第三章
山吹 早絢
第三章 第一話
高校三年生になってから、わたしの世界はすっかり変わってしまった。いや、変わったのは世界ではなくて、わたしの周りの空気だ。みんなが一斉に、まるでゴールテープに向かって走り出すように、「就職」や「進学」という未来の形を口にするようになった。
そしてわたしもみんなに合わせて就職活動を始めた。進学は親に負担をかけることになるし、そもそもわたしには特別やりたい事もない。だから、早く社会に出て、誰かの役に立ちたい、そして何より「普通」になりたいと思っていた。
だが、現実は思っていたよりもずっと厳しかった。
七月から始まった就職活動。わたしが受けた会社は、これで十社目だ。どれもこれも、わたしの前に立ちはだかる分厚い壁のようで、面接が終わるたびに、鉛のように重い気持ちだけが残る。そして、その十社すべてから、丁寧だけれど冷たい「不採用」の通知を受け取った。
「早絢、今度、E株式会社で内定もらったんだ!」
クラスメイトの明るい声が、教室の隅にいるわたしの耳にも容赦なく飛び込んでくる。それは、昼休み。わたしが一人で机に向かい、次の面接の模擬質問集を読んでいるときだった。
視線を上げなくても、声の主が誰で、その顔がどれほど晴れやかで自信に満ちているか、容易に想像できた。その輝きは、わたしが一番持っていないものだ。
内定をもらったクラスメイトたちは、日に日に増えてゆく。クラスのホワイトボードに貼られた内定者のリストは、もう半分以上が埋まっているのだろうか。
その名前を見るたびに、胸の奥がきゅう、と締め付けられる。自分だけが、この流れから取り残されてゆくようだ。まるで、高速で走る電車から一人だけ振り落とされてしまったように。
辛い。辛い。辛い。
わたしは、心底そう思った。誰かを妬んでいるわけではない。クラスメイトが努力して勝ち取った結果だということは分かっている。しかし、先に受かってゆくみんなを見るのは、まるで自分の無能さを、毎日毎日、突きつけられているような感覚だ。
わたしがこんなにも落ち続けるのは、きっと、わたしのどこかが「おかしい」からだ。面接官は、わたしのどこを見て不採用を決めたのだろう。履歴書の自己PRが弱かったのか、面接での言葉遣いが少しどもってしまったからか。
それとも、ただ、そこにいるわたしの醸し出す雰囲気が、暗くて頼りなく見えたからだろうか。
全部、自信が無い。全部、当てはまっている気がする。
わたしは、昔からずっと暗い子だった。中学校の頃は、そのせいでひどいいじめにも遭った。ロッカーにゴミを入れられたり、上履きをすてられたり、悪口を書かれた紙が机に入れられていたり。思い出すだけで、胃の奥が冷たく凍りつくような、悪夢みたいな日々が続いた。
あの時、わたしがターゲットにされたのは、わたしが「普通」ではなかったからだ。輪に入れず、いつも一人でうつむいていて、何を言っても言い返せない、そんな弱々しい存在だったからだ。
だから、高校に入ってからは必死で努力した。目立たないように。誰にも迷惑をかけないように。笑顔を張り付けて、周りの会話に少しだけ相槌を打って、空気を読んで、「普通の子」でいられるように。
だが、それはあくまで、表面的な取り繕いだ。わたしの内側には、ドロドロとした暗い澱のようなものが、ずっと溜まっている。それは、過去のいじめの記憶であり、「どうせわたしなんて」という自己否定の感情であり、そして何よりも、「また誰かに嫌われるかもしれない」という、底知れない恐怖心だ。
面接で少しでも失敗すると、その恐怖が波のように押し寄せてくる。
「今の言い方、変だったかな」
「わたし、ちゃんと目を見て話せてたかな」
「きっと、面接官の人はわたしを見て、『暗い子だ』って思ったよね」
家に帰ってからも、布団の中でぐるぐると考えが巡る。今回の失敗が原因で、また誰かに見下されるのではないか、蔑まれるのではないか、あの頃のように避けられるのではないか。そんな不安が、胸を締め付けて離れない。
就職活動は、わたしにとって「普通」の社会に滑り込むための、最後のチャンスだ。ここで成功しなければ、わたしは一生、あの「普通」じゃない暗いわたしのまま、社会の隅っこで生きていかなくてはいけない気がする。
わたしが求めている「普通」とは、特別なことではない。ただ、誰にもいじめられず、誰にも笑われずに暮らしてゆくこと。ただ、それだけなのだ。
次に受ける会社は、小さな事務職の募集だ。倍率は高くないと聞いている。今度こそは、今度こそは絶対に受かりたい。
模擬質問集のページをめくる指が、震えているのが分かった。
今のページ、しっかり読めているのだろうか。
一文字一文字を目で追っているはずなのに、頭に入ってこない。文字が、過去のいじめっ子の顔や、冷たい不採用通知の文字に重なって見えてくる。
「深呼吸。大丈夫、深呼吸」
小さく、誰にも聞こえないように呟いて、わたしはまた質問集に目を落とした。
もし、この次の面接でも失敗したら。
もし、また不採用の通知が来たら。
わたしは、またあの暗いトンネルの中に引き戻されてしまうのだろうか。普通からどんどん遠ざかって、誰からも必要とされない存在になってしまうのだろうか。
そう考えると、喉の奥がきゅっと詰まって、呼吸すらままならない。
「普通」になりたいという願いと、過去の恐怖。その二つが、わたしの心の中で激しくせめぎ合っている。わたしは、見えない何かにずっと怯えながら、今日も「普通」という名のゴールを目指して、重い一歩を踏み出すしかないのだ。
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