第1章:鏡の稽古場
夜明け前の室内は、鏡の海だけをひそやかに抱えていた。長方形の鏡板が壁を埋め、そこに映る自分の輪郭が何枚にも重なっていく。律は吐息をひとつ混ぜて音楽に合わせ、また同じ組み立てを繰り返した。床に伝わる衝撃は、午後の練習の積み重ねが刻んだ小さな亀裂のように脚に残る。だがその痛みは、踊ることそのものの歓びを削ぎはしなかった。むしろ、それが律の存在を現実に結びつける錘にもなっている。
クラスは忙しなく回っていた。隣の列の佐伯はいつのまにかターンが鋭くなり、足先の線がしなやかになっている。講師は端正な声で指示を出す。――「もっとコアを使って。重心を感じて、腕は遠くへ。」その声は冷たくはなく、ただ標準を示す光のように律の背中に落ちる。律は反応した。だが動きはまだ窮屈で、空間を掴みきれない。回転の終わりでバランスを崩し、床に親指の内側が疼いた。
失敗はいつも予告なしに訪れる。跳躍の高さは足りず、着地は柔らかさを欠いた。仲間の拍手が遠くなると、律の鼓動だけが増幅される。自分の身体が知らない言葉で意思表示をするたび、彼の内側に小さな苛立ちが芽生える。努力は確かに積まれているのに、結果は指の隙間から零れ落ちる砂のようだった。
練習の合間、鏡に寄りかかって自分の顔を見た。額の汗が細い川となって頬を伝い、知らずに笑みが滲む瞬間もある。それは子供のころの記憶を呼び寄せた。舞台の照明のなかで、誰かがくすくすと笑った声が耳に残る。「下手なのに楽しそうね」。その一言は、紙片の小さな棘のように胸に刺さり、何年経っても痕を留めていた。笑い声は嘲りではなく、ただ距離をとるための合図だったのかもしれないが、幼い律はその合図を自分の定位と錯覚してしまった。
鏡の向こう側で、仲間たちは互いに励まし合い、技術を確かめ合う。だが律には、その輪が少しだけ別の光を帯びて見えた。彼らの成長は潮の満ち引きのように自然で、律は自分が潮差の影に留まっている気がした。足の裏に残る摩擦熱を感じながら、彼は問いかける。――これは本当に自分の踊りなのか。自分の手で切り拓いた道なのか。
授業の終わり、スタジオの窓から外へ出ると、夕暮れの空が薄く青を残していた。鞄を肩にかけ、律は駅へ向かう代わりに公園へ足を向ける。日常と呼べる線を一歩だけ逸らすと、世界の輪郭が静かに変わる。公園のベンチに腰を下ろすと、空気が冷えて肌に張りつく。遠くで子どもたちの笑い声が消え、街灯の間に夜の気配が差し込んでくる。
空が深くなると、ひとつの円がそれを切り取るように満ちていった。満月が上がると、景色は銀箔を貼ったように反射し、葉の縁が薄い光の輪を纏う。律は無意識に息を整え、膝を抱えて座る。足首の腫れがまだ鈍く、指先に小さな麻痺が残っている。身体は疲れているのに、心の奥で踊りは静かに蠢いている。
そのとき、昨夜の残像がふと戻ってきた。言葉にならない光景、誰かの差し出した手、白い仮面の輪郭――あれは夢だったのかもしれないと律は思う。夢と現実の境界は、この夜の月光の下で硝子のように薄くなっていた。記憶の端が光を帯び、まるで先触れのように心に居座る。
律は目を閉じ、肺の底から冷えた空気を吸った。月の光が瞼にひとすじ走り、遠くで風が草を撫でる音だけが聞こえる。その静かな合図に、彼の内側で何かがふるえる。踊りたいという純粋な欲が、劣等感に押し込まれている一方で、まだ消えずに残っていることを確かめるように。
ベンチにひとり、律は小さく笑った。答えはまだ見つからない。それでも、身体の痛みと心の苛立ちを抱えたまま、彼はもう一度足を伸ばすつもりでいる。そして満月は、遠い約束のように空に留まっていた。
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