第31章 静かな崩壊<月形 アツシ>

スタジオの壁に貼られた吸音パネルが、

低音を吸い込みながらも震えていた。




リハーサルのたびに、僕は

自分のベースが「何か違う」と

感じるようになっていた。




音は出ている。リズムも外していない。

それでも――どこか、奥が空っぽだった。





「おい、アツシ。テンポ半拍ズレてね?」





ヒカルの声にハッと我に返る。






「……すまん。もう一回やらせて」




ヒカルは苦笑いして肩をすくめた。





「珍しいな。お前がこんなズレるなんて」






ケンは何も言わず、

ただ無表情のままスティックを回している。





いつきがマイクを握り、

小さくため息をついた。






「大丈夫か?

 疲れてんなら今日は切り上げてもいいぞ」


「いや、大丈夫。もう一回やらせてくれ」






その声は、どこか焦っていた。

「大丈夫」と言いながら

自分が崩れていく音が

心の奥で聞こえていた。







***







帰り道、イヤホンで

自分たちのライブ音源を聴く。



 


いつきの声。

ヒカルのギター。

ケンのリズム。

そのすべてが完璧に噛み合っている。









――なのに、自分の音だけが濁って聞こえる。










(なんでだよ…)






指先に力が入りすぎて、

ベースケースのストラップが軋んだ。







仙台の夜。








雪の降る車内で、比未子さんと

話したことを思い出す。






彼女の瞳。







あのときの、ほんの一瞬の“同情”のような温度。









(…僕は、ただ救われたかっただけなのか?)










でも、あの瞬間に――確かに何かが芽生えた。




それが恋なのか、依存なのか、

自分でもわからない。







ただ一つだけわかるのは、

比未子さんの言葉が、

まだ胸の奥でくすぶっているということ。







「アツシさんの光がなければ

 生きていけない人だっています」







その“生きていけない人”を、

自分の都合のいい形で彼女にしてしまった。







(僕は、何をしてるんだ……)







夜の街を歩きながら、

ショーウィンドウのガラスに映る自分を見た。






やつれた顔。

焦りと迷いが滲んだ瞳。

昔の僕なら、こんな目はしていなかった。








僕は“音”を、自分のために弾けていない。

かといって誰かのために

弾けているわけでもない。








リハーサルでは、比未子さんの笑顔がちらつく。

音を出せば出すほど、心が削れていく。

“届けたい”はずの音が、

“縋りたい”音に変わっていく。









もう、自分の中でも

何が正しいのかわからなかった。








***










その夜、僕はベースを持ったまま眠れずにいた。

アンプに繋がないまま、指で弦を撫でる。 








――音が鳴らないほうが、楽だった。










音が鳴るたびに、

自分の弱さが露わになる気がして怖かった。







(僕は……壊れているのか…)







その思考の端で、

比未子さんの笑顔がまた浮かぶ。










そして、そのすぐ隣にいる――いつきの姿。










胸の奥が、静かに軋んだ。












(あいつは太陽。

 僕は……もう、夜に生きる道しかない)










そう呟いた時、

夜の静寂の中で、弦がかすかに鳴った。










それはまるで、自分の中で何かが

“音を立てて崩れた”音のようだった。

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