第21話 腹黒賢

 米沢は、ボーガン刀の冷たい金属の感触を、自分の皮膚の一部のように感じながら、末たか子と、その手下たちを睨みつけた。清算人が最後の力を振り絞ってくれたこの武器が、広田の正義をロンドンへ運ぶための、最後の希望だ。

​ 末たか子が吹き矢を構えたその時、再び、倉庫街の空気が張り詰めた。今度は、これまでの追っ手たちの登場とは異なり、静かで、粘着質な、計算された悪意の気配が、米沢の背後から迫ってきた。

​「末たか子。その『毒殺』は、あまりにも**『場当たり的』**だ」

​ 低く、抑揚のない声が、米沢の背後、倉庫の壁の影から響いた。その声には、一切の熱量がなく、まるで、最悪の予言を淡々と読み上げるかのような響きがあった。

​ 米沢は、反射的に振り向いた。

​ そこに立っていたのは、一見すると、どこにでもいる優秀なビジネスマンのような風貌の男だった。 完璧に着こなしたグレーのスーツ。細身の体躯。そして、知的な印象を与える眼鏡。しかし、彼の眼差しは、その知的な外見とは裏腹に、底知れない**「汚い策略」**を内包していた。

​ その男は、静かに、そしてゆっくりと、両手を胸の前で合わせた。まるで、深い思案を巡らせているかのように。

​「米沢涼子。私は、君の**『行動経済学』**を徹底的に解析させてもらった。君の行動は、全て『希望』や『正義』といった、非合理的な感情に依存している」

​ 男は、米沢の胸元に抱かれた融資記録を一瞥し、冷酷に告げた。

​「私は腹黒賢(はらぐろけん)。『インペリウム』の**『戦略監査室長(ストラテジー・オーディター)』。私の仕事は、君たちのような『非合理的なエラー』を、最も『効率的かつ、ダーティーな方法』**で、システムから排除することだ」

​末たか子は、腹黒賢の登場に、扇子を下ろした。

​「腹黒室長…!なぜ、貴方が直々に…!私の『興行』に、口を挟むつもりですか?」

​腹黒賢は、末たか子を一瞥し、感情のない声で言い放った。

​「『興行』は、感情的な混乱を招く。私の戦略は、常に**『最小の労力で、最大の絶望』を生み出すことにある。君の毒殺など、米沢涼子に『悲劇的な英雄』という余計な『価値』**を与えかねない」

​彼は、米沢に再び向き直った。その眼鏡の奥の瞳は、米沢の過去、現在、そして未来の行動を、全て見透かしているかのように、冷たい。

​「米沢涼子。君の選択肢は、既に**『絶望的な二択』しかない。一つ。ここで私に記録を渡し、『静かな死』を迎える。二つ。ここで無駄な抵抗を試み、その結果、『君の愛する者全てを、私の汚い策略で蝕まれる、最も苦痛に満ちた死』**を選ぶ」

​ 腹黒賢は、米沢の最も恐れるものを、ピンポイントで突きつけた。彼の武器は、ボーガンでも、刀でも、筆でもない。それは、**人の心の弱みを突く、冷酷な『戦略』**だった。

​「その融資記録は、確かに日本の経済の癌を暴く『正義の鍵』だ。しかし、君がそれを公表する前に、私は、君の過去の善行を全て『汚職』に書き換え、君を**『稀代の悪女』**として社会的に抹殺する手はずを、既に整えている」

​ 腹黒賢は、静かに微笑んだ。その笑みは、知的な顔立ちと相まって、底知れぬ悪意を感じさせた。

​「さあ、米沢涼子。君の**『非合理的な正義感』が、ここで、『最も合理的な絶望』**に屈するのを見るのは、実に興味深い。君の選択は?」

​ 米沢は、全身の血が凍りつくのを感じた。広田の死でさえ、この男の放つ、精神的な圧力には及ばない。彼女の正義を、彼女の過去を、全て否定し、汚物に塗り替える戦略。それが、この腹黒賢の真の武器だった。

​ 米沢は、手に持つボーガン刀を、強く握りしめた。彼女に残された選択は、ただ一つ。この**「策略の悪魔」**を、物理的に排除し、夜明けへと駆け抜けることだけだ。

​「くだらない**『戦略』**は、力の前には無力よ!」

​ 米沢は、腹黒賢の冷酷な戦略を打ち砕くべく、ボーガン刀を構え、最後の突撃を開始した。

 

 米沢涼子は、己の信念を嘲笑する腹黒賢の冷たい戦略に、全身の血を沸騰させた。この男の存在そのものが、彼女が戦ってきたあらゆる理不尽を凝縮している。彼女の正義を、彼女の存在を、最も汚い方法で無効化しようとする悪意。

​「くだらない**『戦略』**は、力の前には無力よ!」

​ 米沢は咆哮し、ボーガン刀を構え、腹黒賢に向けて一直線に突進した。彼女の狙いは、その「戦略」を巡らす中枢、すなわち腹黒賢の肉体を直接叩き潰すことだ。

​ 末たか子の手下たちが即座に銃を構えるが、米沢の突撃はあまりにも速く、そして直線的だった。彼女の体は、清算人から託された最後の使命と、兄・拷希の理不尽な闘いを知った怒りによって、限界を超えた速度で駆動していた。

​ 腹黒賢は、突進してくる米沢を前にしても、微動だにしなかった。眼鏡の奥の瞳に、焦りの色は一切ない。

​「予測通り。感情的な突撃は、**『非合理』**の極みだ」

​ 腹黒賢が静かにそう呟いた瞬間、彼の背後の倉庫のシャッターが、轟音を立てて開き始めた。闇の中から現れたのは、重武装した数人の警備員――そして、彼らが手にしていたのは、巨大な高圧放水銃だった。

​「物理的な暴力に訴えるのは、私の趣味ではないが、**『非効率』な抵抗には、『環境的な排除』**が最も効果的だ」

​ 腹黒賢が手を一振りすると、警備員たちは無言で放水銃のトリガーを引いた。

​ ゴオオオオオオ!

​ 凄まじい水圧を持った水流が、米沢の突進路を遮るように、壁と床に激しく叩きつけられた。それはまるで、物理的な**『水の壁』**だ。

​ 米沢は水流を避けるべく急停止したが、水は倉庫の床に溜まり、一瞬で彼女の足元を滑りやすい罠に変えた。バランスを崩した一瞬、背後から末たか子の手下たちが、吹き矢ではなく、スタンガンを手に襲いかかってきた。

​「とらえろ!」

 末たか子が鋭い声を上げる。

​ 米沢は滑る足元で体勢を捻り、ボーガン刀の鞘でスタンガンの放電をガードした。しかし、四方八方からの水と、手下たちの攻撃に、身動きが取れない。

​「戦術的撤退よ!」

​ 米沢は、融資記録の入った防水バッグをきつく抱きしめ、最後の力を振り絞った。彼女は、地面に溜まった水の力を利用し、逆にそれを推進力に変える。ボーガン刀の刃先を床に突き立て、テコの原理で体を大きく跳ね上げた。

​ 跳躍した彼女が向かったのは、天井付近の換気口だった。

​「逃がすな!どこへ行く気だ!」

 腹黒賢が珍しく声を荒げる。

​「日本経済の中心じゃない!文化と歴史の闇の中よ!」

​ 米沢は換気口に滑り込み、内部へと身を潜めた。放水銃の届かない、狭いダクトの中を、泥まみれになりながらハイハイで進む。

​ダクトを抜けた先は、倉庫街の裏通り。すでに夜が明けている。米沢はボロボロの体でタクシーを捕まえ、行き先を告げた。

​「京都駅まで、一番速い新幹線で。できるだけ目立たないルートで!」

​ なぜ京都か。それは、彼女の記憶の中にある、一つの手がかりだった。広田が最期の言葉で漏らした「古都の裏側」という言葉。そして、この国で最も「伝統と格式」という名の隠蔽工作が根付いている場所。

​ 米沢涼子は、ロンドンへ向かうための「正義の鍵」を握りしめ、派遣会社の汚い策略と、インペリウムの冷酷な戦略監査室長から逃れ、日本の古都、京都の深い闇へと身を投じた。

​ 彼女の戦いの舞台は、今、巨大な工場から、千年の歴史が眠る古都へと移った。

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