第38章 静寂の反響音<夢河 吹雪>
ドアベルの音が消えた瞬間、
“Clover”の空気が止まった。
焦げたコーヒーの香りがまだ漂っていて、
その中に小さな罪の匂いが混ざっていた。
比未子ちゃんは、
ほうきを持ったまま動けずにいた。
「…吹雪さん」
その声には、怯えと覚悟がまざっていた。
「まだ閉店、してなかった?」
「いえ、片付けしてただけです」
カウンターの上には、
二つのマグカップ。
あたしは静かに歩み寄った。
「ねえ、比未子ちゃん。
あたし、怒ってるように見える?」
「違うんです!
わたし、そんなつもりじゃ――」
「わかってる」
あたしは言葉を遮った。
その震え方が、その目が、心が、
もう充分に答えになっていたから。
「誰かを好きになるのって、理屈じゃないよね。
でも、それでも人は傷つけちゃう」
比未子ちゃんの目から、
涙がぽたりと落ちた。
「アツシくんね、もう心が壊れてる」
「……!」
「“怖い”って言ってた。自分自身の勝手で
全てを壊してしまう気がする…って」
沈黙。
外の風が窓を揺らした。
あたしは目を閉じて、
自分の中の古い痛みに触れた。
(…そう、そしてあたしも同じことをしてる)
ユウキさん。
あの人の死からずっと、
“人を想うこと”が怖かった。
でもいっちゃんを見たとき――
ステージの上で光に包まれながら、
それでも不器用に自分以外の誰かを
想って歌う姿を見たとき、
その熱が自分を取り戻させてくれた。
(あの瞬間、あたし…
いっちゃんが好きになってたんだ)
その気持ちは恋なんかじゃなかった。
でも、“生きている証”みたいに
確かな衝動だった。
「ねえ、比未子ちゃん」
声が震えていた。
「たぶん、あたし…
いっちゃんのこと、好きだったんだと思う」
比未子ちゃんが、はっとした。
「でもそれは、あなたの光を
奪いたかったわけじゃない。
あたし…彼に…ユウキさんを重ねてた」
あたしは笑おうとしたけど、
うまくできなかった。
「ねえ、比未子ちゃん。
あたしね、あなたのことが羨ましかった。
あの人の隣で“見られる人”になれたことが」
涙が頬を伝う。
でも、その涙はもう止められなかった。
「でも、あたしはその光を憎んでもいた。
だから、アツシくんにあんな言葉を言ったの。
“誰かのために弾こうとしてるでしょ?”って。
本当は自分が…全部…壊したかったの」
比未子ちゃんの瞳が揺れた。
「吹雪さん……」
「ねえ、比未子ちゃん。
あたしはずっと自分から逃げてた。
でも、いっちゃんを見て、
RED SUNSと出会って…救われた」
涙と共に心の中身が止まらなくなってた。
「――あたしには…
あなたを責める資格なんて、ないの」
外で風が鳴った。
雪が静かに降り始めていた。
「…吹雪さん」
比未子ちゃんに答えは見えたのだろうか?
「あたしは地獄に落ちても彼を守り抜く。
あなたが守らないなら…あたしが守るから!」
そう言ってあたしはドアに向かって歩き出した。
取っ手に手をかけ、振り返る。
「比未子ちゃん。
――あたしはそれほどにあなたが羨ましいよ」
ドアを開けて外に出ると、
街の灯がぼんやりと滲んでいた。
「業…ってことかな――終わらないって、
こういうことなんだね」
あたしのつぶやきは静かに、
雪の降り始めた街の中に消えていった。
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