第三のループ:虚無の静寂


夜は冷たく、風はハルの肌を切り裂くように吹きつけていた。

ほとんど人気のない街を、彼はゆっくりと歩いていた。

遠くで瞬くクリスマスの灯りが、まるで他人事のように無表情に輝いている。


体は重く、前の戦いの痛みがまだ残っていた。

そして心は、深い底なしの闇に沈んでいるようだった。


――どれくらい経ったんだ、最後に目を覚ましてから。

時間の感覚はもう消えていた。

痛み、怒り、絶望。

すべてが混ざり合い、溶けていた。


この世界は……本当に同じなのか? それともただの影か。

問いが頭の中で何度も反響する。

だが答えは返ってこない。

そして――もしかしたら、もう知りたくもなかったのかもしれない。


ようやく家にたどり着いた。

両親から受け継いだ小さな家。

古びた天井には染みが浮かび、壁の塗装は剥げ、沈黙だけが支配する空間。

外の世界を忘れられる、唯一の場所だった。


ドアを開けると、ハルはリュックを椅子に放り投げ、そのままベッドに倒れ込んだ。

軋む木の音が響き、深いため息が漏れる。


目を閉じても、眠りは訪れない。

代わりに、あの声がまた響いた。

冷たく、静かで、遠くの鐘の音のように。


――また、そんな風にループを無駄にするつもりか?


ハルは顔をしかめ、目を開けた。

「……またお前か。」

低く呟く。

「飽きないのかよ。」


窓際には、フードを被った存在が立っていた。

外の街灯の光がカーテンを透かし、その輪郭だけを浮かび上がらせる。


「ハル・タカミネ。」

影の存在は、わずかに失望したような声で言った。

「三度目のループ……だが何も変わらない。

食って、寝て、愚痴って、また繰り返す。

それで満足なのか? 多くの者が命を懸けてでも欲しがる“機会”を、こうして無駄にして。」


ハルは鼻で笑った。

その笑いには疲れと皮肉が混ざっている。

「……“機会”ね。最悪の日をもう一度やり直せるチャンスか。

お前の言う通り、最高のプレゼントだよ。」


「お前はわかっているつもりだが、何も見えていない。」

存在はゆっくりと歩み寄りながら言った。

「この世界は奇妙なものだ。

与えられた“力”や“機会”には、必ず理由がある。

それは偶然ではなく――世界そのものの“必要”によって動く。」


ハルは顔を上げた。

「じゃあ俺は、その“世界”の駒ってわけか?

お前が眺めて笑うための、くだらないピース?」


「――かもしれない。」

影は淡々と答えた。

「あるいは、それ以上の存在かもな。」


その言葉の直後、影は音もなく消えた。

再び、部屋には静寂だけが残る。


ハルは天井を見つめながら息を吐いた。

「“それ以上”ね……笑わせるなよ。」


そのまま横になり、布団を引き寄せ、目を閉じた。


朝は灰色だった。

重いまぶたを開け、ハルは空腹を感じながら体を起こす。

足取りも鈍く、インスタントコーヒーを淹れて無言で飲み干した。

時間は止まっているようで、世界だけが遠くを流れていく。


一日中、同じだった。

テレビの雑音が空気を埋め、コーヒーの味もしない。

考えることは多いのに、何も考えていない。

レナのこと、あの事故、裏路地、そしてあの声。

どんなに思い出しても、胸の奥に残るのは――虚無だけ。


夕方になり、ようやく食料が尽きたことに気づいた。

冷蔵庫を開け、ため息をつく。

「……はあ、やっぱりな。」


グレーのパーカーを羽織り、フードをかぶって外に出た。

街は煌びやかで、人々は笑い、世界は幸福そうに回っている。

それなのに、自分だけがその流れに弾かれている気がした。


角を曲がったとき――見えた。

レナ。

彼女は別の男と並んで歩いていた。

“センパイ”と呼んでいた、あの男と。


二人は笑い合い、視線を交わし、まるで世界に彼しかいないように見つめ合っていた。


ハルは顔を背け、拳を握りしめた。

「……くそっ。」

小さく吐き捨てる。

「どんな地獄でも、結局これかよ。」


フードを深く被り、足早に通り過ぎた。


スーパーでは必要最低限の物だけを取った。

米、ラーメン、パン。

無表情のまま会計を済ませ、外に出る。

冷たい風が再び顔を切り裂く。


――だが、運命は休ませてはくれなかった。


向こうの路地に、見覚えのある男がいた。

前のループで殴り倒した不良。

顔には包帯が巻かれている。

その隣には、顎に傷を持つ大柄な男。岩のような瞳。


「おい、兄貴! あいつだよ!」

小さい方の男が叫ぶ。

「昨日、俺をぶん殴ったヤツ!」


「任せとけ、カトウ。」

大男が指を鳴らす。


重い足音が近づいてくる。

ハルは一歩後ずさりし、心臓が高鳴る。


「……結局、お前らも俺を放っておかないんだな。」


男は笑った。

「“平和”なんて、お前には似合わねぇよ。」


次の瞬間、拳が閃いた。

稲妻のような一撃が、ハルの腹に突き刺さる。


呼吸が止まった。

灼けるような痛みが全身を貫き、肺から空気が逃げた。

膝が崩れ、冷たい地面に手をつく。


大男が襟を掴み、無理やり持ち上げた。

「弟に手を出す前に、よく考えるんだったな。」


そう言って、再び地面に叩きつけた。

血が喉を上り、咳き込みながら、ハルは世界が歪んでいくのを感じた。

車の音、人の足音、鐘の音――全部が遠くで混ざり合う。


「……また、か……」

その言葉を最後に、意識が闇に沈む。


そして――


チリン……チリン……


また、あのクリスマスの鐘が鳴った。

同じ光景、同じ寒さ、同じ夜。


ループは閉じ、ハル・タカミネは再び、始まりへと戻った。

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