第10話 供物の選択

逆さの街。

空は地面に貼り付き、建物は歪みながら静止していた。

霧島翔子と夏目剛は、鏡の間を通ってこの異界に踏み込んだ。


「……ここが“向こう”」


翔子は、足元の黒い水面に目を落とした。

そこには、過去の記憶が断片的に浮かび上がっていた。

佐野亜紀が祠の前で謝り続ける姿。

そして、顔のない少年が、焦げたお守りを握りしめて立っている。


「樹くん……」


夏目が、少年の姿に目を奪われる。

だが、少年はすぐに霧のように消え、代わりに黒い影が現れた。


「供物は、選ばれなければならない」


その声は、八咫のものだった。

だが、こちら側の八咫は、顔も輪郭も曖昧で、空間そのものが語っているようだった。


「裂け目は、均衡を求める。誰かが戻るなら、誰かが残らなければならない」


翔子は、声を張った。


「美咲を返して。彼女は、もう十分に“鍵”としての役割を果たした」


八咫は、静かに言った。


「だが、彼女は選んでいない。誰を残すか、何を捧げるか。その決断がなければ、裂け目は閉じない」


その時、霧の奥から、美咲が現れた。

彼女は、逆さの街の祠の前に立ち、静かに翔子を見つめていた。


「翔子さん……来てくれたんですね」


翔子は駆け寄り、彼女の手を握った。


「戻ろう。もう、ここにいる必要はない」


美咲は、首を振った。


「でも、誰かが残らなきゃいけない。それが、ここの“法則”なんです」


夏目が、静かに言った。


「ならば、私が残る。息子の痕跡がここにあるなら、私はそれを追う。美咲君を返してくれ」


翔子が振り向く。


「所長、それは……」


「私は、警察官として多くの命を見送ってきた。だが、息子だけは、見送れなかった。

この場所で、彼の“声”を聞いたことがある。ならば、私はここに残る意味がある」


八咫は、静かに頷いた。


「供物の選択がなされた。裂け目は、安定する」


美咲の足元に、黒い水面が広がる。

それは、鏡の間への帰路だった。


翔子は、夏目の手を握った。


「必ず、迎えに来ます。所長を置いていくつもりはありません」


夏目は、微笑んだ。


「その言葉を、信じよう」


美咲と翔子は、水面に足を踏み入れた。

逆さの街が、静かに彼女たちを送り出す。

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