第1話 2

     2


(吟味、されている……)


 身だしなみについてのレクチャーは、家でも学校でも受けていない。受けてはいないが、日々賢助なりに頑張っているので、少なくとも不潔には見えないはずだ。元カノという存在が後ろ盾になってくれるおかげで、なんとか陸玖の視線に耐えられている。


「このスーツは兄さんが?」

「はい」

「あーあ。逃げ道をとことん塞がれてるな」

「……そう思います」


 雇い主である青空から贈られたこのスーツは、大学を卒業してほんの数日後に連れていかれたオーダースーツ専門店のものだ。


 微かに艶のある落ち着いた印象の黒のスーツで、丈夫そうな見た目と違い、袖を通すと滑らかで、驚くほど動きやすかった。就活用のスーツも一応はオーダーだったはずだが、量販店ものだったからか――きっとある程度は型が決められてしまっているのだろう――少し窮屈さを感じていた。対してこちらは比べ物にならないくらい快適だ。


 ちなみに値段は、サンプルとして並べてあったスーツの値段を――当店で一番お求めやすい価格は、と紹介されたうえで――聞いて卒倒しそうになったので、絶対に訊かない、と賢助は決心している。


「まぁ安心しろ。出ていきたいなら俺が兄さんを説得するから」

「……えっと、出ていけと言うことでしょうか」


 賢助は休みの日に転職活動をするつもりでいた。だが、それを陸玖に言われると、違う気がしてしまう。


(あんたが俺を気に入ったんじゃなかったのか)


 陸玖がきみを気に入ったみたいだから、は青空が言った誘い文句の一つだった。それを考えるともなく思い出したのだろう。陸玖の発言を咎めるような言葉が出たが、あまりにも簡単に、するりと声になったので賢助自身驚いている。


 青空のもう一つの誘い文句、

「聡治朗さんはもうすぐ定年だから」

 は、ここへ着いたばかりの昨日、嘘だったと判明していた。


 聡治朗は総白髪で、そのせいか遠目で見たときは老年と勘違いしてしまった。が、近づいてみれば、彼の肌にはほとんどシワがなかった。聞けばまだ五十五歳。定年まで十年も先で、努力義務まで考えるとさらに五年――つまり十五年も先だ。


 青空の言うことは信用できない。そう学んだはずで、あの発言も自分の良いように動かすための言葉だったと考えるのが妥当だと分かっている。


 だが、いらないと言われるのは、傷つく。

 ――傷ついたっていいはずだ。


「出ていきたいなら協力する。兄さんの我儘に付き合う必要はないからな」

「答えになってません」

「……出て行けと言えるほど、お前を知らない。知らない奴に介助されるのには、抵抗もあるが、聡治朗さんにばかり頼っていられないのも分かってるから……。出て行ってほしいわけではない、かな。

 ……ただ、そうだな。そのスーツは可哀そうだと思った、から」


 そう言われて、賢助は俯くようにしてスーツを見た。いくら自分の体形に合わせて作られたものだとしても、高級スーツが身の程に合わないのは賢助自身もよくわかっていた。だが、それなら、スーツが可哀そう、ではないのか。なんて酷く自虐的なことを考えてしまう。賢助は後ろで握ったままだった拳に爪を立てた。――どうも、モヤモヤする。


「言ってしまえば、前払いの給料、だろう?」

 途端に力が抜けるような、分かってくれるのかと飛びつきたいような気分になった。目の前が明るくなった、あるいは、天から地に落とされた――この場合は逆で、突然掬い上げられた、か。


 体に合わせて作られたこのスーツは、着心地も相まって本来なら軽く感じられるはずだった。秤に乗せてみてもきっと軽いだろう。だが、心情的にはどうしようもないくらい、重かったのだ。


「枷のようだと、俺も思います……あ、わたしも」

「俺、で良いぞ。それとも、転職先で困らないように敬語の練習しとくか?」

「……しばらくは、俺、で」


 賢助の答えに陸玖が、ふっ、と微笑んだ。その柔らかな笑みに、視界が甘い香りを感じるのは何故だろう。共感覚なんて今まで経験したことはないから、そんな神秘的で眉唾物の力は自分には備わっていないはずなのに。


 自分の心臓が発する違和感に、何か嫌な予感を賢助は覚えた。


(ここには長居しない方がいい気がする)


 陸玖に近いことを言われて傷ついたばかりなのにもかかわらず、賢助は休日を転職活動に費やすのだ、と密かに決心していた。



     3


 陸玖は車椅子で洗面台のある部屋へ入り、後ろの二人――というよりは、賢助を見た。


「伊藤さんにお任せしましょうか」

 陸玖の傍に歩を進めていたはずの聡治朗がぴたりと止まって、こちらも賢助を見る。


「いや、こいつの腕、折れそう」

「折れませんよ」

「今日は聡治朗さん」


 賢助の言は無視で、陸玖は聡治朗に両腕を伸ばした。その伸ばし方はどこか子供のようだった。


 陸玖はベッドから車椅子へと移されたときと同じように樽のように抱えられて、キャスター付きの椅子へと移動させられた。移動先である椅子の背が壁にピッタリとつけられているのは、事故防止だろう。聡治朗がかがんでキャスターの周りを囲っていたコの字状の木の板を小脇に抱えた。この木の板も椅子が勝手に動かないよう固定するものなのだろう。


 聡治朗の仕事をいつかは自分が行うのだ、と賢助は目に焼き付けながら心の中にメモをする。そのメモを知らずのうちに声にしてしまっていた。


「電動だから水はダメ、と」

「うん。よくできました」

 陸玖が子供の気づきを褒めるようなことを言う。馬鹿にされている。


 ちなみに、賢助は数時間後に知ることになるのだが、陸玖が使っている電動車椅子は防水加工が施されており、わざわざ椅子を変える必要なはい。それでもこうして手間をかけるのは、この車椅子では顔が洗いにくいからだそうだ。――つまり、揶揄われていた。


 聡治朗まで笑っている――微笑んでいるだけだが――から、賢助は顔から火を噴いたような熱を感じた。


「この椅子はキャスター付きだから」

 と陸玖は椅子をポンポンと叩きながら言った。その手つきは大型犬を撫でるようである。


「俺が顔を洗ってる間、後ろで押さえておく事。これは賢助でもできる」


 できる、とは、やれ、と言うことだろう。賢助は小さく、へい、と返事をして、陸玖の後ろに立った。


「へいってなんだよ」

「ああ、つい」

「ふぅん」


 陸玖が笑いながら言ったので、つられて気安くなってしまった。だが陸玖は咎めず、気にもしない様子で顔を洗い始める。鏡に写して見える聡治朗も微笑んでいた。



 洗面所を後にする時も陸玖が先を行く。電動車椅子の速度は賢助の普段の歩行速度より少し遅くて、つい押してやりたくなったが、車椅子には勝手に触らないように、と昨日ここへ着いたばかりの時に言われていたので我慢した。


「次は着替え。クローゼットの場所はこっち」

「自力で行けるなら、俺にわざわざ教える必要はないのでは?」

「ん? 給料いらないって?」

「すみませんでした」


 雇われている自覚はあるはずだが、と賢助は内省する。陸玖が気安いからか、つい昔の軽薄さが出て行ってしまう。考えてみれば――考えなくとも――陸玖は雇っている側の人間なので、使用人に礼儀正しくする必要がそもそもないのだ。


 だが、まともな人間なら店員に横柄な態度はとらない。ばかりか、感謝するだろう。


 気安いのは良いとしても、陸玖の場合は体を預けているのだからもう少し感謝していいのではないか。そう思うのは、社会に甘えている――あるいは期待しすぎている――ということになるのだろうか。


 などと当たり前でかつ誰でも思いつく文句を言い訳のように並べてみたが、賢助の中で渦巻いている不満は、思いついた文句のどれともズレている気がした。

 賢助は自分の感情が上手く説明できない歯がゆさで、無意識に手の甲を引っ掻いていた。



     4


 車椅子すら余裕で入るクローゼットを後にし、三人は一階のダイニングに来ていた。


 途中、階段を降りる際に聡治朗が陸玖を背負ったのには驚かされた。


「この車椅子は?」


 車椅子と共に置いてけぼりにされた賢助が急いで問うと、陸玖が顔だけ振り向かせて、

「下にもある」

 と言うから呆れた。


(金持ちは……)

 無駄に金をかける。――と思ったばかりだったのに。


 中年の女性――陸玖が生まれるより前から嘉手川家で家政婦として働いているらしい――雪子せつこに任された「陸玖さんの分」のお盆を見て、賢助は硬直した。


 豪華な食器に似合わない五穀米。油のアの字も浮いていない卵スープ。唯一豪華なのはサラダだが、むしろこれは嫌がらせなんじゃないかと思うくらい量が多く、対してメインが見窄らしい。


 朝食に肉、は確かに豪華かもしれないが、ソースは掛かっていないし、焼き色も薄いうえ、胡椒の欠片も見当たらない。


「あの……これホントに陸玖さんに?」

 と賢助が問うと、

「はい。先に運んでください」


 雪子はニッコリと微笑んで頷いただけで、使用人の分の朝食をワゴンに乗せる手を止めない。ソースは後で届けるんだ、と自分に言い聞かせて賢助はそれを運んだ。だが結局ソースらしきものは運ばれず、食卓には味変用の卓上調味料が用意されることもなく、皆が席についてしまった。


 ドラマなどでは使用人は使用人だけで食事をするシーンが描かれていたが、嘉手川家は主従一緒に食事をするらしい。それは昨晩も同じだったので賢助も再び驚きはしないが、

(なんで)

 と思ったのは、賢助の分にはちゃっかり塩胡椒が振られていたからだ。追加できるようにだろう、お盆の隅には塩胡椒を盛った小皿もある。


 賢助が陸玖に運んだお盆にはなかった小皿だ。


 今この場で一番偉いのだろう、陸玖が手を合わせると、聡治朗と雪子も続く。賢助も途惑いながらも手を合わせた。


「いただきます」

 こちらも陸玖に続いて二人が言ったので賢助もモゴモゴしながら、

「い、いただき、ます……」

 とは言った。――ものの。


 賢助は途惑いのために食事どころではなかった。失礼かも、という遠慮も浮かぶ隙がなく、賢助はじっと陸玖を見た。


 陸玖は何も気にせずスープを飲み、肉も平気で食べている。サラダに手を伸ばす際には、少し目を輝かせて。


 不思議に思いながら、賢助はようやく食事に手を付けた。


「うまぁっ」

 実家や自炊とはまるで違う。食材の味を生かしつつ仕上げられた、朝食に相応しい優しい味の料理に、思わず声が出たうえに体がとろけそうになる。いや、とろけてしまった。はっとして弾かれたように姿勢を正し、賢助は急いで頭を下げた。


「すみません」

「いえいえ。喜んでもらえてうれしいわ」

 そう言って雪子が微笑んでくれたが、陸玖に運んだお盆の様子を思うと、少し怖かった。



「あの食事は……」

 と遂に堪えられなくなって訊ねた賢助に、陸玖は一瞬きょとんとしてから、笑った。いつもは雪子が運んでくれる食事を、今朝は賢助が運んできてくれたことを思い出したからだ。あのときの賢助の顔は――いつか見たほどではなかったが――青ざめていて、少し面白かったので。


 図書館のようなこの書庫には、賢助と陸玖の二人しかいない。賢助には、

「聡治朗さんはいつもその辺いる」

 と言ったからか、律儀に扉の前に立っている。机に向かうと真後ろに人が立っていることになるが、距離がある程度離れているのと、前言の通り聡治朗で慣れているので意識することはない。――と思ったのだが。声をかけられて集中が切れてしまったのは、実は少し気にしていたのかもしれない。


 陸玖は車椅子を一度後退させてから右を向かせた。時間がかかって億劫なので向かい合いはしなかったが、顔を見て話すには楽になった。


 

「いいんだ、あれは。俺がそうしてって言ってるから」

「ですが、……いじめかと」

「ああ、ある意味ね。雪子さんは料理好きだから」

 そっちじゃない、と賢助は心の中でツッコむ。


「俺はね、濃い味がだめなんだ。濃い味っていうか、調味料味」

「調味料味、ですか」

「油も苦手」


 そう言われて思い返すと、陸玖の分の肉は焼いたというより茹でた色をしていた。スープに油の輪が見えなかったのも納得できる。

 対して賢助が食べたものは焼き目のしっかりついたステーキだったし、卵スープもごま油の香りがして、香りだけでも美味しいと言ってしまいそうな品々だった。


「大変ですね。……というより……」

「かわいそう?」

「……すみません」


 言おうとしたことを先に言われて、なぜか謝ってしまった。居心地が悪くなって賢助は聡治朗を目で探したが、彼は雪子と買い出しに行ってしまっていた。


 陸玖を一人で家に残すことはないという。聡治朗が雪子の買い物に付き添うのは、陸玖の兄――青空が陸玖の傍にいられる時だけだ。


 しかし今日は賢助がいる。

 来たばかりの新人に任せるべきは、雪子の手伝いのほうだろうに。と思うが、二人は青空に何か頼まれているのかもしれない。


「かわいそうなのは雪子さん。今朝も昨日の晩飯も、賢助が幸せそうに食べるから、雪子さんが嬉しそうにしてただろ?」

「俺は、ちょっと怖かったですけど」

「ははは。でも、いじめか」

「すみません」


 陸玖が緩んだ頬のまま賢助を一瞥し、手元の本を閉じた。その手つきは優しく、何故だか今朝の、椅子を叩いたシーンを思い出させる。あの時も、叩くと言う動作ではあったが優しい手つきだった。


「こんな怖いとこは辞めて、転職したくなったか」

 と訊かれて、賢助はドキリとした。賢助自身が転職すると考える分には何とも思わないが、陸玖に言われると、どうも変な感覚になる。言葉では説明しかねる、妙な違和感。青空が言った、


「陸玖がきみを気に入っている」

 を、まだ信じているのだろうか。



     5


 陸玖はまっすぐに賢助を見つめ、答えを待っていた。


 初めて彼を見た時は、なんて貧弱そうなんだ、と思ったが、こうしてじっくりと見ると十二分に健康そうな男だった。

 ただ時々、目が光を失う。……気がする。


 陸玖が生きる狭い世界で、賢助のような目をする人間は一人もいなかった。

 聡治朗も雪子も、自分を本当の子供のように接してくれるし、時々顔を出す青空は名前に相応しい晴れ晴れとした――ついでに華やかな――笑顔で接してくれる。


 両親は昔ほど顔を出してくれなくなったが、それは単に忙しいだけ。両親の――父の稼ぎで生活させてもらっている陸玖は、二人に何かを言う資格はないと考えていた。


 陸玖から両親に声をかけない理由の中に、籠の鳥にされている、という恨みが……ないと言えば嘘になるが。


「実を言うと、最初からそのつもりで……」


 賢助の口がそう告げた時、陸玖は呪詛でも吐かれたかと錯覚した。咄嗟に足元を見る。赤茶色の膝掛けで隠された素足は、ちゃんと空気に触れている。


 空気だけに、触れている。


 だが、いつか迷い込んだ野良猫のしっぽが足の裏に掠めた時のように、確かに悪寒が走ったのだ。


 ――あの時は大変だった。

 思わず叫び声をあげた陸玖の元に、駆けつけるなり青空が、

「あの猫か!」

 と怒りをまるで隠そうともしない鋭い声で叫んだ。


 青空にしてみれば、体育の授業などで夢中になるとこれくらいの声はよく出していたのだが、狭い世界で生きている陸玖はそれを知らなかった。だからいつも穏やかな兄が別の何かに変わってしまう気がして、怖くなった陸玖は兄の腕を掴み、


「違うの、間違って地面に着いちゃっただけだから」

 と咄嗟に嘘をついた。


 陸玖の為に特注された車椅子は座面が高く、本来ならあるはずの足の乗せる場所――フットサポートがない。脚を支える布は普通の車椅子と同じように張られているが、一番守らなければならない足の裏は、触れると痛むから剥き出しだった。だが間違っても足が地面に付くことはない。そんな当たり前の事に陸玖が気付いたのは、膝掛けを渡された時だった。


 陸玖の足は、何かが少し触れるだけでも強い違和感に襲われる。だが、違和感なら痛みよりはずっと耐えられる。強風でもない限り、膝掛けが足の裏に触れることはないだろうと考えたらしい。そうして膝掛けで守るようになった。


 以来、似たような騒ぎはなかった。なによりここは室内だ。猫も小鳥もいない。


 そして、今痛かったのは、本当に足だったか……。


「ああ、やっぱりそうか」

 と頷いた。その声は陸玖も自分で驚くくらい、普段通りだった。


「聡治朗さんを見てると、俺はやっぱりいなくてもいいじゃないかと」

「そうかな。今、雪子さんは賢助を連れてきた兄さんに感謝してるはずだけど」

 言いながら、また違和感に襲われる。


 ――痛み、ではなかったかもしれない。


「陸玖さんは、どうです? さっき、知らない奴に介助されるのは抵抗があるって」

「そりゃな。お前だって突然介護が必要になって、知らない人間に裸見られることになったら、必要と分かってても抵抗したくなるだろ」

「……そう、ですね」


「俺の世話係はずっと聡治朗さんだけだったから。……まあ兄さんの言い分も分かるけどな」


 言い訳のように兄を出す。


 青空は勘が良く――むしろ神に愛されている、と言ったほうが的確なほどの先見の明があった。その青空が言うならきっと必要なのだろう、と。


 そうでなくても聡治朗に何かあったなら、いきなり知らない人間と交代する可能性があることは誰でも思い浮かぶ。

 むしろ、いままでそうならなかったことが不思議なくらいだ。


 陸玖は肉付きの良くない体質のようで、食べても太らないし動いても筋肉にならない。だからと言って、幼い頃には身の回りの世話もしてくれていた雪子が、今から聡治朗の代わりをできるかと言うと、――無理だ。


「俺は陸玖さんの中ではまだ仮採用なんですよね。……その仮採用が、転職先を見つけてきたら、困ります、よね?」

「……困る、かな。困る……」


 陸玖は机の上の本に手を乗せ、指の腹で表紙を撫でた。和紙のようなざらざらとした感触が気に入っている推理小説だ。もちろん内容も何回も読んで覚えてしまったくらい、好きな本だ。だが今は内容を思い出せない。


 思い出すのは、初めて賢助を見た――あの日だけだった。



     6


 嘉手川家は庭の手入れを外部に依頼している。両親はこちらにも信用できる人間を住み込みで雇いたかったらしいが、あまりにも外との接点のない生活を強いられている陸玖を不憫に思った聡治朗が、

「自分が必ず守るから」

 と頭を下げて、外部の庭師を入れさせたらしい。


 聡治朗の思惑は見事に当たり、陸玖は外からやってくる庭師に懐いた。


 そのうちの一人が、伊藤 源三郎げんざぶろう――賢助の祖父だった。


 源三郎はどちらかと言えば無口な男だったが、遠慮がちな他の庭師と異なり、陸玖が傍にいることを気に留めずに放っておいてくれる人だった。陸玖が普段の仕事や、その時その時の作業とそれをする必要性などを訊ねれば、簡潔にではあったが答えてくれた。

あまりに簡潔すぎるのと専門用語らしき単語が多くてよくわからなかったが、陸玖は外部の人間と話している、という事実で満足していたのだ。


 そんなある日、源三郎が陸玖でも分かるようなことを言った。

 それが孫――賢助の事だった。


 陸玖は源三郎の力になりたくて、耳を傾けた。そしてついには、この家に連れて来てはどうか、と提案までしていた。


 過保護な両親――よりは主に、青空によって、門を潜る人間はふるいに掛けられている。だが、源三郎の孫なら大丈夫だからと、聡治朗と雪子を説得した。


「俺は会わないから。庭で休んでもらうだけ」

 だから、兄さんには言わないで、と――。


 そうして賢助は陸玖の願いでこの家を訪れた最初の人間となった。


 説得した時の言葉通り、陸玖は最初から賢助には会うつもりがなかった。源三郎の言う、

「都会に疲れたんだろう」

 を信じていたので、テレビや写真で見て知った都会とは似ても似つかない嘉手川家の庭なら気が休まるだろう、と考えただけだった。


 だが、失念していた。


 いくら庭が広くても、たかが知れている。外国の城のような村と言って過言でないような広大な庭ではない。日本でも稼ぎが多ければこれくらいの庭を所有できるだろう、その程度であることを。そのうえ、車椅子で通れるような道以外は細いうえに迷路のようで、初めて踏み入れた人間には癒しよりも不安が勝ちかねないということを。


 いつもの散歩道を、聡治朗に車椅子を押してもらいながら回っていた時だった。


 見慣れないカーキ色の塊が落ちていた。先に気づいた聡治朗が足を止め、あちらへ行きましょう、と来た道を戻ろうとした。が、陸玖は咄嗟に聡治朗を止め、車椅子を自分で操って塊へと近づいて行った。


 それが人間だと気づき、聡治朗を呼ばなければと頭では分かっていたのに、別の言葉が出ていた。


「大丈夫か?」


 弾かれたように振り返った塊は、顔を真っ青にした男。――それが賢助だった。



 あの時は頭の中が、助けないと! でいっぱいになった。それがどれだけ不用心で危険なことだったかは後で気付いたし、青空にも怒られた。だから、もう勝手なことはしない、と兄に約束したのに。約束させたはずの兄が勝手なことをした。


 何の相談もなく、賢助をここへ連れてきたのだ。


 それもただ遊びに、ではない。住み込みの使用人として、だ。


 再会した賢助は、半年前の青白い顔が嘘のように健康的な姿で現れたが、時々、怯えるような目を見せた。――主に、青空に対して。


 すぐに青空の勝手に振り回されているだけだ、と気づいて、

(助けないと)

 そう思った――。



     7


「お前は、どうなんだ? 兄さんの勝手に付き合わされて、歳の近い男の世話をするのは」

「俺は、まだよくわかりませんが」


「さっきトイレ行っただろ。聡治朗さんが出かける前。……もし今俺がまた、トイレに行きたいって言ったら、対応できるのか」

「それは……」

 賢助は目を逸らした。


 陸玖の言うさっきは、陸玖自身が望んで賢助を退出させた。だから具体的に何を助けてやればいいのかわからない。だというのに説明せず問うのは、失念しているからか、想像させたいからか。分かりかねて、賢助は両手を挙げた。


「具体的には何を手伝えばいいのか分からないので、答えようがないです」



 正直に答えられてしまって陸玖は溜め息をついた。


 ――本当は手伝いなどいらない。


 事故防止の為か、陸玖が使用している電動車椅子はリクライニングが出来ない設計なので、膝歩きで移動することは出来ない。が、床を這って行けばいいし、トイレは――間違って足が付かないようにと高く作られているものの、よじ登ろうと思えば出来るだろう。みっともないし、汚いし、トイレから降りる時など、危険もある。


 だからいつもは聡治朗に抱き上げてもらい、便座に座らせてもらうのだが、その前に下着を下ろさなければならない。タオルで隠す手もあるだろうが、尻や太ももまでは隠せないだろう。


 聡治朗に肌を見られるのは、子供の頃から世話になっているし、今更過ぎて何ともないが、これを賢助が代わるとなると……考えただけで顔から火が吹きそうになる。


 考えたくないので、言いたくもない。だが、――分かっている。言わなければ伝わらない。


 陸玖は今考えた全てを――本当は手伝いが必須ではないことから、下半身を見られるのは恥ずかしいことまで――説明した。


「トイレでも抵抗がある。風呂も、となったら……想像したくもない」

「それは、……そうですね。俺も、嫌かもです」


 嫌かも、と言われて、またどこかが痛んだ。今度もどこが痛かったのか、よくわからなかった。


 陸玖は手元の本へと目を逸らした。


 分かっている。賢助を拒否しても、いつかは聡治朗の代わりを雇う日が来る。遅いか早いか、でしかないことを。


 ただ、今でなくてもいいはずだ。


 賢助でなくても、いいはずなのだ。


 それにトイレを改築して手すりでもつけてもらえば、車椅子から床へ床から便座へ、なんて面倒なことをせず、車椅子から直接便座へ移動できるようになるはずだった。手すりが無理なら和式にしてもらったって良い。小さい頃から聡治朗に介助してもらっているので、改築まで考えたことはなかったし、父の稼ぎに頼らねばならないので、言い出し難いことではあるが。介護士を頼る以外の手が、一つもないわけではないはずだ。


 ですが、と言われて、陸玖は賢助を見た。遠くはないが、腕を伸ばしてもギリギリ触れないだろう距離をとって彼は立っている。


 助ける必要を感じさせない――しっかりとした脚と、まっすぐな目をこちらに向けて。


「俺が同じ介護が必要な状態になったら、諦めます」


 陸玖は、ふつ、と腹の熱が上がるのを感じた。


「助けてもらえるだけ有難いので」

 賢助が考えているだろう介護の必要な状態は、陸玖の症状とは違う。恐らくはもっと深刻な「要介護」と言われるレベルで、恥ずかしいだのなんだのという馬鹿馬鹿しい理由で拒否しようなど、そもそも考えることすらできない状態だろう。


 対して陸玖は、陸玖一人我慢さえすれば、介助は必要ですらない。


「それはそうだな。痛いのを我慢して、両足で立てばいいんだからな、俺の場合は」

 自分が甘やかされている、という言葉では足りないほどに、甘やかされていることは理解している。


 庭師たちが遠慮の中に、憐れみと軽蔑を持っていることに陸玖は気づいていた。苦労を知らないお坊ちゃんだと思っているのだろう、と感じていたのだ。


 掛かりつけの医者や、その医者が雇った看護師にしてもそうだ。彼らは庭師たちよりは親身になってくれたが、不治の病を前に好奇心がないとは言えないだろう。つまり彼らの親身さは、目の前の貴重な情報源を他へ渡さない為の綱だ。


「立ってやろうか? お前の目の前で。そしたらお前は安心して転職活動できるだろ?」


 本当は賢助を追い出したいわけではない。ただ兄の勝手から解放してやりたかっただけだ。そのはずだ。


 だが言い出したら、止まれなかった。ドラマで見る癇癪持ちのガキのようだ、と他人事のように自嘲する思いもあったが、やっぱり止まれなかった。


「――っ」


 足先が床に着く――いや、まだ皮膚の薄皮一枚触れただけだが、ぞっとした。風呂の後などに足を拭く度に痛むから、容易に思い出せるのだ。


 やめろと心が叫ぶ。


 それでも無視して、右足を床に着ける。


「――――っ」


 声にならない、声にしてしまえば耐えられずにその場に崩れてしまう。

 陸玖は歯を食いしばって声を殺し、左足も床に着けた。


 足の裏が熱い。


 絶え間なく切り裂かれているようで、鋭利な刃物が食い込んでくるようで、――息が出来ない。


 昔、雪子に頼んで初めて包丁を握らせてもらった時、誤って指を切った覚えがあったが、あの痛み如きで泣き喚いたことが嗤えるくらいだ。


 ――比較にすらならない。


 痛みに驚けば刃物を遠ざけられるが、立つ為に痛む、ということは体重がかかる限り痛みは続くということだ。仮に刃物が遠ざけられない状態――刺さったままなら、いつか鈍麻して平気になるだろうか。きっと痛いままだが、少なくとも新しい傷は出来にくいだろう。だが、陸玖の足はそこにただ留まっているだけでも切り刻まれ続ける。まるで電動ノコギリを並べて作った床に立たされているように。


 実際はただの床に立っているだけだから、傷などできない。血も流れない。


 陸玖は数歩歩いて見せた。途中、擦れ違った時に賢助が手を伸ばしてきたが、思い切り振り払った。


 歩くほどに痛みは深くなり、足の甲すらも痛いような気がしてきて、しまいには膝の下まで全てが痛い。冷汗は脂汗になっていた。痛みに堪える為に息を殺すから、酸欠で視界は黒く塗りつぶされ、頭がクラクラする。


 書庫を抜け出したところで、もう立っていられなかった。崩れてすぐに脚を抱く。一番痛い足の裏は何倍にも腫れ上がっているのではと疑うほど熱を持っていて、それが甲まで伝わっていたが、陸玖自身でも触れることは出来なかった。


「――陸玖さん!」


 叫んだ声は、聡治朗のものだった。


 陸玖を心配し、その肩に触れてもいいのか触れない方がいいのか、オロオロするばかりだった賢助は、背中に強い衝撃を受けて息を詰まらせた。


 天井が――馬鹿みたいに遠い。


 聡治朗に投げられたのだと気づくまでに数十秒かかった。



     8


「申し訳ございませんでした」


 深々と聡治朗に頭を下げられ、賢助のほうが恐縮してしまう。賢助は慌てて、

「頭を上げてください」

 と手を伸ばしながら言った。


「何事か把握するより前に体が動いてしまって……」

 聡治朗は顔を上げながら言った。苦渋に満ちた顔だった。


「俺が悪いんです。……たぶん」

「そんな、何が悪かったのかわからないなら、謝ってはいけませんよ」

「そういう、ものでしょうか」


「場合にもよりますが、今回は陸玖さんに……」

 と聡治朗は何かを言いかけて、なるほどと一人納得したらしい。苦渋は一変、微笑みに変わっている。


「青空さんの目に間違いはない。いつも通りだ」

「……えっと」

「どうか、嘉手川の新しい家族として、これからよろしくお願いします」

 再び頭を下げられるが、賢助は訳が分からずオロオロするしかなかった。



 陸玖は見慣れた天井に気づいて、いつの間にか寝室のベッドに寝かされていたことに気づいた。


 無理に立てばあんなに痛かった足が、今はもう何ともなくて、……忌々しい。


 溜め息をつき、すぐに、はっとしてスマートフォンを探した。


 ――青空に報告しなければならない。


 きっと聡治朗か、聡治朗から伝え聞いた雪子が、青空に間違った報告をしてしまっただろう。賢助は青空に雇われているから、彼が報告している可能性も高い。が、誰が伝えたにせよ、この件は陸玖が報告しなければ正確な情報が伝わらない。


 陸玖が正しく伝えても、賢助がクビになる可能性は捨てきれないが、何もせず辞めさせられては、後悔するに決まっていた。


「――陸玖さん」

 扉越しに賢助の声が聞こえてきて、陸玖はスマホを探す目を扉に留めた。


「起きてますか」

「……起きてる」

「入っても?」

「……いいぞ」


 陸玖は起こしていた上体をベッドへと預け直した。


 扉の開く音がしたが、何故だか見れなくて、太腿の上に投げた自分の手に目を落とした。


 閉まる音が聞こえてこないのは、賢助なりの配慮だろう。それか、外で聡治朗が見守っていて、その視界の範囲内にいるように言われているのかもしれないが。


「あの、すみませんでした」


 賢助の声が遠くて、ようやく陸玖は賢助へと顔を向けた。彼は律儀に、今朝陸玖がストップをかけた位置で立ち止まっている。頭を下げた姿勢で固まっているから、陸玖が許すまで動くつもりがないのかもしれない。


 来い、と声をかけると賢助は一瞬躊躇ったようだが、すぐに従った。


 陸玖はいつもどおりに体を起こして割座になると、賢助へと両腕を伸ばす。途惑う賢助に視線だけで車椅子をさした。彼はなおも途惑ったまま、それでも聡治朗がして見せた方法で、陸玖を持ち上げて椅子へと移動させた。


 傍を離れ、姿勢を正す賢助の顔は少し赤い。四十八キロを抱えるのは、素人にはやはり難しい仕事のようだった。


 だが馴れていないがゆえの雑さは、――悪くなかった。


「その、悪かったな」


 陸玖はベッドを見ながら言ったが、意識は視界の端に映っている賢助だけに向けられていた。視界の端の賢助は明らかに途惑っていて、そうでなくても、あの、とか、その、とか言葉にならない声が聞こえている。それが少しおかしくて、自分の頬が緩んでいることに気づかずにはいられなかった。


「あれは八つ当たりだったんだ。賢助は悪くない」

「……ですが、その、陸玖さんの症状も知らずに、勝手なことを言ったのは事実ですから」

 陸玖は首を横に緩く振る。


「足の裏、見てくれるか。その、怪我してないかどうか」

 無駄なことを頼んでいることを充分承知で陸玖は言った。太腿を上げて両腕で支える。と賢助が膝立ちになってじっと見つめてくる、その視線がくすぐったかった。


 医者も陸玖の足を視診するし、看護師にも見られることがある。医者は聡治朗と同じように、物心つくより前から世話になっているので今更だ。が、数年前に雇われた看護師に初めて見られた時にも、何も思わなかったと記憶している。はずなのに。


「まだ痛みますか?」

 と訊かれて、嘘と言えない嘘をついたことが恥ずかしくなった。陸玖は賢助を踏まないように脚をゆっくり下ろして、首を振った。


「大丈夫だ、何ともない」

「傷はないようです」

「雪子さんたちが毎日掃除してくれてるからな」


 でも、と恥ずかしくて見れなかった賢助の目を、覚悟を決めて見つめた。


「傷はなくても痛いんだ。面倒だろ」

「……そうですね」


 頷いた賢助は、ふと視線を落とし、自分の胸に手を当てた。


「心の傷のようですね。外からじゃ――他人からじゃわからない」


 陸玖は賢助の目が暗く沈むのを見逃さなかった。それで思わず手を伸ばしていた。泣きたいなら泣いていいぞ、と言いかけ、手を止めた。


 まっすぐにこちらを見た賢助がその目が――まだどこか暗かったが――涙の気配のない力強いものだったから。


「俺、青空さんに説得されて、というより、外堀埋められてここに来たんで、反発してただけなんです」



     9


 賢助は就職活動中に心を壊しかけた。――壊したと言って過言ではないが、自分が弱いせいだと考えている賢助は言い切ることに抵抗があった。なのであくまでも、――壊しかけた。


 拒食症ぎみになり、心配する母のためにと頑張って食べてみても、戻してしまうことが多かった。母が義父――源三郎に相談し、賢助は祖父の家に移ることになった。もともと一人暮らしだったが、脱水症状の危険な状態で発見されたので実家に戻されていた、のだが。


 父が賢助に寄り添おうとせず、状態すら見ようとせず、――それでいて、あれだけ勉強しろと言ったのに、だの、育て方を間違った、だの。しまいには母が悪いと大声で文句を言うものだから、祖父の家に避難させられたのだ。


 源三郎は賢助を外に連れ出した。名目はアルバイト。卒業したらウチで働けばいいとまで言ってくれた。歳の為に縮小していた事業を、賢助の為に拡大してもいい、とも。


 それが賢助には余計に苦しかった。


 この苦しみは、誰にも理解できないだろう。外からはコネで就職先を得ただけに見えると思ったから。


 ――そんな時に青空に声をかけられた。

 彼は彼なりの、賢助が就活に向かない理由、とやらを展開し、更には賢助と会う前に祖父と母に会って、話しを通してあると言い放った。


 そのうえ恥ずかしげもなく、

「僕を安心させてくれ」

 と甘えもした。


 賢助は絆されたのではなく、恐怖で頷くしかなかった。


 青空は自信を形にしたのだと思わせるくらい、眩く、美しかった。――蛇のような美しさだ。捕食対象である蛙が思わず見惚れてしまうような、神々しいくらいの。


 あの時の賢助は間違いなく、愚かな蛙だった。


 だから反発した。愚かな――言いなりの蛙だった自分が情けなくて。

 今度こそは自分の力だけで未来を掴むのだ、と。……だが。


 ただ言いなりなっていたわけではなかったのだと、苦しむ陸玖を見て気づいてしまった。



「ただ一つ、希望がありました。青空さんに言われていたこと」

 陸玖は首を傾げた。


「陸玖さんが俺を気に入ったから、声をかけた、と」


 陸玖は全く覚えのないセリフに硬直した。すぐに否定してもよかったはずだが、なぜかできなかった。


 嘘になる、とさえ思った。


「……やっぱり、青空さんの嘘だったか」

 賢助が俯き、陸玖は慌てて弁明しようとした。弁明も何も、考えたことすらないことを言ったことにされたのだから、青空の嘘だったという賢助の理解は間違っていないはずだが。


 

「なぜか、は分からないんだけどね。あなたに――あ、と、陸玖さんに、必要だと思われているなら、ここにいてもいいかなって思ったんですよね」


 賢助は言いながら、そりゃそうだ、とも思った。誰が自分をよく思っていない相手のトイレや入浴の介助を好き好んでしたいのだろう。仕事だから、家族だから、と目と耳を働かせないようにして何とか動いているだけだ。感謝されることを期待して何が悪い。もし冷たく接する、時には暴力まで――病気で錯乱しているという事情もないのに――振るう相手に尽くせる人間がいるなら、天使か神様だろう。残念ながら賢助は天使でも神様でも、それらを目指しているわけでもない。


 だが、陸玖に望まれるなら、感謝されるなら、耐えることができると思った。――耐えるなんて言葉は相応しくない。


 喜んで跪ける、とすら思っていた。


 理由は分からない。強いて挙げるなら、涙を拭いてくれたから。


「泣いても良い」

 と許してくれたから――。


 実家にいた時は父にさんざん言われた。

「お前が悪いんだから泣くな」

 と。泣いてもいないのに。父は賢助を見ようともしなかったから、賢助が泣けないことに気づいていなかったのだ。


 賢助はもう一度陸玖を見つめた。


 源三郎に連れられて初めて嘉手川家を訪れた日。


 見知らぬ広大な庭に一人取り残され、パニックになった賢助を見つけてくれたのが、陸玖だった。


 最初は声があまりにもハッキリと耳に入ったので死神かと怯えたが、顔を見た途端に、――何故だか安心してしまったのだ。ほっとして涙が出たのだろうか。


 緊張のせいで水もろくに飲めない賢助に、陸玖が言ったのだ。


「飲んだ分だけなら泣いても良い」

 と――。


 それはお守りになっていた。賢助すら意識しないままに。あとで泣いても良いから、今は少し頑張ろうと。お陰で大学に戻ることが出来て、卒業も出来た。


 そうして自分を救ってくれた人が、今度は自分を必要としてくれている。


 そんな幸福なことがあるだろうか。


 ――そう思ったことも、全て無意識だった。


 だから青空の嘘なのだと勘づいた時、自分が落ち込んでいることに気づかなかった。賢助の意識の上では、落ち込む理由などない、ということになっていたのだから。


「でも、やめます」

 賢助はまっすぐに陸玖を見つめて言った。


 陸玖の目が大きく見開かれた。

 初めて見た時から、人形のような目だ、と思っていた。

 ――綺麗で、感情がない。


 いや、感情がないように見えるのは、無視すると賢助が決めてしまったからだ。何も感じていないなら瞼どころか眉すら動かないだろう、と気づいて、その気づきすら無視した。


「俺、陸玖さんに、ここに居てくれって言わせてみせます」


 決意を伝えながら、賢助はなるほど、と得心した。決して逆らってはいけない存在を認識してしまったのだ。聡治朗が、青空の目に間違いがない、と言っていた意味が、分かってしまった。


 嘉手川 青空は蛇とは比べ物にならない、とんでもなく危険な存在かもしれない、と。――だが、陸玖が「青空と戦え」と言うなら、きっと戦う。そして勝ってみせる。



     10


「げ」

 ロードワークから帰ってきた賢助は思わず声を上げた。


 体力づくりの為にとロードワークを始めてから、嘉手川かてがわ家の建物は少し小さい、と賢助は思うようになっていた。


 車椅子での生活を前提としているので廊下の幅はどこも広く、一般的な住宅と比べると豪邸と称するほかない充分な広さを見て知っているはずなのだが。


 一階はダイニングとキッチン、雪子や通いの家政婦が泊まる部屋。応接室ほか客室も二部屋あり、青空や父母は客室に泊まるらしい。


 二階は陸玖の部屋がメインで、陸玖の護衛である二人――聡治朗と賢助の部屋がある。賢助に与えられた部屋は陸玖の東隣。西側の階段に近いほうが聡治朗の部屋だった。


 他にウォークインクローゼットと陸玖専用の風呂、図書館と言って差し支えない広さと蔵書量の書庫……と、部屋の数を考えてもやはり豪邸であることに間違いはない……のだが。


 小さいと思わせるのは、庭が広すぎるからかもしれない。


 その広大な庭に全く似合わない、白くて丸みのある可愛らしい軽自動車は、賢助を嘉手川家に連れてきた男――賢助の雇用主である青空のものに違いなかった。何せ、この車で賢助はここへ来たのだから、間違うはずがない。


「聞いてねぇんだけど?」


 話しがある、と連絡があったのは三日前。陸玖に、認めさせてみせる、と宣言した日の夜だった。


 あの時、青空はいつ行く、とまでは言わなかった。それで緊張の途切れない日々を過ごしていたが、ついに会わなければいけないと分かると、昨日までの緊張感など緊張のうちに入らないと知る。


 来た道を引き返したくて堪らないが、それすらできないほど脚が震えていた。


「これは、あれだ。久しぶりに走ったから」

 思わず独りごちた。


 賢助は一人で走るのが好きだった。学生の本分は勉学、が口癖だった父の命令で賢助には門限があり、それを守るとなるとチーム競技では仲間に迷惑をかけかねない。そう考えて、個人種目の多い陸上部に入部した。大学でも陸上系のサークルに入って汗を流していたくらい、体を動かすのが好きだった。


 それが就活でメンタルを病んで拒食症になってから、すっかり体力が落ちてしまった。陸玖を抱き上げた時に自分の衰えを痛感し、暇な時間を体力づくりと筋力増強に費やすことにしたのだ。


 とはいえ、先程声にしたことはもちろん嘘だ。


 賢助は青空が怖かった。気分次第で簡単にクビを切りそうな男だから。クビではない、首だ。そう訂正したくなるくらい、恐れている。


 脚の震えは恐怖のせいに違いなかった。それでも――。


「陸玖さんに、いてほしいと言わせてみせるって宣言した」

 賢助は震える脚を両手でバシッと叩き、嘉手川の玄関へと踏み出した。



 青空は陸玖と共に書庫にいた。


 三日前の記憶がまだ鮮明だと言うのに、陸玖は平気で書庫に向かい、下手をすれば何時間も籠っている。


 いつもは本を読んでいるか書き物をしている陸玖だが、今日は青空と向かい合って話していた。


「――だからね、兄さん。間違っても……」

「大丈夫、それを聞いて安心したくらいだから」

「安心って?」

「同年代の友達が陸玖にもできそうだって」


 そう言って陸玖の頭を撫でた青空は、ふと目を賢助へと動かし、やあ、と微笑んだ。


「ただもう無理はしないこと。痛みってすごいストレスなんだから。陸玖の綺麗な顔がシワだらけになるの、僕は見たくないよ」

「う、ん」


 明らかに途惑っている陸玖を意に介さず、青空は賢助を手招きした。


「失礼します」

「さて、聡治朗さんに許可は取っているらしいけど、僕の許可は取ってないね?」

「あの、すみません。体力と筋力をつけないと陸玖さんの役に立てないので。今はトレーニングに時間を割くことが多くなってしまいますが、お許しください」


「いいけど」


 思わずいいんだ、と声に出そうになった。

 あまりにあっけらかんとしている。


 慌てて礼を言いながら頭を下げると、青空が笑った。


「まさか初日に揉めるとは思わなかったな。陸玖は我慢しちゃうし、きみも溜め込むほうだと思ってたから」

「俺が、無神経なことを言ったので、怒らせてしまいました」

「うん、陸玖から聞いた」


「あの、俺、必ず聡治朗さんの代わりを務められるようになりますから、クビにはしないでください」


 二人の会話は聞こえていたが、頼まずにはいられなかった。あの会話が賢助についてだったという証拠もない。


 賢助は深々と頭を下げた。それで自分がジャージ姿のままだったことに気づいたが、今更遅い。目を硬く瞑って無視した。


「しないよ? 頼まれてもしないけど?」

 ほっと安心して顔を上げる賢助に、青空は意地悪をする子供のような笑みを見せた。


「陸玖がクビって言わない限りは」

「はい、あのっ……。気を付けます」

「あの、は禁止」

「は、はい」


 いたずらっぽい微笑みから、ふっと柔和な微笑みになる。


 青空は微笑みだけでも多彩で、しかもコロコロとよく変わる。それを目の当たりにした今、自分の中に広がっているものが緊張だけと気づいた賢助は、笑顔が癒しにならないこともあるのだと知った。


「陸玖も、自己卑下しないように」

「……」

「何かあったら賢助くんに話すこと」

「……賢助に?」


 言外に含まれる、兄さんにじゃなくて、という途惑いに寄り添うように青空は優しく頷いた。


「僕が彼に期待していることは色々あるけど、一番は陸玖の話し相手になってくれることだからね」

「聡治朗さんも雪子さんもいるのに」

「二人に言えてないことがいっぱいあるでしょ」

「それは、そうだけど」


「賢助くんにはある程度は僕に相談しなくていいってことにしてあげる。と言うより、報告しろと命令されてても、記憶しきれなくて賢助くんが困るくらい、何でも話せばいいんだよ」


 そう言って青空は賢助を見た。


「そもそも、全て報告しなさいなんて仕事は与えてないからね。聡治朗さんにも雪子さんにも」

 青空の視線につられてこちらを見た陸玖に、賢助は頷いた。


「なんなら、仕事内容は一個も教えられずにここへ連れて来られたので困ってました」

「護衛と介助と話し相手」

 青空が間髪を入れずに言った。


 言い放った本人は三単語だけで伝わると信じ切っているような、自信に満ち溢れた顔をしているが、これは賢助に味方する情報でしかない。


 陸玖がちょっと青空を見つめて、伝わっていないなんて信じられない、と言わんばかりの不満顔に苦笑している。同じく呆れて苦笑をするしかなかった賢助に視線を移し、首を横に小さく振った。そんな陸玖が、少し可愛く見えた。



     11


「泳ぎ方は誰に教わったんですか?」


 賢助の問いを、陸玖はプールに体を浮かべて天井を見ながら聞いた。天井は高く、いくつもの観葉植物がぶら下がっている。あれらは全てプラスチックで、生きている植物ではない。そのことを三日前、ここへ来たばかりだった賢助に教えたことをぼんやりと思い出していた。


「自己流」


 陸玖は答えて、体をひっくり返すと視界の隅に、プールサイドでいつものように見守ってくれている聡治朗が映る。それに安心して、平泳ぎに近い形でプールの中央へと向かった。


 泳ぎ方について考えたことはなかった。陸玖が外に触れるのは、いつもテレビやパソコンなどを介している。それでなんとなく泳いでいる人の姿を観たことはあるが、真似しよう取り入れよう、と熱心に観たことはなかった。ただ――。


「歩き方は家族に教えてもらった」

「……そういえば、このプール足、着きますね」

「うん」


 と陸玖は足を着いて立って見せた。水深は約一メートルなので胸部は水上に晒される。毎日泳いでいるはずなのに骨が浮いて見えるほど細くて頼りない体だ。対して賢助は筋肉のついた男らしい体をしていた。服の上からでも筋肉質だとわかる聡治朗と比べてしまえば細いが。


 その賢助はここに来てから、もう何度も見ているはずなのに、平然と立っている陸玖を前に今更ぎょっとしている。


 大丈夫なんですか、と水をかき分けるようにして近づいてくるが、陸玖は泳いで逃げた。


「水の中は平気なんだ、不思議なことに」

「それは、風呂も?」

「風呂も」


 風呂の介助は――トイレもだが――まだ聡治朗に任せている。

 恥ずかしさのせいだが、もうそろそろ覚悟を決めなければいけない。先延ばしにすればするだけハードルが上がっていくことに気づいてしまったので。


 ふと陸玖は、

(何が、恥ずかしかった?)

 と自分に問いかけ、賢助を見た。


 彼は不思議そうな顔に不安の色も浮かべて、こちらを見ている。その目には特に何も感じないが。


 それでも何かが恥ずかしくて、陸玖は目を逸らした。


 恥ずかしいだけ、ではないのも気掛かりだった。


 最近、ふとした時に体に違和感がある。明日は定期健診で掛かりつけの医者が来る予定だから、相談しなければ、と陸玖は心のメモ帳に書き留めた。


 同時に青空に対して感謝の言葉もメモした。


 兄の一声で賢助のスケジュールは書き換えられた。今日は丸一日休みにして、好きに過ごしていいと。それで賢助が、陸玖の日課である水泳の時間に一緒に泳ぎたいと言ってくれたのだ。広いプールを独りで泳ぐことが当たり前過ぎて、優越感に浸ったことはない。が、寂しさだけは、いつもどこかに感じていたから。


 風呂も、と頷いた陸玖に賢助は首を捻っていた。


 ここへ彼が雇われて来た初日、陸玖は記憶の限り初めて怒った。今まで溜めに溜め込んでいた不満や怒りが――なにより悲しみが爆発してしまった。


 怒りに任せて自傷行為めいたものを賢助に見せつけてしまったが、あれを見た賢助は陸玖を悩ます症状の酷烈さを理解してくれたらしい。

 だからこそ、水の中なら平気だと言うのが信じられないのだろう。


「海外に似た症状の人が何人かいるらしい。それでついた名前は、マーメイドシンドローム」

「マーメイド?」


「日本語だとなぜか、人魚姫症候群」

「人魚、姫……?」

 賢助が再び首を捻った。が童話を思い出したのか、なるほど? と呟いた。


「元の脚を人間の脚に変えてもらった人魚姫が、その脚で歩こうとすると酷く痛んだ」

「俺は元からこの脚だけどな」


「また、不思議な病気ですね……」

「病気じゃない。……精神的なものでもないと思う。赤ん坊のころから足に触れられるのを嫌がってたらしいからな。ちなみに骨にも皮膚にも異常はないし、治療方法もない」


 陸玖は言って、自分の足を睨む。プールの中の足は歪んでよく見えなかった。


「……怖いのは、痛み止めはもちろん、麻酔すら効かないこと」

 え、と賢助が言ったので陸玖は我に返り、慌てて聡治朗を見た。


 聡治朗が首を振っている。

 これ以上は言ってはいけない、と厳しい目をして。


 陸玖は賢助を見た。視線がぶつかる。ドキリと心臓が嫌な音をたてたが、聡治朗のほうを見ていなかったことには安堵した。


「嫌な病気ですね」


 賢助が自分の痛みのように顔を歪めるので、陸玖は彼を見つめたまま歩き出していた。傍についていてやらなければいけないような気がしたのだ。


 車椅子で見上げる時よりも顔が近くに見えるが、それでも賢助の目は陸玖のそれよりずっと上にあるように感じる。陸玖の身長は正確に測るのが難しかったが、その曖昧さを抜きにしても平均よりずっと小さい。対して賢助は平均より大きかった。


「そんなことより、朝、走りに行ってただろ? もう疲れたんじゃないのか?」

「大丈夫ですよ、浮かんでるだけなんで」

「そうか?」

「陸玖さんが足を挫いたら駆けつけられるくらいには元気です」


 賢助の微笑みに陸玖はほっとした。彼の笑みはどこか既視感のあって、安心する。


「抱き上げる練習でもするか」


 言いながら手を伸ばしていた自分に内心ビックリするが、上げた手をすぐに下ろすのも恥ずかしくて、子供の悪戯のように笑って見せた。上手くできているかはわからないが、表情豊かな青空が自分の兄なのだから出来ているはずだ、という謎の自信があった。


 どちらにせよ賢助は途惑うだろう。と想像していたが、陸玖の予想とは異なり賢助は、では、と両手を広げて一歩近づいてきた。


「冗談だったんだけど?」

「俺にとっては必要な練習の機会を頂けたんですから。水の中なら落としても安全だろうし」

「落とすのが前提なのは嫌だな」

 文句を言いつつ陸玖は賢助の肩に手を回した。


 皮膚が触れ合う。


 そんないつもの何でもない感触が妙に意識をつついて、心臓がいつもより大きな音を立てている気がした。青空の肌とも聡治朗の肌とも違う、賢助の肌の感触――。


 服を着ている時とは触れ合う面積があまりに違い過ぎて、これ以上はダメだと思うのに、離れがたくもある。


「そういうのは、友達はしないと思うぞ」

 と青空の声がして、陸玖は咄嗟に賢助を突っぱねていた。


 賢助が、いて、と小さく抗議したが、それどころではない。あとで謝らなければ、と思いつつも、それ以上に青空には見られたくないものを見られてしまった恥ずかしさが大きい。


 青空には? そうだ、聡治朗だってずっとそこで、こちらを見ていたのに。


 いつから失念していたのかわからない。そのことがまた陸玖を混乱させる。更には、

「友達である前に介護士ですから、見習いの!」

 と言った賢助の声が棘のように思えて、ちくちくと痛かった。


 どこが痛いのかは、よくわからないが。とにかく先生に相談しなければ、と心のメモ帳を更新した。



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