猫の肉球(て)も借りたい

佐藤ろく

第1話 満月のオムライスを

 夜の闇に沈む有名洋食レストラン「レ・ヴァント」。オーナーシェフの鈴木悠人(40歳)は、閉店後のキッチンで項垂れていた。磨き上げられた調理台に、疲労の色濃い顔が映る。明日は料理評論家が来店する日だ。高評価を貰うため、何日も前から新メニューの仕込みを重ねてきたが、新しいソースの味がどうしても決まらない。長年料理人として培ってきた経験と勘が、なぜか上手く働かないのだ。

 何度も試作を繰り返しても、理想とする「満月のように澄んだ味わい」には程遠いまま時間だけが過ぎて行った。疲れ果てた頭はもう何も考えられない。


「こんなことなら、猫の手でも借りたい。いや、猫が料理できるわけないか...」


そう呟き、諦めかけたその時だった。鍵のかかったはずのレストランの扉からノックされた音が聞こえた。恐る恐る扉を開けると、そこには一匹の猫がちょこんと立っていた。その猫は鈴木をまっすぐ見つめると、人間のように丁寧にお辞儀をした。


「私はオテ猫と申します」


落ち着いた声が聞こえ、鈴木は目をこすった。疲労からくる幻覚だろうか?


「ね、猫が喋ってる...」


「あなた様の切実な願いを受け、お手伝いに参上いたしました。『猫の肉球ても借りたい』、そのお言葉、確かに承りました」


オテ猫はそう言うと、真っ直ぐに鈴木のレシピノートへと向かった。


「こ、こら勝手に」


オテ猫はノートのページをめくり、オムライスのレシピをじっと見つめる。


「ふむ、私のような者には少々複雑すぎるように見えます」


そして、オテ猫はスッとキッチンの中央に立つと、鈴木がいつも使っている道具や食材を一つ一つ、ゆっくりと指差していった。


「シェフ、あなたは特別なものばかりを追い求め、足元にあるものが見えてないのかもしれません。このデミグラスソースは既に完成しています」


何か画期的な工夫が必要だと思っていた鈴木は言った。

「だ、だが、高評価を得るためには新しいソースが...」


オテ猫は、鈴木が普段から当たり前のように使っている、ごく普通のブラウンマッシュルームを手に取った。


「この子がどれほどの香りを秘めているか、ご存知ですか?」


オテ猫は、フライパンに少量のオリーブオイルを引き、そのマッシュルームを薄くスライスして入れた。そして、肉球でコンロのつまみを微かに動かし火加減を調節し、まるで瞑想でもしているかのように、じっくりとソテーし始める。その動きは、長年訓練された職人のようだった。焦げ付く寸前で火からおろし、香ばしい匂いがキッチンに広がる。鈴木は普段の調理法では引き出せなかったマッシュルームの深い香りにハッとした。


(こんなに良い香りがするのか...)


「次に、これ」


オテ猫は、鈴木がいつも使う新鮮な卵を一つだけ指し示し言った。


「卵は卵黄と卵白のコントラストこそが美しい。きめ細やかに混ぜると、優しいテイストを与えます」


オテ猫は、素早く卵をかき混ぜる鈴木の手を、肉球でそっと制した。


「あとは盛り付けだけです」


オテ猫は、皿に盛られたチキンライスに、香ばしく焼きあげたマッシュルームと絶妙な火加減で焼かれたオムレツをその上に乗せた。そして、レ・ヴァントで普段使っているデミグラスソースを静かにかけた。


「さあ、シェフ。味見をお願いします」


鈴木は、恐る恐るスプーンを手に取り、一口食べた。口の中に広がるのは、これまで感じたことのないマッシュルームの深い香りと、卵のまろやかさ、そしてデミグラスソースの優しい甘みだった。それは、まさに鈴木が求めていた「満月のように澄んだ味わい」だった。


鈴木は、ただ呆然と皿を見つめた。


「お、美味しい…」


オテ猫は満足そうに鈴木に向かってお辞儀をした。


「シェフの腕ならもっと美味しく出来上がるはずです」


鈴木は料理人としての知識を得ていく中で、逆に迷子のような状態になっていたと気づかされた。


「君のおかげでやっと納得のいくレシピを見つけたよ。難しいことばかりしようとしすぎて、今持っているものを活かすことを見失っていたよ」


「さて、私のお役目はここまで。この借りを返す義務はございませんが、一つだけお願いがございます。」


「え、何?お金か?」


「お金は結構です。対価として、少しだけ私を撫でてください」


「え、それだけ?」


オテ猫は、満足そうに撫でてもらった。


「ニャア...満たされました。ご苦労様でした、シェフ」


(こういうところは普通の猫みたいだな...)


「また、心から『猫の肉球ても借りたい』と願われた時にお会いしましょう」


オテ猫はそう言って帰って行った。


 翌朝、料理評論家は昨日完成させたオムライスを一口食べた後、静かに目を閉じ、うなずいた。


「これは、傑作ですね。見た目も満月のように美しい」


高い評価を貰った鈴木の心は、これまでの疲労ではなく、新たな境地に立った自信で満たされていた。

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