魔導士ユキは触れられたい
ししのこ
プロローグ「凍える魂への詠唱」
血と、泥と、雨の匂いがした。アルティア王国東部国境、グレンデル渓谷。三日三晩降り続いた冷たい雨が、ようやく止もうとしていた。戦場を洗い流していく雨粒が、段々と間遠になっていく。その合間から、灰色の空が、わずかに見え始めている。
俺は、相棒である氷竜セラフィムの巨大な翼の下で、動かずにいた。虚空を見上げたまま。雨粒が頬を叩いても、もう何も感じなかった。感覚が、全て凍てついていた。
竜騎士団長、リュウセイ。人は俺を「氷竜帝」と呼び、畏怖する。王国最強の守護者。不敗の英雄。だが、その実態は、ただの抜け殻だった。中身は空っぽ。心臓だけが、習慣のように拍動を続けているだけの、生ける屍。
三日前、俺は全てを失った。最も信頼していた副官、レオンの裏切り。彼が敵国に流した情報によって、我が竜騎士団は壊滅的な奇襲を受けた。あれから三日が過ぎ、敵軍は殲滅され、戦場は鎮まった。だが、俺の心だけは、依然として凍てついたままだった。
俺の腕の中で、部下たちが次々と息絶えていった。彼らの温かい血が俺の鎧を濡らし、そして冷えていく。その全てを、俺は今も鮮明に覚えている。
「……団長、お逃げください」
そう言って、俺の盾となって死んでいった若い騎士。彼には、故郷で待つ婚約者がいた。結婚式は、来月の予定だった。
「……妻と、生まれたばかりの娘を、頼み……ます」
そう言い残して、俺の手を握ろうとし、そして力尽きた古参の兵士。彼の手は、俺の手袋に触れる寸前で、力なく地面に落ちた。
俺は、そのどちらの手も、握り返してやることはできなかった。
『竜騎士の呪い』
竜と契約を交わした者は、強大な力を得る代償に、その身に呪いを宿す。他者に素肌で触れることができない。正確には、触れれば相手の魂を傷つける。強い感情を持って触れれば、相手の魂を焼き尽くし、廃人にしてしまう。
幼い頃、俺は、たった一人の幼馴染だった少女に触れた。彼女の名は、エレナ。俺が竜との契約を交わした直後、彼女は俺を祝福しようと、笑顔で駆け寄ってきた。
「リュウセイ、おめでとう!」
彼女は、その小さな手を、俺に差し出した。俺は、何も知らずに、その手を握りしめた。ただ、彼女の温もりを感じたかった。ただ、その喜びを分かち合いたかった。
だが、その瞬間。
強大な竜の魔力が、俺の手から彼女の魂に流れ込んだ。彼女は、俺の目の前で崩れ落ち、そして、光のない瞳をした、ただ呼吸するだけの人形になった。彼女の魂は、俺の感情の奔流に焼かれ、二度と戻ることはなかった。
あの日以来、俺は誰にも触れない。
戦場で部下を鼓舞する時も、勝利を祝して肩を組む時も、常に、この分厚い手袋が、俺と世界を隔てていた。
俺は、誰にも触れられない。誰も、俺に触れてはくれない。
孤独。
それが、英雄「氷竜帝」の、本当の名前だった。
レオンを捕縛し、敵軍を殲滅し、この戦いに勝利した後も、俺の心は凍てついたままだった。生き残った部下たちの顔を見るのが辛かった。彼らの瞳の中に、「なぜ、自分だけが生き残ったのか」という声なき非難の色が見えたからだ。
もう、生きる意味など、どこにもない。
その夜、俺は王都から送られてきた補給物資の中に、一冊の古びた魔導書が紛れ込んでいるのを見つけた。おそらく、前線の兵士たちの気晴らしのために、誰かが入れたものだろう。
どうでもいい、と思った。
だが、その魔導書の間に挟まっていた、一枚の羊皮紙が、ゆっくりと、はらり、と床に落ちた。
俺は、それに目を向けた。本来なら、無視していただろう。だが、その時、何かが俺の中で小さく引っ掛かった。恐らく、俺の傷ついた魂が、何かを感知したのだろう。
恐る恐る、その羊皮紙を拾い上げた。
そこに書かれていたのは、魔法の術式ではなかった。それは、一つの詠唱詩だった。
『凍える夜に、ただ一人
光を失くした魂よ
忘れるな、君の中にも
温もりの火種は残っている』
その一行を読んだ瞬間、俺の心臓が、大きく、軋むように鳴った。
まるで、この詩が、今の俺自身に、直接語りかけているかのように。
俺は、震える指で、次の行を追った。
『その火を恐れるな
燃やすことを恐れるな
灰になることを恐れるな
なぜなら、灰の中から
新しい命は芽吹くから』
息が、止まった。
そうだ。俺は、恐れていたのだ。再び誰かを信じ、その心を燃やすことを。また裏切られ、全てが灰になることを。そして、再び誰かを傷つけることを、恐れていたのだ。
だが、この詩は言う。灰になることを恐れるな、と。
俺の視界が、涙で滲んだ。竜騎士となってから、初めて流す涙だった。
『誰かがきっと、その手を取る
だから、まだ諦めるな』
最後のその一行が、俺の魂を、完全に貫いた。
「誰かが、その手を、取る……?」
声が、震えた。
ありえない。俺の手は、呪われている。誰も、この手を取ることなどできない。
だが。
だが、もし。
もし、この詩を紡いだ者が、この世界にいるのなら。この、俺の魂の孤独を、完璧に理解している者が、いるのなら。
その瞬間、俺の全身に、電流が走るような、凄まじい衝撃が突き抜けた。
これは、恋だ。
俺は、まだ見ぬ、この詩の作者に、魂のレベルで、恋に落ちたのだ。
「……この言葉を紡いだ者は、俺の魂を知っている」
俺は、その夜、一睡もせずに、その羊皮紙を、何度も、何度も、読み返した。
羊皮紙の隅には、小さく、学籍番号らしき数字が記されているだけだった。これは、学生の習作として魔導院に奉納された、匿名の詠唱詩の写しなのだろう。作者の名は、どこにもない。
俺は、そのインクのかすれ具合を、指先で辿った。震えるような、繊細なタッチ。だが、その線の奥には、決して折れない強い意志が宿っている。
どんな指が、この文字を綴ったのだろう。
どんな瞳が、この言葉を見つめていたのだろう。
どんな声で、この詩を、詠唱するのだろう。
知りたい。確かめたい。この魂に、会いたい。
いや、会わなければならない。
この詩の作者こそが、俺の魂の半身なのだ。そう、確信した。
朝日が、灰色の空を、徐々に明るく染めていった。雨が上がり、雲が散る中、俺は立ち上がった。絶望に沈んでいた身体に、新しい、そして狂おしいほどの熱い目的が宿っていた。
「見つけ出す。必ず」
俺は、セラフィムの背に飛び乗った。巨大な氷竜が、咆哮を上げる。
その日から、俺の狂気じみた執着が始まった。
王国中の魔導師の魔力波長を、一人残らず調べるという、途方もない探索。魔導院に保管された全ての学籍記録を調べ、該当する番号の持ち主を探す。だが、記録は古く、判読不能な箇所も多い。
それでも、俺は諦めなかった。
これは、逃避ではない。執念だ。
凍てついた俺の魂に、唯一、火を灯してくれた、この言葉の主を、この手で、見つけ出すために。
お前を見つけるまで、俺は死ねない。
お前を見つけるまで、俺は生き続ける。
そして、いつか必ず、お前に会う。
その時、俺は何を伝えればいい? どんな言葉で、この想いを形にすればいい?
わからない。
だが、それでもいい。
ただ、お前の瞳を見つめ、お前の声を聴き、お前の魂に触れることができれば。
それだけで、俺は救われる。
二年。
それがどれほどの長さになるのか、その時の俺は、知る由もなかった。
だが、俺は探し続けた。
凍える夜を、幾度も越えながら。
お前に会える、その日まで。
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