第1話 人魚姫と呼ばれる病気

     1


 賢助けんすけは真新しいスーツには付いているはずのないシワを伸ばしながら、与えられた一室を出た。


 部屋の前では聡治朗そうじろうが手を前に組んだ姿勢で立っていた。

 総白髪の彼はぱっと見ただけだと老年の執事に見える。


 彼も黒のスーツに身を包んでいるが、こちらは賢助のものより艶の目立つ布地だ。彼の肌質にあった布地と色が選ばれているからだろう。言わずもがな、聡治朗の体格に合わせて作られた一点物のオーダースーツである。


 扉の開閉音を聞いたのだろう。聡治朗は閉じていた目を開き、賢助に微笑みかける。

 時間には間に合っているはずだが、部屋の前で待たれていたとなれば、どうしたって気まずい。


「おはようございます」

「おはようございます。あの、よろしく、お願いします」


 賢助はゆっくりと頭を下げた。頭上の、

「よろしくお願いします」

 という聡治朗の声を聞いてから顔を上げると、彼は変わらず柔らかく微笑んでいた。


陸玖りくさんのお部屋はこちらです」

 と聡治朗は穏やかに言い、ついてくるよう促すように手を添えて、優雅に後ろを向いた。


 賢助が連れてこられた部屋は賢助の部屋に近い位置にあった。近い、どころではない。隣である。


 この部屋の主――陸玖という青年の護衛と介助、そして恐らくそれら以上に期待されている話し相手となること、が賢助に与えられた仕事だ。


 護衛と介助を任されているのだから、すぐに駆け付けられる位置にあっておかしくはない。だが、来たばかりの賢助をこんな近くに置くというのは不用心な気がする。


「陸玖さん、おはようございます」

「――入っていいぞ」

「失礼します」


 そんな扉越しのやり取りを少し離れたところで見ていた賢助は、聡治朗に視線を向けられて気づいた。

(俺も入るのか)


 何となく寝室に入るのは早いと思っていたが、聡治朗のしている仕事全てをいつか賢助は任されるのだ。そのいつかがいつ訪れるのか、周りを振り回すことに抵抗のない男が雇い主なのだから、予想などするだけ無駄だった。遅くて困ることはあっても、早くて困ることはない。ということだろう。


 賢助が恐る恐る部屋に入ると、誰が開けたのかカーテンは既に左右に寄せられていて、部屋の中は明るかった。


 部屋の主たる陸玖は、アイボリーのパジャマ姿で、濃い青のシーツに包まれたベッドの上に、ちょこん、と座っていた。


 朝に日差しを受けた彼は、肌の白さが一際目立ち、その白さとの対比で髪が漆黒に見える。日に当たると赤く見えることのある賢助の髪質とは異なり、艶やかな黒で、顔立ちも整っている為に、彼は儚い雰囲気を形にしたビスクドールの少年のようだった。


 車椅子で生活する陸玖の為、屋敷の空間はどこも広く取られていて、この寝室も扉からベッドまでの距離はホテルのスイートルームにいるのかと錯覚させるほど離れている。癒しだけでなく楽しませる目的もあるだろうホテルと比べると、家具が色々と物足りない気がするが。車椅子が通りやすいように、に重きをおいている空間に、娯楽があるわけがない。


 ベッドの上の陸玖は正座しているように見えた。数歩近づいてより鮮明に見えるようになると、膝から下を左右に割るように広げて、足の裏を天井に向かって晒しているのがわかった。女子がよくしていた、膝関節に負担のある座り方のようだ。


「賢助はそこでストップ」

 と陸玖の声が飛び、賢助は踏み出した足をそっと下げ、背筋を伸ばした。扉を通ってまだ三歩のところだ。そのたった三歩に気に入らない点でもあったのだろうか。


 何となく不安になって、賢助は背中に隠して手を握った。握るだけでなく、甲に爪を立ててしまう。これは最近になってついてしまった癖だった。


 賢助の雇い主は青空そら――陸玖の兄であって、介護を受ける当人であるはずの陸玖は何も知らされていなかった。

 そのことを、昨日の挨拶の際に賢助は初めて知った。


 だから陸玖が賢助を警戒するのも分かるし、本当に警戒していても文句は言えない。言う相手は賢助を半ば強引に連れてきた男――青空でなくてはならない。


「陸玖さん」

「近すぎても見えないだろう」

 聡治朗の言を遮って陸玖は言った。


(遠すぎても見えない、とは思わないのか)


 と賢助は心の中だけで抗議する。もともと賢助の目は遠くまで見えるほうだが、視力の話はしていないし、履歴書にも書かない。第一、乱暴に折り畳まれたせいで小山を作っている掛け布団の陰に入ってしまえば、どんなに視力が良くても見えるわけがない。


 陸玖は膝立ちでベッドの上を歩いて聡治朗に近づくと、彼の首に腕を回した。聡治朗は難なく彼を抱き上げ、ベッドの横に用意されていた電動の車椅子に座らせる。そして、ベッドフレームにかけてあった、赤茶色の膝掛けを畳んだまま渡した。自分の楽な位置に座りなおしていた陸玖は、頷きながら膝掛けを受け取った。それを器用に――車椅子のタイヤに巻き込まれないようにと、布の端に気を配りながら、腰と脚を覆った。


 ――あの膝掛けには何の意味があるのか。そもそも、ああして歩けるのになぜ車椅子なのか。

 賢助は首を捻ったが、今は黙って見守るべきなのだろう。そう判断して口を紡ぐ。


 準備が終わったのだろう。陸玖が自分で車椅子を操作して賢助のほうへと近づいてきた。出入口が一つなので賢助に近づいているわけではない。のだが、賢助は何故だか少しドキっとした。もちろん良い予感ではない。


 心臓が知らせた何らかの予感は的中した。


 陸玖は賢助の前で車椅子を止め、賢助を仰ぎ見る。顔面と髪と、ついでに上半身を観察し始めた。見つめられた直後こそ驚いて固まっただけだったが、この舐めまわすような、品定めをするようなジットリとした視線には、さすがに不快感を覚えずにはいられない。


 ――何かに似ている。

 その何かが就職活動で数えたくないほど受けた面接だ、と気づいた時、爪を立てていた指に力が入った。



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