第9話 マックスコーヒー

 一般道に降りた米沢のセダンは、ゴトウのバンを巧みに誘導し、都心から少し外れた埠頭エリアにある、巨大な廃墟ビルへと向かっていた。ビルは、かつて経済の中心地だった頃の面影を残しながらも、窓ガラスは割れ、外壁は煤けていた。

​「ここが、夫が言っていた隠れ蓑の一つ…」

 米沢はビルを見上げ、表情を引き締めた。

​「ゴトウも入ったわ。米沢、車を隠して。ここからは潜入よ」

 広田が、ハッキングで得た情報に基づき指示を出す。

​ 二人はセダンをビルの裏手にある資材置き場の影に隠し、バールと広田の懐にある警棒だけを手に、ビルの裏口へと回った。

​ 裏口のシャッターは、錆びたチェーンと南京錠で閉ざされていたが、米沢は躊躇なくバールを差し込んだ。

​「ガチャン!」

​ チェーンが引きちぎられ、金属の甲高い音が響き渡る。

​「急ぐわよ。ゴトウは私たちを逃がすつもりはない」

​ 二人は暗闇のビル内部に侵入した。内部はコンクリートの粉塵と、カビの匂いが充満していた。米沢は携帯していた小型の戦術ライトで足元を照らし、広田は肩の傷を庇いながら、集中力を切らさないように努めた。

​ 3階に上がったところで、米沢が急に立ち止まった。

​「待って。この匂い…マックスコーヒーだ」

​ 広田は鼻を鳴らした。「缶コーヒーの?こんな場所で?」

​「ええ。このビルは電気系統が死んでいるはず。なのに、缶コーヒーの…しかも、あの練乳の甘さが強いマックスコーヒーの匂いがする。ゴトウは極度の甘党で、組織の隠れ家には必ず、自販機か缶の山を置かせていた。匂いが新しいわ。このフロアのどこかに奴がいる」

​ 米沢の元組織幹部としての鋭い感覚が、警備システムの代わりにゴトウの「個人的な嗜好」を検知したのだ。

​ 二人は音を立てないように進んだ。廊下の突き当たり、一室のドアの隙間から、微かな光と話し声が漏れていた。

​「カラス様、追跡は断念します。米沢の車のシールドが強力で、EMPも音響兵器も効きませんでした。奴らはデータセンター跡地に向かうようです」

 ゴトウの、パンチパーマに似合わない恭順な声が聞こえた。

​「よかろう、ゴトウ。あの融資記録は我々の計画の心臓だ。本部から増援を送る。貴様はそこで待機し、奴らが**『融資記録の原本』を手にするのを阻止しろ。ただし、奴らの命は奪うな。『生きた証人』**としてカラス様が利用価値を見出している」

 無線越しに、カラスの冷酷な声が響く。

​「くそっ、奴ら、まだ私たちを『利用できる道具』だと考えている!」

 広田が怒りに震える。

​「静かに。チャンスは一度きりよ」

 米沢は、バールを握りしめ、覚悟を決めた。

​ 米沢は、部屋の隣にあった消火栓のボックスを破壊し、大きな音を立てた。

​「何だ!?」

 ゴトウが警戒し、銃を構えてドアを開けた瞬間、米沢はドアの死角から飛び出し、渾身の力を込めてバールを振り下ろした。狙いは、ゴトウの武装した腕だ。

​「ぐあっ!」

 ゴトウは呻き声を上げ、自動小銃を取り落とす。しかし、鍛え上げられた肉体とパンチパーマの闘志は折れていない。彼はすぐに体勢を立て直し、米沢に組み付いてきた。

​「この裏切り者が!てめえの甘い正義なんざ、叩き潰してやる!」

 体格差は圧倒的だ。米沢はゴトウの巨体に押し倒され、バールを奪われそうになる。

​その時、広田が飛び込んだ。広田は、床に転がっていた空のマックスコーヒーの缶を拾い上げ、中身を飲み干した後の練乳のベタつきが残る開口部を、ゴトウの顔に叩きつけた。

​「甘いのはあんたの頭だ!」

 広田は警棒でゴトウの側頭部を強く打ち据えた。甘いコーヒーと練乳の刺激、そして警棒の痛みに、ゴトウの巨体が大きく揺らいだ。

​米沢はその隙を見逃さなかった。ゴトウからバールを奪い返し、彼の脇腹に渾身の一撃を叩き込んだ。

​「グハッ!」

 ゴトウは血を吐き、その場で崩れ落ちた。彼の硬質なパンチパーマは、ビルのコンクリート床に打ち付けられた。

​「行くわよ、広田。**『融資記録』**の場所へ」

 米沢は荒い息を整え、広田と共に、次の目的地である外資系金融機関のデータセンター跡地へと、夜の闇の中を再び走り出した。彼らの手には、ゴトウの無線の内容という、新たな情報が加わっていた。

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