第4話:妹の機嫌と、世界の危機

先日の『ゲート』騒動は、ミオの圧倒的な力と、管轄局(主に橘さん)の迅速な情報操作によって、表向きは「新型の魔術兵器のデモンストレーション中に魔獣が乱入した事故」として処理された。 俺が凡人の力で少女を助けた一件は、幸か不幸か、誰の目にも留まらなかったらしい。


……いや、一人を除いて。


「お兄ちゃん、あーん」 「いや、自分で食えるから」 「ダメです。昨日の戦闘(?)で、お兄ちゃんは貴重なカロリーを消費したんです。私が栄養補給を管理します。さあ、あーん」 「だから近い近い!」


月曜の朝。 あのゲート事件以来、ミオのブラコンっぷりは、尊敬という名のフィルターを経て、さらに悪化していた。 俺が「凡人の力」で成し遂げた(と彼女が思い込んでいる)奇跡は、ミオの中で「最強の魔術師である自分にもできない偉業」として神格化されてしまったらしい。


「お兄ちゃん、今日は学校までおぶっていきましょうか?」 「俺を社会的に殺す気か」


こんな調子だ。 だが、平穏に妹の機嫌を取る日々が戻ってきたことに、俺は少し安堵していた。


その日の午後。 授業中、俺は窓の外の異変に気づいた。 さっきまで快晴だった空が、急速に暗い雲に覆われていく。 春だというのに、教室の窓ガラスにバチバチと音を立てて叩きつけ始めたのは、雨ではなく『雹(ひょう)』だった。


「なんだ、この天気……」 クラスメイトたちもざわつき始める。 その時、俺のスマートフォンがマナーモードで震えた。橘さんからだ。 『ユウキさん! 今すぐミオさんの様子を確認してください!』


ミオ? あいつは今、中学に…… いや、待て。 あいつが中学にいるなら、この異常気象は何だ? ミオの機嫌が世界の天候に直結しているのは、もはや俺と橘さんの間では常識だ。


『ミオなら学校のはずですが』 『それが、たった今、ミオさんの中学校から早退の連絡が管轄局に入りました! 理由、体調不良!』


体調不良? あの規格外の妹が?


俺は血の気が引くのを感じた。 あいつが「体調不良」なんて起こしたら、それはもう「体調不良」という名の小規模な終末(アポカリプス)なのでは?


俺は教師に「妹が倒れたんで早退します!」と叫び、鞄を掴んで教室を飛び出した。 外に出ると、雹はすでにピンポン玉サイズになっていた。


マンションの五階にある自宅まで全力で駆け込む。 リビングのドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


「……ミオ?」


ミオが、ソファの上で毛布にくるまり、真っ赤な顔で荒い息をついていた。 間違いなく、高熱だ。 そして、問題はそこではない。


「……う、うぅ……お兄ちゃん……あたまが、痛い……」 ミオが苦しそうに身じろぎする。 その瞬間。


ピシッ。


リビングの窓ガラスに、盛大なヒビが入った。 ミオの周囲の空間が、まるで陽炎のようにグニャリと歪んでいる。


「は……ハックシュン!!」


ミオが、可愛らしいくしゃみを一つ。 直後。 ドンッ!! マンション全体が、震度3ほどの揺れに襲われた。


「おいおいおい……」 「……お兄ちゃん? 帰ってたの……? ゲホッ、ゲホッ……!」


ミオが咳き込む。 その咳に合わせて、部屋の電灯が激しく明滅し、テレビの電源が勝手についたり消えたりを繰り返す。


「ミオ、お前、風邪か!?」 俺が駆け寄って額に手を当てると、火傷しそうなほどの熱さだった。


「たぶん……。なんか、朝から寒気がして……。学校にいたら、くしゃみで理科室のビーカーが全部割れちゃったから……帰ってきたの……」 「お前、自分のくしゃみが衝撃波だと自覚しろよ!」


その時、俺のスマホが再び鳴った。橘さんだ。 「ユウキさん! 今どこです!?」 「家だ! ミオが風邪ひいてる! とんでもない高熱だ!」 「やっぱり! 世界中がパニックです!」 橘さんの声は、もはや悲鳴に近かった。


「ミオさんがくしゃみをするたびに、日本近海で局地的な震度3が観測されています! 彼女が咳き込むと、インド洋の海水温が瞬間的に5度上昇! このままだと巨大台風が発生します! それと、サハラ砂漠に雪が降り始めました!」


「スケールがでかすぎるだろ!」 「ミオさんの魔力が暴走しています! 体調不良で制御が効かず、彼女の『不快感』がそのまま現実世界にバグとして反映されているんです!」 「どうすりゃいいんだよ!」 「管轄局(うち)のトップヒーラー(最高位治癒術師)チームを今すぐ向かわせます! それまで、なんとか……なんとか機嫌を損ねないようにしてください!」


機嫌とかそういうレベルか、これ。 俺が電話を切ると、ミオが潤んだ目で俺を見上げていた。


「お兄ちゃん……。ごめんなさい……。私、また、迷惑……かけてる……?」 「……馬鹿野郎。風邪ひいた時くらい、迷惑かけろよ」 俺はそう言うと、冷蔵庫に向かった。


「とりあえず冷やすもんだ。ええと、氷枕……あった。あと、スポーツドリンク」 「……お兄ちゃん」 「ああ? なんだ?」 「……お兄ちゃんの、手がいい」 「手?」


ミオが、毛布の中から力なく手を伸ばしてきた。 「お兄ちゃんの手が……一番、冷たくて気持ちいい……」 「……お前なぁ」 俺はため息をつき、ミオの隣に腰を下ろした。 そして、その熱い額に、自分の手のひらを乗せた。


「……ん」 ミオが、猫のように気持ちよさそうに目を細める。 その瞬間、窓の外で荒れ狂っていた雹と風が、ピタリと止んだ。


「……お」 止まった。 俺の手のひらが、世界を救った……のか?


「お兄ちゃん……もっと……」 「はいはい」 俺はミオが寝やすいように、ソファに横たわらせ、額に手を当て続けた。


その時、ピンポーン、とチャイムが鳴った。 橘さんと、いかにも高位の魔術師っぽいローブを着た三人のヒーラーチームが、血相を変えて飛び込んできた。


「ミオさん! 大丈夫ですか! 我々がすぐにその熱(世界のバグ)を!」 「あ、橘さん、静かに。今、ちょっと落ち着いてるんで」 「え?」


橘さんたちは、リビングの光景を見て固まった。 ソファで苦しそうに寝息を立てる最強の魔術師と、その額にただ手を当てている凡人の兄。 部屋は、不気味なほど静まり返っていた。


「……ユウキさん、これは?」 「ああ。なんか、俺の手が冷たくて気持ちいいらしい。こうしてると、くしゃみも咳も止まる」 「……」 橘さんが、ヒーラーの一人に目配せする。 ヒーラーが、恐る恐る分析用の魔術具(スキャナー)をミオに向けた。


「……局長。信じられません。ミオさんの暴走していた魔力数値が、急速に安定化しています。まるで、ユウキさんの手から、過剰な魔力がアースされているかのように……」 「そんな馬鹿な!? 彼は『異能なし(ノーギフト)』のはず……!」


俺にも理屈は分からない。 ただ、ミオが俺に触れていると安心する、というのは昔からだ。それが、規格外の風邪によって、規格外の「鎮静効果」を生んでいるだけだろう。


「とにかく、このまま安静にさせるのが一番だ。橘さんたちは……悪いけど、帰ってくれるか。人が多いと、ミオがまた不安定になる」 「し、しかし! 我々には治療の義務が……!」 「お兄ちゃん……」


ミオが、うっすらと目を開けた。 俺ではない、見知らぬヒーラーたちが部屋にいることに気づいた瞬間。 再び、空気がピリついた。


「……だれ……?」 ミオが呟く。 部屋の隅に置いてあった観葉植物が、バチバチと音を立てて凍りつき始めた。 外で、再び突風が吹き荒れる音がする。


「まずい! 刺激するな!」 橘さんが叫ぶ。 「私のお兄ちゃんの部屋で……なにしてるの……? 帰って……!」


ミオがヒーラーたちを睨みつける。 彼女の周囲の空間が、今度こそ本気で歪み始める。 ヒーラーたちが恐怖に顔を引きつらせた。


「わー! わかったわかった!」 俺は慌ててミオの両目を手で覆った。 「ミオ! 大丈夫だ! この人たち、俺の見舞いに来てくれただけだから! もう帰るから!」


俺は橘さんたちに「ほら、早く!」と手で合図する。 「は、はい! お大事に! ユウキさん、世界の平和は、あなたにかかっています!」 「そんな重いもん任せるな!」


橘さんたちは、嵐のように慌ただしく部屋から出て行った。 嵐が去ると(物理的にも比喩的にも)、リビングは再び静けさを取り戻した。


「……もう、みんないなくなったぞ」 俺が手をどけると、ミオはまだ少し不機嫌そうだったが、すぐに俺の服の袖を掴んだ。 「……お兄ちゃん」 「なんだ」 「……どこにも、行かないで」 「行かねえよ。お前が治るまで、ずっとここにいてやる」


俺は覚悟を決めて、ソファの横に床ずれでも起こしそうな勢いで座り込んだ。 ミオは、俺がそう言うと、心の底から安心したように、ふ、と表情を緩めた。


「……へへ。お兄ちゃん、独り占めだ……」 「病人じゃなきゃゲンコツ食らわしてるところだぞ……」


俺はミオの額に手を当て直し、もう片方の手で、ゆっくりと彼女の頭を撫でた。 ミオは、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。


窓の外を見ると、いつの間にか空は快晴に戻っていた。 世界各地で発生していた異常気象や小規模ゲートも、ミオの安眠と共に、すべてピタリと止んだらしい。 橘さんからの『世界、鎮静化を確認。ありがとう、救世主』というふざけたメッセージがスマホに届いた。


「救世主ねぇ……」


俺は、最強の妹の寝顔を見下ろした。 世界を滅ぼせるほどの力を持った少女が、ただの「兄の手」を求めて、子供のように安心して眠っている。


(お前の機嫌一つで世界が振り回されるんなら、俺がいくらでも機嫌、取ってやるよ)


俺は、凡人の兄貴として、世界平和(=妹の安眠)のために、彼女が起きるまで、ただ静かにそばに居続けることにした。

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