第9話 鏡の裂け目

探偵社の応接室。

鏡の間から戻った翔子は、机に突っ伏したまま眠れずにいた。

美咲の姿が鏡の中に消えてから、すでに三日が経過していた。


「裂け目は閉じたはず。でも……彼女の気配が、まだ残ってる」


翔子は、鏡の前に立ち、そっと手を伸ばした。

鏡は、静かに波打ち、微かな“反応”を返す。

それは、完全に閉じた扉ではなく、何かが“向こう”から触れているような感触だった。


「美咲……あなたなの?」


その時、鏡の表面に一瞬だけ、逆さの街の映像が浮かんだ。

空が地面に貼り付き、建物が歪んでいる。

そして、祠の前に立つ美咲の姿が、ぼんやりと映った。


「見えた……!」


翔子は、急いで蓮見怜に連絡を入れた。


「鏡が反応した。美咲の姿が映った。裂け目が、また開きかけてる」


蓮見は、資料室で古文書をめくりながら答えた。


「鏡の間は、供物が通った後も、完全には閉じないことがある。特に、“未完の供物”だった場合は」


「未完?」


「美咲さんは、向こうに行ったけど、選択をしていない。誰を残すか、何を捧げるか。その“決断”がなされていない限り、裂け目は安定しない」


翔子は、鏡を見つめながら呟いた。


「じゃあ……彼女は、まだ“選んでない”。それが、戻れない理由」


その時、所長室の扉が開いた。

夏目剛が、静かに現れる。


「鏡が反応したか」


翔子は頷いた。


「所長。もう一度、鏡の間に行かせてください。美咲を連れ戻す。今度こそ、彼女を“鍵”ではなく、“人”として扱いたい」


夏目は、壁に貼られた息子・樹の写真を見つめながら言った。


「君が行くなら、私も行く。裂け目の奥に、息子の痕跡がある。私は、それを確かめたい」


蓮見が、通信越しに言った。


「鏡の間、再起動できます。ただし、今回は“二人”が通ることになる。裂け目がどう反応するかは、未知数です」


翔子は、鏡の前に立ち、深く息を吸った。


「美咲。待ってて。今度は、あなたを“選ぶ”ために行く」


夏目は、鏡に手を当てた。

鏡が、再び波打ち、黒い水面が広がる。


「裂け目が、開いた」


二人は、鏡の中へと足を踏み入れた。

逆さの街が、再び彼らを迎え入れる。

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