第5話:凡人の「兄」として

ミオの風邪は、俺の手厚い看病(という名の物理的接触による魔力安定化)によって、わずか一日で全快した。 世界を振り回した異常気象は嘘のように消え去り、日常が戻ってきた。 ……いや、日常は戻ってきたが、俺の心境は戻ってこなかった。


「……はぁ」


学校の屋上。昼休みの冷たい風に当たりながら、俺は一人、重いため息をついていた。 ミオが風邪を引いたあの日。 世界中がパニックになり、管轄局のヒーラーチームが何もできず、ただ俺がミオのそばにいるだけで世界が救われた。


あの事実は、俺に一つの重い現実を突きつけた。 俺は、ミオの「制御装置(リミッター)」であり、同時に、最大の「弱点」でもある。


先日襲ってきたテロ組織『ヴォイド』も、俺を『弱点』と呼んだ。 ゲートから現れたゴーレムとの戦いで、俺が瓦礫から少女を救った時、ミオは俺が死んだかと本気で狼狽えていた。


もし、俺が死んだら? もし、俺が敵に人質に取られたら?


ミオは、その「最強」の力で、世界をどうしてしまうだろう。 俺の機嫌が世界平和に直結しているのなら、俺の「不在」は、世界の終わりに直結するんじゃないか?


「……考えすぎ、だよな」


そう呟いた時、背後から声がかかった。 「考えすぎ、ではありませんよ、ユウキさん」 振り返ると、いつの間にか橘さんが立っていた。教育実習生(という名の監視役)として、すっかり学校に馴染んでいる。


「橘さん……。盗み聞きは趣味が悪いですよ」 「すみません。ですが、あなたの悩みは、そのまま管轄局の最重要懸案事項(トップマター)ですので」


橘さんは俺の隣に立ち、フェンス越しにグラウンドを眺めた。


「ユウキさん。あなたがミオさんの『制御装置』であることは事実です。そして、あなたが『ヴォイド』のような組織に狙われる可能性も、極めて高い」 「……俺は凡人ですよ。異能も魔術もない。狙われたら、ミオが来る前に終わってます」 「だからこそ、です」


橘さんは俺をまっすぐに見据えた。 「管轄局も、あなたを二十四時間警護する体制を検討しました。ですが、ミオさんがそれを『お兄ちゃんを監視するつもりか』と激怒し、警護チームが半壊しかけたので凍結中です」 「だろうな……」


俺は空を仰いだ。 守られなければ死ぬ。だが、守ろうとすれば妹がキレる。 なんと理不尽な凡人だろうか。


「……橘さん」 俺は決意を固めて、彼女に向き直った。 「俺に、戦う方法を教えてください」 「……え?」 「最強になんてなれなくていい。あいつみたいに魔物を倒せなくてもいい。ただ……自分の身くらい、自分で守れるようになりたい。凡人なりに、足掻く方法が知りたいんです」


俺がミオの「弱点」で在り続ける限り、ミオはいつまでも「最強の力」に縛られる。 俺が俺自身を守れれば、それは、間接的にミオを守ることにも繋がるはずだ。


橘さんは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情で頷いた。 「……分かりました。管轄局には、私のような非戦闘員(異能なし)でも、最低限の自衛戦闘を学ぶための訓練課程があります。そこを手配しましょう」



その日から、俺の放課後は変わった。


「ぐっ……!」 「相葉さん、足が止まってる! 相手が異能者なら、その一瞬の隙で内臓を焼かれてますよ!」


管轄局の地下にある訓練施設。 俺はそこで、学校のジャージに着替え、汗だくになっていた。 指導教官(元対魔術師部隊)の厳しい声が飛ぶ。


ミオには「橘さんの手伝い」「管轄局でゲート災害のボランティア」などと、苦しい言い訳をして家を出てきた。 ミオは少し不満そうだったが、「お兄ちゃんが人助けを……! さすがです!」と、例の勘違いフィルターで納得してくれたらしい。


俺が学んでいるのは、異能や魔術を持たない「凡人」が、いかにして異能者や魔物の攻撃をいなし、生き残るか、という技術だ。 相手の魔力感知の基礎、詠唱の妨害方法、対異能者用の閃光弾や魔力撹乱チャフといった『魔術具(ガジェット)』の使い方。 そして、基本となる対人格闘術。


「う、おおっ!」 俺は訓練用の短剣(ゴム製)を握りしめ、教官に突っ込む。 だが、俺の動きなどお見通しとばかりに、軽く腕を取られ、関節を極められる。


「痛い痛い! ギブ! ギブです!」 「戦闘中に『痛い』はありません。いいですか、相葉さん。あなたが相対する可能性があるのは、A級魔獣でもテロリストでもない。相葉ミオさんの『弱点』を狙う、卑劣な人間です。彼らは、あなたという凡人を無力化することに何の躊躇もありません」


教官の言葉が胸に刺さる。 分かっている。俺が弱いから、ミオが無理をする。俺が狙われる。 もっと、強く。 たとえ凡人でも、昨日より一ミリでもマシな自分にならなければ。


俺は歯を食いしばり、泥だらけになって受け身の練習を再開した。


そんな日々が、一週間ほど続いた。 身体中が筋肉痛で悲鳴を上げていたが、不思議と心は充実していた。 守られているだけだった自分が、初めて「守る」側になるためのステップを踏んでいる実感があったからだ。


だが、俺が何かに集中するということは、当然ながら、ある人物との時間が減ることを意味していた。


その日。 訓練でいつもより遅くなり、クタクタになって自宅マンションのドアを開けた。


「……ただいま」 「……おかえりなさい、お兄ちゃん」


リビングは、薄暗かった。 電気がついていない。 テレビの画面だけが、ぼんやりとニュースを映し出している。


ソファに、ミオが体育座りで座っていた。 その顔は、暗くてよく見えない。


「ミオ? どうした、電気もつけないで」 「……お兄ちゃん」 ミオの声は、異様に低かった。 空気が重い。まるで、ミオが風邪を引いたあの日のように、空間そのものがミオの機嫌に圧迫されているようだった。


「最近、毎日遅いね」 「あ、ああ。橘さんの手伝いが長引いて……」 「嘘」


ミオの言葉が、俺の胸を貫いた。 「……え?」 「お兄ちゃん、嘘ついてる」


ミオがゆっくりと立ち上がる。 暗闇の中で、彼女の瞳だけが、じっと俺を捉えているのが分かった。


「お兄ちゃんから、私の知らない『汗』の匂いがする。毎日、クタクタになって帰ってくる。私との時間も、減った」 「ミオ、それは……」


「私、嫌われちゃった……?」


ミオの声が、震えていた。 「私が……私が『最強』だから? お兄ちゃんは『凡人』だから……? 私と一緒にいるのが、嫌になったの……? だから、私から離れていくの……?」


まずい。 ミオのネガティブな思考が、最悪の方向に加速している。 部屋の電灯が、バチバチと火花を散らし始めた。 窓の外で、突風が吹き荒れる音がする。


橘さんのスマホが鳴りっぱなしになっている光景が目に浮かぶ。 世界の危機だ。


「違う、ミオ! そうじゃない!」 俺は慌ててリビングの電気をつけた。 そこに立っていたのは、今にも泣き出しそうな顔をした、ただの妹だった。


「どうして……!? 私が全部守るのに! お兄ちゃんは何も心配しなくていいのに! お兄ちゃんは、ただ私のそばにいて、笑ってくれれば、それでいいのに!」 ミオの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「お兄ちゃんまで、私を置いていかないで……!」


その言葉に、俺はハッとした。 そうだ。 こいつは「最強」であると同時に、世界で一番「孤独」なやつなんだ。 両親を早くに亡くし、規格外の力を持って生まれたせいで、周りからずっと「バケモノ」扱いされてきた。 唯一、昔と変わらず「妹」として接してきた俺だけが、彼女の全てだったんだ。


俺がミオから離れようとすること(実際は違うが)は、ミオにとって、世界が自分を拒絶することと同義なんだ。


俺は、そんなミオの前に立ち、震える両肩を掴んだ。 「……ごめん、ミオ。嘘ついてた」 「……!」


「俺、管轄局で訓練してた」 「……訓練? どうして……?」 「強くなりたかったんだ。お前みたいに、じゃない。俺なりに」


ミオは、意味が分からない、という顔で俺を見つめている。 俺は、ずっと胸に引っかかっていた本音を、すべて吐き出すことにした。


「俺は、お前の『弱点』でいるのが嫌だったんだ」 「……弱点なんかじゃ、ない!」 「いいや、弱点だ。俺が敵に捕まったら、お前は世界を滅ぼしてでも俺を助けようとするだろ。俺が死んだら、お前は……きっと、お前自身を許さない」


ミオは、息をのんだ。


「俺は、お前に守られてばかりの弱い兄貴でいたくない。……お前が、ゲートの魔物と戦ってる時も、テロリストと戦ってる時も、俺はただ見てるだけだ。風邪ひいて苦しんでる時も、手を握ってやることしかできない」


俺は、ミオの涙を、訓練で擦り傷だらけになった親指で拭った。


「俺は、『最強の魔術師』のミオを守りたいんじゃない」 「……え?」 「俺は……俺のたった一人の妹の『ミオ』が、こうやって泣いてる時に、その涙を拭ってやれる兄貴でいたいんだ」


力じゃない。 お前の「最強」の力なんて、どうでもいい。 俺は、お前という存在そのものを、俺の「凡人」の力で、守れるようになりたいんだ。


「だから、訓練してた。ミオに心配かけないように。ミオが『最強』の力なんか使わなくてもいいように。俺が、俺の足で立てるように」


俺がそこまで言うと、ミオは、ぽかんとした顔で俺を見つめたまま、固まっていた。 そして、次の瞬間。


「……〜〜〜ッ!!」


顔を、リンゴよりも真っ赤にして、沸騰した。


「お、お、お兄ちゃん……!?」 「な、なんだよ」 「そ、それって……そ、れって……!」


ミオは、もじもじと身体をよじらせながら、上目遣いで俺を見た。


「……うん、お兄ちゃん!」 さっきまでの絶望が嘘のように、ミオは満面の笑みを浮かべた。 「私、お兄ちゃんの『妹』でいられて、世界一、幸せ!」


ミオは、勢いよく俺の胸に飛び込んできた。 「うおっ!」 「これからは、私もお兄ちゃんの訓練、手伝います! 凡人の力(物理)が最強になるように、私が愛を込めてコーチします!」 「遠慮しとく! お前のコーチ受けたら死人が出るわ!」


俺がミオの頭をぐしゃぐしゃと撫でると、ミオは幸せそうに目を細めた。 窓の外の嵐は、いつの間にか止んでいた。 ポケットのスマホが震える。橘さんからだ。 『空間の歪み、全数値、正常化を確認。……いったい、何を言ったんですか?』


俺は「兄貴風吹かせてただけですよ」と返し、スマホの電源を切った。 世界の危機は、またしても俺の一言で救われたらしい。


「よし、ミオ! 飯にするぞ! 腹減った!」 「はいっ、お兄ちゃん! 今日は腕によりをかけますね!」


俺の「強くなる」という決意は、少しだけ形を変えて、最強の妹に公認されることになった。

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