









盛岡駅に着いたのは、夜明け前だった。





雪がまだ降り続いていた。





空気は刺すように冷たく、

吐く息が白く膨らんではすぐに消えた。






「ここなら誰も僕たちを知らない」






アツシさんは駅前の地図を見ながら言った。





ここについてから彼はずっと手が震えている。

寒さのせいか、それとも罪のせいか。





不動産屋をいくつか巡って

比較的広くて安いアパートを探して

駅から少し離れた住宅街にたどり着いた。







木造二階建て。

築年数を聞くまでもなく古びた部屋。






ドアの蝶番が軋み、

小さな電気ストーブがひとつだけ置かれている。






アツシさんは小さく息を吐いた。






「ここでいい。僕たち、やり直そう」


「…うん」







わたしは頷いた。

けれど、自分の心の奥には

安堵でも希望でもない、

ただの“空白”があった。







***








夕方になると

お互いほとんど言葉を交わさなかった。








アツシさんは地元の求人情報誌を広げ、

工場や運送のバイト欄を眺めている。






「…こういうの、やってみようかな」


「…うん。いいと思います」







彼の横顔を見つめながら、

わたしはふと、

彼の“両手が空っぽ”なことに気づく。







そこにいつも見ていたベースがない。

彼の世界から、“RED SUNS”が消えていた。







(アツシさんは生きようとしてる。

 でもその生き方は…何かを押し殺してる)






屋根から落ちる雪が静かに窓を叩いた後、

わたしは小さな声で言った。






「…ねぇ、アツシさん。本当にこれでいいの?」


「いいんだ。全部忘れて、静かに暮らしたい」


「バンドがなくても?」


「バンドなんて、僕にはもういらない」






その言葉を聞いた瞬間、

わたしの胸に何かが刺さる。







(あたしも同じなんだ。

 “何か”を必死に押し殺そうとしてる――)







ストーブの熱が弱くなっていく。





二人の間に広がる沈黙だけが、

まるで“新しい生活”の音のように響いていた。






外では雪が降り続いていた。

音を奪い、景色を覆い隠すように。









それはまるで、

二人の罪を白く塗りつぶす“音のない雪”だった。

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