第2話 ボツネームの先に
夜明け前の午前4時。 世界は湿気で重くなった空気が漂っていた。そんな中、微妙に売れてる若手漫画家、三崎れある(27歳)は散らかったアパートの一室で項垂れていた。机の上にはボツネームが山積みになっている。それでも、あと1日の締め切りが迫っていた。
「もう駄目だ。何を描いても面白くない...」
れあるが描くのは、壮大な世界観を持つファンタジー作品だ。この作品で大手出版社の週刊誌デビューを勝ち取ったが、それ以降は漫画家として伸び悩んでいた。複雑な設定や読者受けを狙いすぎた捻りのせいで、物語は本来の想定からどんどん迷走してきている。掲載順も落ち続け、読者からも打ち切り寸前の作品と言われるようになっていた。編集者からのダメ出しも多くなり、しばらく納得のいくネームが一枚も描けていない。
れあるは完成しなかったネームを何度も何度も丸めてゴミ箱に投げ入れる時間が続く。その度に、夢を追って上京してきた頃の情熱が消えていくのを感じていた。
「クソッ。こんなことなら誰か代わりにアイデアを出してくれればいいのに...もう、猫の手も借りたい」
そう呟き、顔を覆ったその時だった。ピンポン。インターホンが鳴った。恐る恐るモニターを見ると、猫が扉の前に立っていた。
「早朝にご苦労様です。『猫の肉球ても借りたい』、そのお言葉、確かに承りました」
れあるは猫が喋る光景に驚愕していた。
(これは幻なのか...)
「漫画家様のように、私のような猫が喋る光景を夢と思われることもよくあります。しかし、現実です」
れあるは猫を外でずっと待たせるのは可哀想に思い、とりあえず家に入れた。
家に入ったオテ猫は、早速れあるの丸めたネームを一つ一つ丁寧に広げ始めた。
「おい!?勝手にうろちょろするな。っていうか、ゴミ漁るな!」
「私は漫画家様の切実な願いを受け、お手伝いに参上いたしました。あと、これはゴミではありませんよ。あなたの情熱です」
オテ猫は、れあるが「単純すぎる」と諦めて捨てた最初の設定メモを肉球で指し示した。
「ふむ、この初期設定、とても魅力的ですね。なぜこれを捨てたのですか?」
「こんなシンプルな展開じゃ、今の読者は満足しないだろ。もっと、世界を広げないと...」
オテ猫は静かに首を振った。
「漫画家様、私から見るとあなたは読者の満足ばかりを追い求め、ご自身の純粋な感情を置き去りにしているように感じます。本当に描きたいものは、最初からここにあったのではありませんか?」
オテ猫は、れあるが最初に描いた、ただの落書きのようなキャラクターのスケッチを指した。れあるは久々にスケッチを見ると、物語のキャラクター達の初期デザインのページがあり、今のネームの主人公よりも遥かに表情が生き生きとしているように見えた。
「読者の心に響くのは、壮大な世界観や設定だけではありません。この子達の息遣いです。この子達の動きに合わせていると世界観も深みが増していきますよ」
オテ猫はそう言うと、真っ直ぐに真っ白な用紙へと向かった。そして、れあるの使いかけのペンを肉球でそっと持ち上げた。
「さあ、一緒にこの子達に命を吹き込みましょう!」
れあるはオテ猫の言葉にハッとした。周りの評価を気にしすぎて、この物語で何を見せたいのかを完全に忘れていたのだ。
れあるは再びペンを握り、オテ猫が指し示した設定資料を元に物語の続きを考えるようにした。複雑な設定は削ぎ落とされ、当初から想定していたキャラクター達の熱い生き様を目立たせるように物語を作った。オテ猫と一緒に資料などを確認し、物語が矛盾しないように作業を進めて行った。れあるはオテ猫と一緒に作業を進める中で、久々にワクワクした気分で物語を作ることができた。
数時間後、新しいネームが完成した。このネームは漫画家としての魂が注がれた力強い展開になっていった。
「これだ!俺が描きたかったものは!」
れあるが歓喜の声をあげた時、オテ猫は満足そうに伸びをした。
「さて、私のお役目はここまで。この借りを返す義務はございませんが、一つだけお願いがございます」
「え、何?画材か?それともアシスタント代?」
「画材もお金も結構です。対価として、少しだけ私を撫でてください」
(それだけで良いのか?)
少し困惑しながらも、れあるはオテ猫を撫でてあげた。
「ニャア...癒されました。ネーム作成ご苦労様でした。あなたの情熱が続く限り、この物語の魅力はもっと増していくでしょう」
(撫でて喜ぶところは普通の猫だな...)
「オテ猫君。一緒に考えてくれてありがとう」
「また、心から『猫の肉球ても借りたい』と願われた時、お会いしましょう」
オテ猫はそう言って、ネームの完成を讃えるような温かい朝日が差し込む扉から帰って行った。
ネームが完成した数日後、れあるが提出した新しいネームを見た編集者は、いつになく真剣な顔で言った。
「...れある君。これはこれまで以上に盛り上がるだろうね」
れあるの心は、物語が続くプレッシャーではなく、良い作品を作る情熱で満たされていた。
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