第37章 ゆがんだ朝<佐伯 比未子>

目を開けた瞬間、

光がまぶしかった。




天井の白さがやけに眩しくて、

思わずまぶたを閉じた。









(……ここ、どこ?)









次の瞬間、

昨夜の記憶が胸の奥を刺すように蘇った。







二度目の夜だった。








アツシさんの部屋。


雨音。


震えていた彼の手。


あの「ごめんなさい」の響き。








喉が乾いていた。

それでも声が出ない。









ふと横を見た。

ベッドの隣には誰もいない。







彼はもう出勤したのかもしれない。










時計の針は、午前8時を少し過ぎていた。

カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。

その光がやけに“傾いて”見えた。








(…朝なのに、夕方みたい)










体を起こし、鏡を見る。

乱れた髪。乾いた唇。









そこに映る自分が“他人”のようだった。













――そして、次の瞬間。










机の上に置かれたマグカップ。

その取っ手の形を見て、胸が締めつけられた。








(……いつきのカップと、同じだ)










白くて、少し欠けたマグ。




いつきがよく「これは俺のラッキーカップだ」と言っていたものに似ている。











その形を見ただけで、涙が出そうになった。








(なにやってるの、わたし…)









思考がまとまらない。









昨夜の自分と、今の自分が繋がっていない。

体の奥で誰かが入れ替わったみたい。












***










午後、

“Clover”に出勤すると、

いつきがカウンターに座っていた。







「おはよう、昨日どっか行ってたのか?」







その声があまりに優しくて、

喉の奥がきゅっと詰まった。






「お、おはよう…ううん…

 朝からここの掃除してただけ…」









(だめ…目が合わせられない)









彼は新しい楽曲のラフ譜面を広げながら、

「昨日、思いついてさ」と笑った。






その笑顔が、まっすぐで、痛い。








わたしは、その笑顔の中で

自分が“汚れている”ことを初めて自覚した。





「……寝不足?」


「え?」


「顔、少し疲れてる」


「…ううん、大丈夫…だよ…」


「無理すんな。ちゃんと休めよ」











(やめて……そんなふうに言わないで)











声に出せないまま、

わたしは逃げるようにコーヒーを淹れた。






湯気が立ちのぼる。

でも香りが感じられなかった。




永遠とも思える時間。

経過したのはたった30分だったはず。






いつきはそんなわたしに気付くことなく

笑って店を出て行った。







それでもわたしの心のざわめきが

止まることはなかった。















その時――

入り口のドアベルが鳴った。








吹雪さんだった。

黒いコートの襟を立て、

少しだけ疲れた顔で立っていた。








「…おはよ、比未子ちゃん」


「ふ、吹雪さん…?」


「ちょっと用があって」






吹雪の視線が一瞬だけアツシさんを探す。

でも彼の姿はない。








「アツシくん、今日は?」


「まだ来てません」


「そっか…」






吹雪さんは静かに

カウンターの端に腰を下ろした。








一瞬だけ、わたしと視線が交わる。








その一瞬で――

お互いが“何をしたか”を、

察してしまった気がした。











(…この人、きっと知ってる)









言葉にしなくてもわかる。

でも、どちらも口を開かなかった。







湯気の中で、

沈黙だけが揺れていた。








でも彼女は何も言わない。






生きた心地がしないまま

どれくらいの時間が経過したんだろう。








吹雪さんと何か他愛もない会話をしたはずだが

その内容をわたしは覚えてはいなかった。




















***









そのまま閉店時間を迎えたわたしは

一人で掃除をしていた。






店内に残るコーヒーの香りが、

どこか焦げた匂いに変わっていた。










(もう…わたし…戻れない)







その確信が静かに胸を満たす。






明日になれば、

また“普通の朝”が来るだろう。






でもその朝は――

もう、まっすぐじゃない。







光が少し、

ゆがんで見えるだけで、

世界はこんなにも違ってしまうのだ。







わたしはほうきを止め、呟いた。







「…わたし…どこで間違ったんだろう…」






答えはなかった。








ただ、窓の外で

街灯が白く滲んでいた。








そんな時、閉店後のドアが開いた。








そこにいたのは――












***








光が逆光になって、

誰なのかはすぐにはわからなかった。






でも、その足音だけで悟ってしまった。







(…やっぱり、また来たんだ)








喉の奥で、言葉にならない声が揺れた。







夜のコーヒーの香りが、

少しだけ甘く変わっていく。










――ここから、世界が壊れていく音がした。

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