マッチとライター

🌙十六夜勇之助🌕

マッチとライター





男はマッチ、女はライターという言葉がある。

 男の心は何度でも火をつける事が出来る『ライター』に対し、女の心は一度消えたら付かなくなる『マッチ』であると。


 そういう言葉があると言うことは、この男も知っていたが、言葉の意味については理解などしていなかった。

 彼の名前は飯田俊成。この春、名古屋から東京に転勤してきた男である。

 俊成は居酒屋で一人ただ、ポツンと孤立してお酒を飲んでいた。いつもなら、仕事終わりこの居酒屋に立ち寄りいつも飲んでいるお酒とおつまみを嗜む事を生き甲斐としていたが、この時だけは違った。原因は五分ほど前に遡る。



 カウンター席でいつも通り、生ビールを注文し、キンキンに冷えたグラスに注がれたビールが運ばれる。ネクタイを少し緩め、ワイシャツを腕まくりした俊成は、待ってましたと言わんばかりに、これを流し込む。疲れ切った体に、アルコールが染み渡るのを感じる。

 すると、自分の後ろにあるテーブル席から話し声が聞こえてきた。

「先輩、前に話していた元カノの話、覚えてますか?俺は愛していたし、高価なプレゼントも、渡してやったのに別れを告げるとかありえないですよね?俺はこんなにも愛しているのに。やってられないですわ。なんで女ってこうもわがままなんですかね」

 話を聞いている先輩と呼ばれている人物は話終わるのをただ待っていた。

 一方で愚痴を吐いている人物は、口ぶりからして二十代前半だろうか。壁にジャケットとネクタイがかかっている様子からして、自分と同じく会社員だろうと俊成は思っていた。

「第一、俺が一生懸命働いたお金を使ってプレゼント用意してやっているんだからそれ相応の感謝とかしてほしいっすわ。なのに『ありがとう』の一言だけっすよ?ありえなくないですか?」

 気づいたら俊成もその男の話に耳を傾けていた。自分にも思い当たる節があるからだ。

「そして最終的には『もう無理だから別れよう』って言われたんですよ?だったら今まで俺があげて来た時間とかプレゼント無駄じゃんって思いましたよ」

「……そうか」

 重い口を開いた先輩と呼ばれた人物は、返事をした後、グラスに注がれたビールを一口飲んだ。

「ありえなくないですか?俺はこんなにも尽くしているのに突然そんな事を言うなんて」

 男は不貞腐れていた。そのセリフを背中で聞いていた俊成は、軽く頷いていた。しかし、男の言葉をただじっと聞いていた向かいの男は少し間をあけて口を開いた。

「───お前さ、一度火を消したマッチが、もう一度火を起こせると思うか?」

 その言葉は、再びジョッキを口につけようとしていた俊成の手を止めるには、十分すぎた言葉だった。



 *


 

 そこから更に時を戻すこと三年前。俊成はとある人物と交際していた。名前は豊川朱美。年齢は二十三。職業はデザイナーをしている。

 俊成とは知人の紹介で知り合い、交際に発展した。そして、この日もそれぞれの仕事を終わられた後、二人で会う約束をしていた。

「仕事お疲れ様。待った?」

「大丈夫だよ。朱美もお疲れ様」

 二人はたわいもない会話をした後、電車で隣町へと向かった。

「朱美は今何のデザインをしているの?」

「今はイベント広告のチラシのデザインをしているよ。それがまた大変でね。変更点が多いの何の。言われた通りに描いたのに『やり直してくれ』とか言われちゃってさ」

 朱美はため息を吐いた。その様子を見た俊成は、今の朱美がどれだけ大変な作業をしているのかなんとなく伝わった。

「俺はデザインのこととかはよく分からないけど、絵が描けるのはすごいと思うよ。俺、絵とか苦手だから」

 俊成は笑って答えた。

「それで言ったら俊成だって営業マンなの凄いよ。私は直ぐに顔に出るから、営業とか向いてないと思う」

「まぁ、それぞれ得意なものがあるってことで。ところで今日は何を買いに行くの?」

「うん、少し肌寒くなってきたからね。上に羽織るカーディガンを買いに行こうかと思って」

「確かに少し肌寒くなってきたもんね。朱美に似合うカーディガンが見つかるといいね」


 ここまでは至って普通の、どこにでもいるカップルの会話である。

 では何故、この二人が破局をすることになってしまったのか、そこから更に時間を進めること一年後。仕事もある程度落ち着いてきて、俊成は朱美と同棲をすることになった。

 最初のうちは俊成も経験が浅いなりにも頑張っていた。しかし、仕事が多忙になりつつなってきたある日、家のことを殆ど朱美に任せてしまう事が増えてきてしまった。

「ごめん。何もかもやってもらって」

「ううん。いいよ。私が好きでやっている事だし、それに一人暮らし歴長いから。俊成は気にせず仕事に集中してね」

「ありがとう」

 俊成は朱美にお礼を言った。

「でももし本当に辛かったら遠慮なく言ってね。俺も出来ないけど出来るようになりたいから」

 俊成は朱美にそう告げた。確かに、家の事を殆どやってもらっていて、罪悪感を感じないと答えたら嘘になる。しかし、俊成は無意識の内に朱美の発言を鵜呑みにしてしまっていた。

(俺って彼女思いだよな)

 的外れな思考を浮かべた俊成は、その考えが違うことに気付かないまま、優越感に浸っていた。

 そんなある日、職場で重要な仕事を任せられる事になった俊成は、帰宅後、朱美にその事を報告しようとしていた。

「朱美、大きな仕事任せられるようになったよ!」

 玄関で靴を脱ぎ、急いでリビングへと向かった俊成。朱美はまるで自分のことのように大きく喜んだ。

「凄いよ!おめでとう!」

「でも、俺あまり家に帰れないかもしれないけど、大丈夫?」

「…大丈夫だよ。仕事頑張ってね」

 この時、朱美の笑顔の奥にあった悲しみの感情を、俊成は気づく事が出来なかった。

 そして、一ヶ月後。仕事で家を空けることが多くなってしまった俊成は、三日振りに帰宅をしていた。

「ただいま」

「おかえり。ご飯どうする?」

「ごめん、食べてきた」

「そう……」

 朱美は少し落ち込んだ。三日振りの俊成の帰宅。どうせならと思い普段は作らない手の込んだ料理などを用意していたのだが、帰宅早々にその願望は見事に打ち砕かれてしまった。

 俊成はリビングに着くと、ソファに腰を掛け、ネクタイを緩め、脱力し切っていた。

「あ〜。疲れた〜」

「お仕事お疲れ様。まだまだ続きそう?」

「続くと思うよ。けど、今の状態でやっと三分の一といったところだと思う」

「そうなんだ。だとしたらまた帰ってくるの数日後とかになる?」

「そうだね。次は一週間後とかかな。仕事と並行しながら出張もこなさないといけないから」

「そうなんだね」

「その点、朱美はいいよな〜、紙とペンがあればどこでも仕事になるんだから」

 俊成の冗談なのか、冗談ではないのか分からない発言に、朱美は戸惑っていた。

「そんな事ないよ。今はデジタルで描いているから、電源とか色々ないと出来ないよ」

 朱美は少し反論をした。いつもはそんな事をしない彼女だが、この時ばかりは自身の誇りに思っている仕事を貶された事に思う事があったのだろう。そして慣れないことをしてしまったせいか、少し手が震えていた。

「でも家から出なくていいから羨ましいよ。あまり、疲れなさそうだな」

 俊成は見下したような発言をした。

「………」

 俊成の発言に朱美は黙り込んでしまった。普通の人なら、怒りなどの感情が湧いてくるだろうが、この時の朱美の感情は、『きっと仕事で疲れているんだろう。だからあまり下手に刺激しない方がいい』と思っていた。

「明日は休みなんだよね…?」

「そうだよ。どうかしたの?」

「明日、久しぶりにどこか出かけない?最近あまり出かけれてないからさ」

「あー。そうだな。出かけたいけど、俺疲れているから家で休みたいかも。出かけるなら朱美一人で出かければ?」

 俊成は欠伸をしながら返事をした。

「じゃあ、家にいるなら、家の掃除とか手伝ってくれない?」

「えー?せっかくの休みなんだから休ましてよ」

「そうはいっても、私たち二人で住んでいるんだから。俊成も手伝ってくれると助かるかな」

 朱美の発言に対し、俊成は少々苛つきを覚えていた。自分は外で仕事をしているのに、どうして休みの日まで、働かないといけないのかと。

「さっきも言ったけど、朱美はずっと家にいるんだから、家の事は朱美がやってくれないかな?俺は日中外にいるんだよ?時間で言ったら朱美の方がここにいる時間が長いんだから」

「で、でも掃除とか洗濯とか、一人でやるには限界があるんだよ?私だって仕事しながら家事とかやっているんだから」

 朱美は強めに反抗した。その位、彼女の心は納得がいっていないようだ。

「とにかく、俺は疲れているんだ。朱美なんて絵を描くだけの仕事だろ?俺は常に会社のためを思って働いているんだ。だから疲労が違う訳。わかったら俺のワイシャツとか洗濯宜しく。俺はもう寝る」

「あ、ちょっと俊成!」

 朱美の呼びかけに答える事なく、俊成は寝室へと向かった。

「……変わっちゃったな。俊成。昔は優しかったのに」

 朱美はそう呟いた。この日を境に、朱美の心には、本人も気付いていない程の大きな溝が出来てしまった。


 *


 三週間後、俊成の出張がひと段落つき、前ほど家を空ける事がなくなってきた。

「ただいま」

「出張お疲れ様。もう行かなくてもいいの?」

「うん。昨日で出張は終わったよ。けど、まだ別の仕事があるから家を空けることには変わりないかな」

「そうなんだね。頑張ってね」

 朱美はにこやかに返答した。数週間前に俊成と少しばかり口論になったばかりだと言うのに、その時の感情はすっかり薄れていた。

「俺も家ばかり空けて申し訳ない。それと、いくら疲れていたとは言えど、朱美の仕事を見下すような発言したのは、申し訳ない」

 俊成は朱美に頭を下げた。

 この行動に少しばかり困惑していたが、相手の謝罪は素直に受け取ろうと思い、朱美もその言葉を素直に受け入れた。

「いいよ。全然気にしてないよ。俊成も仕事で疲れていたんだし、仕方ないよ」

 俊成はそう言われ、頭を上げた。

「また俺が気に触るような事を言った時は、教えて欲しい。俺も直して行きたいから」

「気にしなくてもいいよ。私は大丈夫だから」

 朱美にそう告げられて、俊成も少しだけ笑顔になった。


 しかし、その二週間後。

「朱美、今度の休みって何か予定入れている?」

「入ってないよ?どこか出かけるの?」

「うん。会社の接待で俺いないから」

「───そうなんだね。分かった」

 朱美は『仕事だから仕方ないよね』と自分の心に言い聞かせていたが、その気持ちの裏には、『寂しい』と言う感情も見え隠れしていた。

 そして迎えた次の休日、俊成は朝から家を出て行った。笑顔で送り出した朱美だが、扉が閉じた後、少しばかり手が震えてきた。

 やっぱり人はそう簡単に変わらないのだろうか。そんな事を思ってしまったが、直ぐに思考を切り替えた。

「……ダメダメ。私は仕事しなきゃ」

 朱美は泣きそうな目を擦り、自分の仕事をすべく、部屋へと向かっていった。先ほどまでは簡単に変わらないと思っていたのに、以前まで優しかったんだから、月日が経てば元に戻るだろうと思いながら…。



 翌日、いつも通りに家事をこなしている朱美の所に、俊成が歩み寄ってきた。

「おはよう、朱美、いきなりで申し訳ないんだけど、接待で金使ったから少し貸してくれない?」

「お金?いくら?」

「とりあえず五万。思った以上に金使いすぎたからさ」

「五万円って、少しって額じゃないと思うけど…?」

 朱美は思わず反論した。精々高くても一万円ぐらいだと思っていたから。

「そう?でも接待だから、しょうがないじゃん?これも仕事なんだから」

 俊成の発言に朱美は少々違和感を覚えた。前にもこうしてお金を貸した事がある。しかし、その後俊成が返済してきた事はない。問い詰めた事もあったが、いつしか借りたことすら忘れていた。結局、そのお金は返ってこなかった。だから、今後は貸さないつもりでいた。

「でも、いくら仕事だからと言っても流石にそんな額は貸せないよ。恋人であっても」

「ったくよ。朱美は正社員で働いたことないから分からないかもしれないけど、俺みたいな人間は優秀なんだから、色んな人とのやりとりが必要になるわけ。だからこれは必要経費なの。わかる?」

「でも……」

 渋る朱美に俊成はため息をついた。

「もういいよ。期待した俺が悪かったから」

 そう言い残して、俊成はスーツに着替えて出勤して行った。

 部屋にただ一人残された朱美は、膝から崩れ落ちてしまった。

 そして、頬を一粒の涙が伝った。

「おとなしく渡せばよかったのかな…」


 朱美の心の中で、何かが崩れる音がした。


 そして、遂に二人の間に入りかけていた亀裂が、どうすることも出来ないくらいに、大きくなる日が来てしまった。

 それは、一週間後の休日だった。

「朱美、なんか最近家事雑になってきてない?前までこんなに散らかってなかったと思うし、なんだか埃っぽい感じがするんだよね」

「ごめん、最近私の仕事も、色々と依頼が来ていて中々手が回らないんだよね」

 昼前に起床してきた俊成に開口一番にそう言われてしまった。

 朱美は少し笑って答えた。しかし、心は笑ってなどいなかった。自分の行った返答に対して、俊成がどう言った回答をするのかビクビクしていたからだった。

「前にも言ってなかった?仕事とは言えど、朱美はずっと家にいるんだから、俺よりは疲れないだろ?」

「私だって、前にもお願いしたじゃん、二人で住んでいる家なんだから二人でやろうよ」

 朱美は勢いに任せて言葉を発した。それが、焼け石に水であると分かっていても。

「…どうして俺までやらないといけなんだよ」

 俊成は不満そうに呟いた。

「だって、私たちの家だよ?仕事だってそうじゃん。みんなで色んな事をやりながら、一つのことを成し遂げていくんだよね?それと同じで家の事なんだから二人でやっていくのが普通じゃないの?」

 その言葉は、俊成を怒らせるには、十分すぎる言葉だった。

「お前如きが一丁前に仕事の事を語るなよ!」

 俊成は大きな声を上げた。それに思わず朱美の体がビクりとした。

「俊成…?」

「お前には分からないだろ?俺がどれだけ頑張っているのか!」

「俊成落ち着いて?私はただ──!」

「うるせぇ!大体お前は気楽でいいよな?ずっと家にいるんだから」

「ちょっと待って、前から思っていたけど、いくらなんでもそんな言い方ないんじゃない?」

 朱美は更に言葉を発しようとしたが、怒りに満ちた俊成によって、発することが出来なかった。

「お前だって、どうして俺の気持ちを理解してくれないんだ?」

 俊成が朱美に詰め寄る。

「さっきから言っているけど、私はただ協力して欲しいだけで」

 朱美は必死に弁明したが、俊成は聞く耳を持たなかった。

「もういい。お前とはこれっきりだ」

「……え?」

「今日限りで別れよう。荷物をまとめて出て行ってくれ」

 朱美の心が一瞬にして締め付けられる感覚がした。そして、その締め付けられているのもに抗うような形で、心臓の音が速くなっているのを感じた。

「待って、いくらなんでもそこまでしなくても」

 朱美は俊成の元に歩み寄ろうとしていたが、俊成が更に大声を上げた。

「もういい、何も聞きたくない。今すぐ出て行ってくれ」

 朱美はその言葉で泣いてしまった。

「待ってよ、それはやだよ。お願いだよ俊成。考え直してよ!」

 朱美は今まで俊成から受けてきた扱いを忘れたわけではない。ましてや、それが正しいことではないことは、勿論理解している。

 だが、どうしてそれほどの扱いを受けているのに、破局を受け入れないのか、それは、俊成が変わってくれるかもしれないと、心の何処かでそう思っていたからである。そんな思いとは裏腹に、俊成は、朱美の別れたくない。と泣きながら懇願している様子を目にしているが、その願いを、虚しくも打ち砕いた。

「そんなことで泣くなよ!今すぐ出て行け!」

 今まで見たことのない形相をしている俊成を見て、朱美の心は完全に壊れてしまった。

「…………」

 思考が完全に止まってしまい、正常な判断が出来なくなっていたのがわかる。先ほどまで泣きながら懇願していたのに、今じゃ大人しく俊成の言う事に従っている。

 そしてそのまま、朱美は自身の旅行カバンに荷物を纏めて、鍵を置いて出ていった。

「…はぁ」

 部屋にただ一人残った俊成は、ぼんやりと外を眺めていた。そして下に目線を送ると、重い足取りで、駅の方面へと向かう朱美を見つけた。

「ちっ……」

 俊成は軽く舌打ちをして、そのままベランダに出た。

「……もうやめるつもりだったんだけどな」

 そう言って、俊成はベランダに置いてあったタバコを取り出し、火をつけた。

 口から出る煙が、宙を舞う中、俊成と朱美の距離は、お互いが目視で確認できない距離になっていた。

 こうして、俊成と朱美は、破局してしまった。


 *


 そして、俊成が朱美と破局してから一年が経過した。俊成自身に何か変化があるとするならば、会社で昇進した事と、もう一つは…。

「ごめん凛、ちょっと遅れた」

「大丈夫だよ、時間ぴったりだよ」

 俊成は朱美と破局してから、新しい恋人を作っていた。

 名前は『川井凛』。俊成とは街コンで知り合った。年齢は俊成の五つ下の二十一歳。金髪のショートヘアで、個性的な服装を身に纏っている。

 そしてこの日は、各々が仕事を済ましてきた後、会うことになっていた。

「ねぇ俊成君。私欲しい冬服があるんだよね〜」

「冬服?この前買ってあげたのに?」

 季節は冬に差し掛かろうとしていた。冬本番に着るための服を先日俊成は凛にプレゼントしていた。しかし、凛は新たに服が欲しいと懇願していた。

「この前のやつ一着じゃ物足りないよ。私は女の子なんだから色々持ってないとダメなの」

 凛はそう言って俊成の前に出た。

「だから新しい服もう一着欲しいな。それがダメなら、バックでもいいからさ」

 凛は俊成におねだりしてきた。俊成自身も、彼女がまだ二十一歳だから、安定した給料をもらえてないからだろう。と思っていたが、いくらなんでも、短期間で物をねだりすぎだとは思っていた。

「買ってあげたいのは山々だけど、いくらなんでもそんなにお金持ってないよ」

 俊成は断った。実際凛と交際してから金銭的に余裕がなくなってきたのは事実。彼の給料の生活費は、殆ど凛へ消えていた。

「たまにの記念日とかに買ってあげるから」

「俊成君は私が可愛くなくてもいいの?」

「え?」

「可愛くなくてもいいからそんなこと言うんだね」

 凛はそっぽを向いた。

「ちょっと待ってよ。どうしてそうなるんだよ」

 慌てた俊成が機嫌を直そうとするが、焼け石に水状態。

「だって、可愛くなくてもいいから、私に何も買ってくれないんだよね?」

「いや、そうじゃ──」

「もういいよ。そんな人だと思わなかったよ」

 凛は機嫌を悪くした。こうなると収集が付かなくなる。そう思った俊成は、遂に折れた。

「……分かったよ。但し、服だけだからな」

「本当⁉︎嬉しい!俊成君大好き!」

 先ほどまで機嫌が悪かった凛が、一瞬にして上機嫌になった。

 こうして、俊成の所持金は着々と減って行っていた。

 そんな時、無意識のうちに頭に浮かんだ人物がいた。

(…なんで、朱美が出てくるんだ)

 ここ数日の俊成は、凛の我儘を聞く度に、朱美のことが脳裏に浮かぶようになっていた。その理由は正直彼自身も、全く浮かんでいなかった。

(まぁ、気のせいだろう)

 この時の俊成は、特に気にしてなどいなかった。しかし、浮かんできた記憶の数々が、後に大きな影響を与えることになるとは、思いもよらなかった。



「ほら、これで満足?」

「ありがとう俊成君!大事に着るね!」

 俊成から受け取った凛は、まるでおもちゃを買い与えてもらった子供の様に喜んでいた。俊成自身も、凛の嬉しそうな表情を見ると、少々無理をした甲斐があったのかもしれないと、一時的に思っていた。

(前買ったやつより随分高かったな……)

「今日の夜ご飯どうする?どこかで食べていく?」

「ごめん!私この後予定あるんだよね。それじゃあね!」

 そう言って、凛は足早に立ち去っていった。

「……一人か」

 俊成はため息をついて、夕飯をどうするか悩んでいた。家に帰っても食材が常備されているわけではないし、かといって外食で済ませる訳にもいかなかった。先ほど、凛に服を購入したから、所持金にあまり余裕は無かった。

「仕方ない…」

 俊成がそう呟き、向かった先は銀行だった。俊成は貯金用の通帳とカードを取り出し、一万円だけを引き下ろした。

 銀行を出ると、先ほど下ろした一万円札を財布に入れて、夕飯は外食で済ませることに決めた。凛と交際する前に、よく行っていた定食屋があるため、俊成はそこに向かうことにした。


 *


 定食屋で食事を済ませ、自宅へと足を運んでいる最中、一組のカップルとすれ違った。

「今日はありがとうね。今度私が何かお礼に送るよ」

「いいよそんなの、気にしないで。なんだか申し訳ないよ」

 何気ない会話だが、俊成はその会話が頭から離れなかった。

「普通のカップルは、そうだよな……」

 俊成はそのカップルと、自分と凛の関係を比べていた。

 デートにかかる費用は全て俊成が持ち、記念日のプレゼントは一度も貰った事がない。あるのは精々『いつもありがとう。これからもよろしくね』といった言葉のみ。別に俊成自身も、何かを求めている訳ではない。ただ、恋人である以上、お互いが対等であるべきだと考えていた。しかし、その考えを浮かべた途端、またしても朱美の事が頭に浮かんだ。

「…………」

 俊成は一度立ち止まり、道の端へとずれた。

(朱美は今、何しているんだろう)

 俊成はスマホを取り出し、朱美の連絡先を見つけ、かけようとしたが、その指が一瞬止まった。自分には、凛と言う恋人がいる。朱美とは一年前まで交際していたが、今はなんの関係もない人物。そんな人物に今更連絡を取って何がしたいんだろう。そう思ったが、俊成は画面上の発信ボタンを押していた。

「あっ…」

 一瞬慌ててスマホを落としそうになったが、直ぐに立て直してスマホを耳に当てた。

 三コールほど鳴ったが、出る気配がない。コールが鳴るたび、俊成の心臓が高鳴る。そして──。


『………ガチャ』

「あ、もしもし?俊成だけど──」

『おかけになった電話は、現在電波の届かない所か、電源が入っていないため、お出になりません』

 聞こえてきたのは、かつての恋人の声ではなく、俊成に現実を突きつけるような、冷たい機械音声だった。

「───そりゃ、出る訳ないよな」

 俊成はスマホをポケットに入れて、再び歩き出した。



 自宅へと戻ってきた俊成は、部屋の電気をつけて、上着を椅子にかけた。

 朱美と破局してから部屋を引っ越してはいない。一年経った今も、朱美が使っていた部屋は、そのままになっているが、朱美の私物は、全て処分している。

「あれから一年か……」

 一年経った今でも、どこかで朱美が部屋で待っているんじゃないかと期待している俊成。しかし、毎回そう思う度に、そんな都合のいい展開などある訳がない。と、現実に戻されてしまう。

 そんな時だった。

『ガタッ─』

 朱美が使っていた部屋から、物音が聞こえてきた。

「なんの音?」

 俊成はその部屋に向かった。今その部屋は物置部屋となっているから、何かが落ちた音だと思っていた。

 部屋の扉を開けて、中にはいる。するとそこには、処分したはずの朱美の私物が落ちていた。

「これって…?」

 俊成が手にしたのは、一枚の写真立てだった。そこには、三年前に行った遊園地の写真だった。

 写真に映る二人は、とても幸せそうな表情をしていた。

「懐かしいな」

 俊成は自然と呟き、中の写真を取り出した。そして次の瞬間、思わず目を疑うものを目撃した。


『ずっと大好きだよ』


 俊成はその文字を見た途端、膝から崩れ落ちた。恋人なのだから愛を伝える事は良くあること。しかし、たった数文字だけでも、俊成の心を抉るには、十分すぎた。

「俺、ちゃんと愛されていたんだな…」

 俊成は、この時初めて、朱美が今まで、自分にしてきてくれた事の重大さを思い知った。

 そして、己の迂闊な行動と、未熟さを初めて恨んだ。

「ごめん、朱美。謝っても謝りきれない」

 俊成は、写真を抱きしめて大粒の涙を流した。

 凛と交際しているのに、朱美のことが思い浮かぶのは、この事に気付かせる為だったんだろう。俊成はそう思った。


 *


 数ヶ月後、桜が舞う季節になり始めた頃、俊成は会社からの命令で異動となった。地元である名古屋を離れ、東京の支社に転勤する事になった。

「向こうでも頑張ってね」

 上司にそう告げられ、同じ部署の同僚からも応援の言葉を投げかけて貰った。

 そして、次の休みの日、東京に転勤する事を凛に伝えるべく、近くの喫茶店に足をを運んでいた俊成。しかし、凛からの返答は、俊成が思っていた返答では無かった。

「え?東京?凄いけど、私はここを離れたくないから、別れよ」

「そんなあっさり決めるの?」

 予想外の返答に俊成は戸惑っていた。

「私遠距離とかって無理なんだよね〜」

 凛は露骨に嫌そうな顔をしてスマホを構いながら返事をしていた。

「……そっか。それじゃあ今までありがとう」

 そう言って俊成はその場を立ち去った。

 どこかで追いかけてくるんじゃないだろうかと、淡い期待をしていたが、凛は追いかけて来る事はなかった。


 *


 そして、現在に至る。

 俊成の心には、朱美や凛と言った過去の恋人の事など微塵も残っていなかったが、先程の客の会話を聞いてしまった俊成の頭の中には、かつての思い出などが一気に押し寄せてきた。

 思い出と言う物は、どれだけ辛いことや楽しいことであっても、年月が過ぎて仕舞えば、過去の記憶と共に薄れていく。しかし、ある事がきっかけで、忘れていた記憶が、強制的に掘り起こされるという事も、勿論ある。

 俊成は、一度忘れようとし、目の前にあったビールを一気の飲み干し、会計を済まして店を出た。

 外に出ると、仕事終わりのサラリーマンなどがこれから飲みに行くのだろう。いろんな店の暖簾を潜っていた。

 そんな姿を俊成は見向きもせず、ただひたすらに、自宅へと足を運んでいた。

「俺は一体どこで間違えたんだろうか…」

 俊成は過去の恋愛についてそう呟いた。

 あの時もっと朱美を大事にしていたのならば、あの時ちゃんと謝ることができたのなら。そんな後悔ばかり頭に浮かぶ。忘れていたはずなのに。今更浮かんでも何もする事が出来ないのに。面と向かって謝りたい。俊成はそう思った。どこかでばったりあったりしないもんかとばかり期待していた。そんな都合のいい話なんてある訳ないのに。

 気が付いたら、玄関の前までいたが、家までの道中、後悔ばかり浮かんでいた。

「明日は休みだし、何処か出かけるか」

 家に帰ってきた俊成は、さっさと入浴を済まし、床に就いた。



 翌朝、俊成は気晴らしに出かけようと準備をしていた。

 朝食は目玉焼きをトーストに乗せたものとコーヒー。それらを口にしたのち、クローゼットの前に立った。

 平日は固っ苦しいスーツに身を包んでいる為、休日は楽な格好をする事が多い俊成。この日も、ダボっとした服とズボンに身を包み、ハイカットのスニーカーを履いて街に出掛けて行った。


 駅に着いて改札を抜けてホームで電車を待つ。行き先は決まっていないけど、現在の時刻から一番最速の路線に乗る事にした。すると、二分もしないうちに電車が来た。俊成はそれに乗り込み、車内にあった路線図を見て、降りる駅を決めた。

 電車に身を任せること数分後、目的の駅へと到着したため、下車した。

 降り立った地は新宿だった。ホームに降り立ち、改札を抜ける。

 新宿に来たけど、どこにいくのか決めていない俊成は、歩きながら目的地を考えていた。

 すると、目の前を歩いていた女性のポケットから財布が落ちたのを見つけた。俊成は迷わずそれを拾い上げて、その女性に声をかけた。

「あの、財布落としましたよ」

「あ、すみません。ありがとうございま──」

 その女性が振り返ると、俊成は思わず目を見開いた。

 そこにいたのは、自分がかつて交際していた女性、豊川朱美だったのだ。

 見間違いなんかじゃない。俊成は目の前の女性が朱美だと確信していた。女性の反応を見る感じ、朱美もこの男性が俊成だと言うことに気付いている。俊成が意を決して声を出した。

「朱美───」

「朱美、どうしたの?」

 俊成と朱美は声のした方を向いた。するとそこには、自分より少し背の高い男の人が立っていた。白シャツにデニム。体格が良くて黒髪短髪。俊成とはほぼ正反対な男性だった。

「ううん。なんでもない。財布落としちゃって、拾ってもらったの」

「あ、そうだったんですか。どうもありがとうございます」

 その男性は笑顔で答えた。

「それじゃあ、僕達はこれで。妻の財布拾ってくれてありがとうございます」

 そう言って、朱美と男性はその場から離れていった。

「さっきの人、知っている人?なんか見覚えあるような反応してたけど」

「ううん。知らない人」

 そう答えた朱美の表情には、一切の曇りなどなかった。まるで、最初から俊成の事なんて覚えていない感じにも見えた。

 遠くに離れていく二人の会話なのに、内容ははっきりと聞こえてしまった。

「………男はライター。女はマッチってこう言うことなのかな」

 俊成は涙を堪えながらそう呟いて、二人とは正反対の方へと、歩き出して行った。



                                   FIN

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