第12話 必殺ハエ叩き!
米沢は、負傷した広田を背負い、手に握りしめた融資記録の原本を、まるで松明のように掲げて走った。重厚な鉄の扉を抜け、古びたエレベーターシャフトの底へ戻る。しかし、そこには、米沢の予想を裏切る者が待ち構えていた。
「やあ、二人の『涼子』さん。随分と派手に暴れてくれたね」
シャフトの影から、不気味な声が響いた。そこに立っていたのは、全身黒ずくめの服に、顔を完全に覆い隠す漆黒のマスクをつけた大柄な男だった。男は左手に、医療用と思しき巨大な注射器を改造したような器具を持ち、右手に、なぜか、古びたハエ叩きを握っていた。
「あなたは…!カラスの増援ね!」
米沢は、警戒しながら広田をゆっくりと壁に預けた。
「増援?いやいや、私は『インペリウム』における、ちょっとした『清算人(クレンザー)』でね。
君たちが手に入れた『不良債権』は、汚れた記録だ。清算するには、まず『腸内環境』を整えるのが一番でね…」
黒マスクの男は、ニヤリと笑ったように見えたが、マスクのせいで表情は全く読み取れない。その異様な姿と、手に持つ道具の組み合わせに、米沢の背筋に冷たいものが走った。
「くだらない冗談はやめて!何のつもり!」
「浣腸だよ、涼子。君たちの身体に溜まった、余計な『正義感』と『希望』を根こそぎ洗い流してあげるのさ。そうすれば、素直にロンドンへの計画に協力できるだろう?」
男は、持っている注射器のような器具を、不気味に上下させた。
米沢は一瞬、戸惑いを覚えた。銃やナイフには慣れているが、この異様な状況、そしてこの男の持つ独特の狂気に、反射的な戦闘態勢が遅れる。
「そんな馬鹿げた道具で、私を止められるとでも思っているの!」
「ふむ…そっちの『涼子』は、随分と頭が固いようだ。じゃあ、まずはこの『ハエ叩き』で、その頑固な頭を叩き潰してあげよう」
黒マスクの男は、奇妙な構えをとった。体は柔道家のようにどっしりとしているのに、右手はハエ叩きを日本刀のように振りかぶっている。
「来い!」
米沢は、カラスから奪った拳銃を構えた。
「ハッ!」
男は雄叫びと共に、そのハエ叩きを米沢に向かって振り下ろした。しかし、その動きは、ハエ叩きというコミカルな道具とは裏腹に、恐ろしく速く、そして重かった。
「馬鹿な!」
米沢は反射的に銃を発砲した。しかし、銃弾はハエ叩きの柄をわずかに逸れ、空を切る。男は銃弾を紙一重でかわすと、ハエ叩きの柄を巧みに使い、米沢の銃を持つ腕を打った。
バシィン!
硬質なプラスチックの柄が、米沢の腕に鋭い痛みを走らせた。銃が手から滑り落ち、コンクリートの床に転がる。
「銃は、汚れた道具だ。ハエ叩きの方が、よっぽど衛生的で、実用性があるのさ!」
男は勝ち誇ったように叫び、米沢の顔面めがけて再びハエ叩きを振りかざした。米沢は辛うじて後方に飛び退く。
(この男、ただの狂人じゃない!ハエ叩きを、完璧な体術で武器として昇華させている…!)
米沢は、倒れたカラスから奪ったバールを素早く拾い上げた。
「私のバールの方が、あなたより重い!」
「フフフ…重さではない、心よ、涼子。君の心には、まだ『宿便』が残っている!」
男は、奇妙なステップを踏みながら米沢に接近する。米沢はバールを横薙ぎに振り払うが、男はハエ叩きを巧みに盾にして受け流し、米沢の体勢が崩れた一瞬を突いた。
男は、手に持っていた浣腸器具を、米沢の腹部に突きつけた。
「さあ、清算の時間だ!」
米沢は、絶体絶命の危機に、広田の姿を思い浮かべた。傷つきながらも、正義を信じ続けた刑事の瞳。その時、米沢の脳裏に、広田がいつも口にしていた言葉が蘇った。
「『正義とは、どんなに馬鹿げた状況でも、最後の一歩を踏み出すことだ』」
米沢は、腹部に突きつけられた浣腸器具を無視し、バールを頭上に振りかざした。そして、最後の力を込めて、男の頭上めがけて振り下ろした。
「消えろ!『経済の癌』の清算人!」
男は浣腸器具を操作するのに集中しすぎていた。ハエ叩きで防御する間もなく、バールが男のマスクを粉砕した。
ガシャァン!
鈍い音と共に、黒マスクと、その下に隠されていた男の醜悪な素顔が露呈した。男はそのままぐらつき、手に持っていた浣腸器具も床に落ちた。
米沢は、息切れしながら倒れた男に近づいた。男は、ハエ叩きを手放し、意識を失っているようだ。
「…勝った」
米沢は、手に残るバールの重みを感じながら呟いた。
「すごい…米沢…」
広田が、壁にもたれながら、かすれた声で言った。
米沢は、ハエ叩きを捨て、広田を背負い直した。夜明け前の街の静寂が、エレベーターシャフトの古びた扉の向こうから、米沢たちを呼んでいる。
「急ぐわよ、広田。彼らの言う『清算』は、まだ終わってない。私たちは、この証拠をロンドンのヒースローへ向かわせる前に、この国の夜明けを呼ばなきゃならない!」
米沢は、広田を背負い、夜明け前の都心へと続くエレベーターシャフトを、這い上がるように登り始めた。彼女たちの手にある『融資記録の原本』は、日本の経済の癌を切り裂く、最後のメスとなるのだろうか。
二人の「涼子」の、脱出劇は、夜明けの光を目指して続く。
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